許昌文物を訳してみた(2009.10.21)

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<沿革>
 河南省中部、黄淮平原の西の縁に位置し、中原の腹部にあって、原野は広く、農耕を生業とする。境内の西北部には丘陵、中東部には一望千里の平原があり、潁河・清潩河・小洪河・小泥河などが全域にわたって縦横に走っている。四方は、北は長葛、東は鄢陵、南は臨潁県、西は禹州・襄城と隣接し、中部に許昌市区を抱き込む。

 許昌は長く輝かしい歴史を持つ。
 境内の霊井遺址では、細石器を主とする旧石器時代晩期の遺物が発見されている。丁集・丁庄遺址では裴李崗文化の遺物が出土しており、謝庄・泉店・崗於等の遺跡は仰韶・龍山文化の遺物を豊富に含み、上万年以来の人類の活動の痕跡は後を絶たない。

 夏は『禹貢』の豫州の域に属すとし、夏殷の時代は昆吾国の旧地とする。
 西周の初め、武王は太岳の後裔文叔を許に封じ、許国となす。旧跡は今の県内東の張藩郷盆李村にある。
 春秋の時、許は鄭の属国となった。国が弱小であったため、鄭の圧迫を受けるところとなり、周の簡王十年(前576年)に叶に避住する。のちに鄭、楚の猛威に晒され、転々と避難を繰り返し、戦国の初期ついに楚により滅亡するところとなる。
 戦国期、許の地は韓・魏に分属し、ちょうど楚と相対する最前線地にあたった。
 秦の郡県制が施行されると、境内に許・潁陰の二県が置かれ、潁川郡に隷属した。
 両漢においてもこれは変わらず継承された。
 後漢末建安元年(196年)、曹操が献帝劉協を洛陽から許の地に擁して、ここに都を遷した。許はこれにより曹魏王朝発祥の地となった。
 黄初末年(220年)、曹丕が献帝に退位を迫り、魏国を建立した。許は後漢滅亡の地であり、縁起が悪いということで、許昌と改称された。
 曹魏五都の一つであり、曹丕が洛陽に遷都すると、許昌は潁川郡の治所(郡庁所在地)となった。

 西晋から東晋十六国時代まで、政権が次々と入れ替わるも、行政区制度は変わりないままであったが、後趙・前燕は許昌に潁州の州庁所在地も兼ねさせ、前秦は東豫州の州庁所在地とした。
 北魏は許昌県を司州潁川郡に隷属させた。東魏天平初年に許昌郡を分置し、鄭州の属とする。
 北周は許州を置く。
 隋の大業初年には許州を改め潁川郡となす。
 唐の初め、再び許州を置く。
 五代後梁は許昌を改めて許田県とする。
 北宋の初めはそのまま許州となし、煕寧四年(1071年)許田を県から鎮に降格し、長社県に入れる、元豊三年(1080年)許州を昇格して潁昌府となす。
 元代は許州を汴梁路の属とする。
 明の初め、省により長社県は許州に入り、開封府に属す。
 清の雍正二年(1724年)許州を上げて直轄州(天領)とし、十二年に改めて許州府とし乾隆六年に再び直轄州とする。

 近代1913年許州直轄州を廃止し、許昌県と改め、1914年開封道に組み入れ、1932年河南省第五行政督察区に帰属する。1949年5月許昌専区に組み入れ、1960年8月許昌県を廃して許昌市に合併する。1961年10月許昌県を回復し、1986年1月許昌市の管轄に組み入れ、今に至る。


<遺跡>
伏皇后陵

蒋李集鎮劉庄村東北に位置する。後漢代。県文物保護指定。『三国志』后妃伝によれば、伏皇后は父親と曹操暗殺を密謀したが、事が露見したため、曹操は皇帝に廃后を迫り、皇后および二人の皇子を殺した。墓区は面積約1370平方メートル。陵の高さは10m。陵の前には二人の皇子の墓がある。文革中に破壊される。鋪首彫刻の御環の石墓門である。

華陀墓

蘇橋鎮石寨村西南に位置する。後漢代。県文物保護指定。華陀(?~208年沛国・譙(今の安徽省毫州)の人。後漢末に医学家として傑出し、世に神医と称せられた。鍼灸および各科の医術に精通し、麻沸散を発明、病人に開腹手術を施した。世界で最も早い麻酔手術と言える。彼は『戸枢不蠹』(常に動かしている戸の芯棒には虫がつかない:流水不腐「流れる水は腐らぬ」の歇後語。出典は『呂氏春秋』季春紀・尽数:「流水不腐、戸枢不螻、動也。 形気亦然。 形不動則精不流、精不流則気鬱」。水はさらさらと流れていればいつまでも清く、滞れば淀む。転じて医学では人体について使う )の理に基づき、虎・鹿・猿・熊・鶴の五種類の動物の動作を模した、『五禽戯』という健康体操を作った。後に曹操により許都において殺される。墓の塚は高さ5m、敷地面積は360平方メートル、墓前には清の乾隆17年(1752年)に立てられた『漢神医華公之墓』の墓碑がある。1985年、『華佗学術研討会』が許昌において行われ、会の後代表者達が華佗墓を参拝して弔い、『東漢傑出医学家華佗之墓』の石碑を捧げた。墓の塚は周囲を六角形の青煉瓦でできた透かし模様入りの塀にぐるりと囲まれ、墓の境内周りにも長さ460m、高さ2.40mのレプリカの煉瓦塀が建てられている。

夏侯淵墓

河街郷賀庄村北に位置する。後漢代。県文物保護指定。夏侯淵(?~219年)、字妙才。後漢末に曹操に随って兵を起こし、多くの功績を立て、潁川太守に任じられる。建安24年(219年)陽平関において戦死し、親族が許都に墓を立てこれを祀った。敷地面積は1000平方メートル、塚の高さは7m、付近にはもともと一族で兄分にあたる夏侯淳の墓もあったが、すでに壊される。

漢大賢母徐母墓

蒋李集鎮劉庄村西に位置する。後漢代。県文物保護指定。すなわち後漢末の名士徐庶の母の墓である。徐庶、字元直は潁川人。はじめ劉備の謀士となったが、のちに曹操に母親を人質にとられ、偽の手紙に呼び寄せられるところとなったため、母は首をくくって自殺した。許に埋葬される。敷地範囲は1000平方メートル、塚の盛り土は平らに近く、墓前には清の乾隆21年(1756年)に立てられた墓碑が残る。墓碑の上には『漢大賢母徐母之墓』と書かれている。

馬騰墓

蘇橋鎮許村に位置する。後漢代。県文物保護指定。馬騰(?~211年)、字寿成、かつて西涼太守となり、のちに扶漢倒曹を目論んだため、曹操に許都へ誘き寄せられ殺されるところとなる。敷地面積は1000平方メートル、塚の高さ6m、松柏が植わわる。馬騰墓と伝わる。

賈詡墓

尚集鎮崗朱村東南隅に位置する。後漢代。県文物保護指定。賈詡、字文和は武威姑臧の人。許下に身を寄せる。かつて曹丕に自固の術を授け、これによりついに曹丕は立つことができた。曹丕は即位後、賈詡を太尉に封じ、死後は許に埋葬した。墓地の範囲は約3000平方メートル。塚の高さは10m。文革中に盗掘される。陶製の鼎、罐(かめ)、壺、銅鏡、五銖(銭)などが出土した。鋪首彫刻の御環の石墓門であり、楣(門または戸口の上に渡した横木)には二虎相争の石刻がある。

郄慮墓

張潘鎮郄庄村に位置する。後漢代。県文物保護指定。郄慮は、伝わるところでは漢末に御史大夫となり、当時中護軍韓浩と友好があったが、曹操暗殺を密謀し漢室を復興させようとしたかどで後に韓浩の告発にあい、九族を滅ぼされた。面積は約900平方メートル、塚の高さは5m、北面の石墓門は外に露出している。

張潘二妃墓

張潘鎮張潘村西に位置する。後漢代。漢献帝の二妃が死後許に埋葬されたものと伝わる。張潘鎮の名もまたこれに由来する。二基の墓は東西に並び、その間は50m。墓の塚は平らに近い。県志に記載あり。

毛玠墓

五女店鎮毛王村南に位置する。後漢代。県文物保護指定。毛?は後漢末の名士。墓の塚は文革中に破壊に遭う。小さな煉瓦造りの漢墓で、中からは銅鏡、五銖(銭)と陶製の鼎、壺、罐(かめ)などが出土している。県志に記載あり。

荀彩墓

鄧郷彩女村東北隅に位置する。後漢代。荀彩は後漢末、郎陵相荀淑の孫娘で、文芸の才があり、性格は剛毅、父母が本人の意思を無視して取り決めた結婚に反対して、首をくくって自殺し、ここに埋葬された。『彩女塚』とも呼ばれる。村名もここに由来する。文革中に墓が壊される。中からは銅奩(化粧箱)、鏡、五銖(銭)などが出土している。県志に記載あり。

七女村

陳曹郷七女村南に位置する。後漢代。俗に『七女塚』と呼ばれる。元々七座の塚があったが、今はすでに壊され平地に近くなっている。以前漢代の石墓門が見つかっている。村名は墓にちなむ。

水田村漢墓

張潘鎮水田村西北に位置する。後漢代。面積は800平方メートル、塚の高さは5m。周囲には後漢代の子母磚(煉瓦)と漢代の板瓦が見つかっている。かつてここから白馬が現れたという伝説があり、ゆえに俗に『白馬塚』と呼ばれる。保存状態は比較的良好。

張潘漢墓

張潘鎮張潘村東北に位置する。後漢代。敷地面積1200平方メートル、三座の墓塚で、高さは平均3m強、周囲からは銅鏡、五銖(銭)が発見されている。

水潮店漢墓

椹澗郷水潮店村西に位置する。後漢代。墓塚はすでに平地に近い。清の乾隆『許州志』によれば城の西には蔡母墓があり、後漢末の孝子(孝行息子)蔡順の母の墓だという。文革中に破壊に遭う。「大泉五十(銭)」、「貨泉(銭)」などが出ている。

前宋漢墓

椹澗郷前宋村東南に位置する。後漢代。もとは墓塚が七座あった。伝わるところでは孝子蔡順の母と妻の侍女七人を葬ったものだという。俗に七娘塚と呼ぶ。

小徐庄漢墓

尚集鎮小徐庄村南に位置する。後漢代。面積は約400平方メートル、塚の高さは4m、後漢末、徐晃の墓と伝わる。その内包については調査が待たれる。

郝庄漢墓

陳曹郷玠庄村に位置する。後漢代。夏侯氏の墓と伝わる。墳墓の盛り土は破壊に遭う。漢代の小煉瓦墓である。