峰絽関が慶軍の手に陥落すと、于卷とその僅か30ばかりの将兵たちは、砦内から外へ出る隠し通路を使い遁走した。
 隠し通路は、峰絽関から礼州に入る唯一の道への近道となっている。万が一の事態になったとき、敵に追いつかれずに逃げ遂せ、次なる城塞へ走るためのものだった。
 しかし于卷は、そうしなかった。
 彼は煮えくり返る思いに、腸を歪ませていた。見開かれた両目は血走り、歯をむき出し、口端からは唾液を流して荒い息を繰り返している。その形相はまさに怒り狂う鬼のよう―――兵たちは怯えた。
 于卷はもともと荒い気性の持ち主だった。根が小心者だから、一旦箍が外れると制御がきかなくなり手に負えない。伊達な荒くれ者よりも始末が悪い。そんな人間に重要な関所を任すのもどうかと思われたが、これでいて于卷は通常の戦であればそれなりに頭も働くし、何よりも武に勝っている。100人の敵兵に囲まれながらも、戟一本で傷ひとつ負わずに帰還したという逸話を持つ男である。
 だからこそ今回の惨敗は、彼の矜持を甚だしく傷つけた。

 ―――あんな男を信用しなければ。

 心中で激しく毒づく。あのような得たい知れない男―――陳雨なんぞを信用して、奴の言うとおりにしたがためにこの様だ。殿も騙されておられるのだ。胡など所詮は対立勢力の一。奴らの甘言にまんまと嵌められたに違いない。
 力任せに近くの樹に戟を打ち付ける。側にいた兵がひっと声を上げた。

 ―――ただじゃあ終わらせねぇ。

 どうせこのまま逃げ帰ったとしても、自分に待っているのは厳重な処罰だけだ。要衝を守り切れなかった自分を張斯は許さないだろう。無様な敗走もだ。ならばせめて己をここまでにした者等に一矢報いなければ。
 ただごとではない異様な気に于卷は包まれていた。不気味ににたりと笑う。何かに取り憑かれているような、そんな狂気じみた将軍の様子に僅かに残った兵達は怯えながらもついてゆく。戻ったところで、どうしようもないのは、彼らも同様だった。目の前のこの男に従うしか、最早生きる道はなかった。

「いいか、俺の言うことをよく聞け……」

 于卷は不気味な目つきで部下たちを眺め回し、ゆっくりと言葉を吐いた。




 勝利の興奮と共にその幕へ勇み駆け込んだ戯孟は、思い描いていた人物がそこにいないことに、肩透かしを食らって呆けた。
 薄暗い幕の中は空虚が鎮座するのみで、それ以外は出ていく前と何も変わらぬ様子であった。いや、一つだけ異なるところがある。桌子に、行きにはなかった白い帛が折りたたまれて置かれていた。
 近づき手に取った。中を開けてみると、黒墨で綴られた数十行が現れる。
 適度に読みやすく流れるような字は、書き手の性格を現しているかのようだった。
 賭けをしましょう、というところから文は始まっていた。


 賭けをしましょう。
 閣下は私の仕官をお望みになられましたが、生憎どうやら私は今はまだ一所に留まることはできぬようです。
 ですがそれでは閣下も納得がゆかぬはず。そこで、こうしましょう。
 私は再びこの韓中を流離います。流民らしく、東へ西へと当てもなく旅を続けます。
 もしもその中で私を見つけることができれば閣下の勝ち。しかし、もし閣下が見つける前に私が別の何某かに仕官することになれば、貴方の負けです。
 閣下。人の出会いとは、(えにし)です。たとえどれほど別れ離れようとも、縁があれば必ずやまた会える。
 もしも再び閣下と相見えることがあらば、それは我らの縁の強さの証。
 或いは真の英雄なれば、縁も命運も己が力で引き掴むことができるやもしれません。
 その時こそ、私は貴方にお仕え致しましょう。
 そうそう、最後に真の名をお伝えしておきます。
 私の姓は刑、諱は哿、字を冲淳と申します。以後、お見知りおきを。
 遊戯はすでに始まっております。もしも貴方が龍たりえるのならば、見事龍玉を手中に収めてご覧あそばされよ。
 御健闘をお祈り致します。


「『此致―――刑冲淳』」

 字を見つめ、戯孟はふっと口端を上げた。

(なるほど、「考えておく」とはこういう意味だったわけか) 

 意味深に笑んでいた青年の顔を思い出す。
 この戯志明を更に試すつもりか。いい度胸だ。

「殿、こちらにおられますか」

 入り口際から中を窺う声がした。返事を返せば、背後から李洵が入ってきた。

「失礼致します、殿―――如何なされました?」

 唇に浮かんでいた笑みを訝られたのだろう。しかし戯孟は振り返らず、別に何も言わない。
 李洵は不思議そうな顔をし、横合いから覗き込むように目を巡らして、主君が何かを読んでいることに気づいた。

「何かございましたか?」

 再び問うと、戯孟は手の文を肩越しに李洵へ放って寄越した。
 困惑気味に慌てて手に受け取り、一瞬迷って戯孟を見る。どうやら読めということらしい。落ち着きを取り戻してからゆっくりと中を開き、目を落とす。

「これは……無名の手蹟ですね」
「ああ、刑哿、のな」

 李洵が字癖からその手紙を書いた人物を当てると、戯孟が極自然にそう言い換えた。その名に、李洵はハッとして主を見上げた。まじまじと見つめ、それから再び目を落とし、やや戸惑いを覚えつつ字面を追う。途端に目に驚愕が滲み、見開かれた。

「ふん、あやつめ。恐れ多くもこの儂に、真っ向から堂々と勝負を仕掛けてきおったわ!」

 戯孟は背を向けたまま、吐き捨てるように言った。しかしその双眸は宙を強く睨むようにしながらも、唇には不遜な笑みを湛えており、声にはえもいわれぬ楽しげな色が滲み出ている。

「あ―――あの不悌者」

 ぐしゃっと思わず帛書を両手で握り締め、李洵は顔を埋めて呻いた。半泣きとは言わないまでもそれに近い様子で、今はもう何処にいるか分からない青年を恨む。
 その側ではっはっは、と背中が陽気に笑う。

「小粋な演出をしおって、あやつらしい。なかなかどうしてこうも見事なものかな」
「笑い事ではありませぬ。私は殿に紹介した手前なのですぞ。それを……」

 私の面目を潰す気かとブツブツ文句をこぼしている。こんなことで李洵を無体に責めるような主君ではないが、李洵としては気持ちが収まらない。それでも心の底から恨み怒っているかと言えばそうでもなく、どこか手の焼ける弟を咎めるような口吻なのは、李洵がそれだけ無名―――刑哿の人となりを知っており、過ぎ去りし日には確かに弟のように可愛がっていたせいでもある。
 つまり昔からこういう人間なのだ、刑哿という男は。
 誰に命ぜられるのでもなく、権力に屈するのでもなく、ありあまる才を持ちながら、決して容易くは縛られぬ者。

「面白い―――では、手繰り寄せて見せよう。どんな縁であろうと、天の定めたる命運であろうと。この戯志明がな」

 運命などという儚いものに頼りはしない。巡りをただ待つなど性に合わぬ。我が力を以って、この手に捕らえて見せよう。どんなものであろうと、何もかもすべて。
 そして儂こそが龍―――この天下四海を平らげる英傑たりえることを証明してやろう。

「見ておれよ」

 戯孟は今や遠く彼方にいるであろう男に向かって、力強く宣言した。


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