後方で、誰かが乾いた咳を数回繰り返した。
 それを聞きとがめた兵卒が小さく問う。

「どうした。風邪か?」
「んや、どーもいまいち喉の調子がおかしくってな・・・・・・」

 声すらも出し辛そうに、しきりに唾を飲み込んで喉を鳴らしている。

「あ、俺も」
「俺も俺も。さっきからなんか喉がカラッカラしてんだよな」
「水が飲みてぇなぁ」
「ああー、喉渇いたな」
「俺は身体がなんか痒い」
「虫か?」
「ここんとこずっと風呂入ってねーからなぁ」

 そのようなことをこそこそと囁き合っていると、前方にいた兵卒が振り向いて注意した。

「おい、静かにしろよ。奴等に見つかるぞ」

 男達は慌てて己の口を手で塞ぎ、任務に戻る。

「おい・・・・・・まだか?」

 諫言したその兵卒が、今度は自分の前にいる男に目を戻し、焦れた声で囁いた。
 問われた無名は、ちらりと肩越しの一瞥をくれると、ひとしきり唸った。やはり小声である。

「もうちょっと」

 眉根を寄せ、神経を研ぎ澄ませて、前方を睨む。その視線の先には、夜闇に浮かぶ敵陣の姿があった。

 無名は、数十人の兵卒たちと共に山中に隠れ潜んでいた。
 斜め上方には堯の陣営が見える。
 彼らは今、暗闇に紛れて移動し、堯軍営のすぐ傍まで来ていた。
 無名達が潜伏している場所は、堯の陣営から東に外れた、山の裾部。そこに広がる林の中である。この辺り一帯、山の足元を取り囲むように植生している林は、大部分は麓にわだかまっているのだが、一部が上の傾斜面まで迫り出している。
 そこへ彼らは埋伏しているわけである。

 ここは位置的に堯軍陣営からは死角となっており、こちらからは向こう方を見上げることができるという非常に都合の良い地形条件だった。
 林から上は、露出した岩棚が続き、時折気まぐれのようにちらほらと草緑が見える。実はその緑の陰、岩の陰にも、こちら側の斥候数人が息を殺して潜んでいる。

 そう、彼らは一般の兵卒ではなく、斥候兵である。

 無名は今回の仕掛けに、斥候兵の借用を戯孟へ願い出た。斥候兵は諜報探索というその役割り上、身が軽く、多少腕に覚えがあり、ある程度隠密技術を身に付けた者がなっている。このような険しい岩山でも軽々と登り、敵の見張りから身を隠して潜むことができるのは、彼らしかいない。そのため無名は、彼らを今回の作戦の用員として引き連れていくことを戯孟に求め、認許を得て今に至る。  彼らは、幾人かの束に別れ、それぞれが所定の場所に潜伏していた。作戦を効率的に成功させるためと、あまり大人数で行動すると敵に見つかりやすいため、無名がそう指示をしたのだ。

 そして無名を含めてわずか6人程度のこの隊は、その(さきがけ)の一隊であった。
 どの兵士も、背に矢を背負い、片手に弓を携えている。しかし、一体これから何が起ころうというのか、誰も知らされてはいない。
 無名は片膝をつき、じっと息を詰めて、夜明け前の暗い空を仰視していた。

 まだ足りない。作戦を成り立たせるのに不可欠な、あともう一つの材料が、まだそろっていない―――無名はそれをずっと待っている。
 その後ろで、何も知らない兵卒は胡散臭げに無名を睥睨し、愚痴を言う。

「おい、しっかりしろよ。殿が直々に仰られたから、お前を信用して言うとおりにしてるんだぞ」

 恨みがましい声で殊更圧力をかけてくる。ここにいる兵卒たちは、表向き戯孟の命令で赴いており、隊伍の指導権は、戯孟からの委任という形で無名が握っていた。すなわち唯一作戦を知らされ、任せられたのは無名ということになる。その実、作戦内容は戯孟すらも知らないのだが。
 だから兵卒たちは納得がいかずに、妬み嫉みも手伝って、不平文句を垂れるのであった。
 だが無名はそれらを軽く受け流し、ただ微笑った。

「いやぁ、恩に着るよ」
「大体、何でお前なのかねー」

 やはり納得がいかないといった風に、別の兵卒が腕を掻きながら言った。と、次々に賛同の声が上がる。

「そうだそうだ。どうやって殿に取り入ったんだよ」

 辺りが暗いので誰が誰だか良く分からないが、おそらくまた別の男と思われる奴が前の者たちを押し分け、やや掠れた声で無名に迫る。
 無名は慌てた風に手を振り、へらへらと笑って誤魔化した。

「いやだよう、取り入ったなんて誤解だ誤解。たまたま俺が通りかかった時に閣下が声を掛けてきて、今回の任務を命じられたんだ。多分本当は誰でも良かったのさ。丁度目に付いたのが俺だったってだけで」
「くそー、そんなんならあの時包帯取り、俺が行けばよかった」

 更に別の兵が無念だとばかりに拳を振る。

「全くだ! そしたら今ごろ俺が・・・・・・」
「殿から直々に命を承れたなんて、運のいい奴」
「ああちくしょー、この羨ましい野郎め」

 本気で悔しそうに歯噛みする仲間達を、困惑気味に、半ば呆れて、無名は見つめた。随分呑気な、という感想が思い浮かぶのは自分だけであろうか。

(うーん。ここまで慕われるとは、さすが戯志明。だがしかし・・・・・・)

「そんなこと言っている場合じゃないだろ。ほら、殿に目をかけてもらいたいんなら、まずやるべき事は確実にこなさなくちゃな」

 無名は顔を引き締め、少し硬い声で囁いた。
 どんなに微笑ましい光景でも、状況を考えればさすがに黙ってはいられない。今は作戦を実行に移す直前だ。しかもおそらくこれが、今回の戦いの勝敗を決すことになるだろう。あまり騒げば向こうに気づかれる恐れがあり、そうなれば全てが水の泡となる。それだけは避けねば。
 ああだこうだ言っていた斥候兵たちもその一言でピタリと閑談を止める。瞬時に真面目な顔つきになり、緊張感を取り戻す。

「そうだった。確かにお前の言うとおりだ」
「俺達は今大事な任務中なんだ」
「それに成功させたら将軍から褒美を貰えるかも」

 それぞれに頷き、体勢を整えた。表情にやる気が漲っている。
 今自分たちが置かれている状況を再認識し―――半分ぐらいは「殿に目をかけて云々」あたりに反応してのような気がしなくもないが―――無駄話を控える。
 一気に面を引き締めた男たちの様子を嘆息と共に見、無名は再び身体を正面に向ける。瞳を眇め、堯の陣中を鳥瞰した。

 勢いよく焚かれた篝火が暗闇を押し分け、さほど多くはない天幕を照らし出している。その炎が、一定の方向へと乱れ揺れていた。周囲でもさっきからかすかに枝鳴り葉鳴りがする。少し強めの風が出てきているようだ。
 乾いた風であった。

「で、結局いつなんだよ」

 最初に声をかけてきた兵卒が、堪りかねて再び開口する。それを聞いているのかいないのか、無名は僅かに眉間にしわを寄せたまま、思案に耽っている。

「“あれ”の後は“あいつ”が来るはずなんだ。今まで例外はないんだけど・・・・・・」

 誰に言うでもなく、独り言のように漏らす。はあ?と、兵卒は訝しげな顔をした。「誰が来るって?」
 そんな男に目もくれず、無名はなおもひとりブツブツと呟いている。

(おかしいな。俺の予想だと、もう来てもいい頃―――

 己の思考に没頭したままの無名に、兵達は顔を見合わせ、互いに首を傾げた。
 と―――
 ふいに、幽かな風が、それぞれの頬を撫でた。
 短く、ささやかに。この重い湿った大気の中、決して混じることも溶け込むこともなく、むしろ水気を押し割るかのように突き抜ける一筋の風道。
 暗黒の曇天を見つめ続けていた無名の目が見開かれる。

 「おい―――

 人の話を聞けと言わんばかりに苛立ちを露わにした例の兵卒が、三度声を掛けかけた。と、その時。
 無名が弾かれたように勢いよく立ち上がった。
 突然の行動にぎょっとして、兵卒は「い」の形に口を固めたまま無名を仰ぎ見る。

「ど、どうし・・・・・・」
「来た」
「へ?」

 兵卒は素っ頓狂な声を発する。肩越しに後ろの仲間と顔を見合わせれば、彼らも分からない、と首を横に振って示した。
 訳が分からず目を丸くしている一同を尻目に、当の無名は弓を携え、その場から何処かへと行こうとする。

「お、おいっ どこ行くんだ」

 呆気に取られている仲間たちの中、先ほどの兵卒が慌てて小声で制する。この大事な時に、責任者とも言える者が場を離れるなど。暗にそう非難してくる。
 その声に、無名は振り返って、

「ここからじゃ足りない。俺はもうちょい上の方に行くから、合図をしたら打ち合わせどおり一斉放射な。その他の事はお前に任せるよ」

 と言って、問うてきた兵卒を指差した。指差された方は困惑気味で、無名が何を言っているのかいまいち理解できない。
 だが無名はそれ以上は何も言わずに、さっと手を掲げると、爽やかに言った。

「んじゃ、よろしくー」

 そうしてその場をそそくさと去る。

「え、任せるって・・・・・・いや、あのちょっと」

 強制的に役割を押し付けられた兵卒の、哀れな声が背後から追いかけていたが、あえて無名は無視した。口実を作って説明する手間も面倒だし、時間が惜しい。近くの樹を蹴り登り、枝へと飛びつく。
 結局一度も振り向くことなく、無名の背はあっという間に闇の中へと消えていった。
 あとに残された兵たちの呆然とした声だけが、虚しく筒闇に響く。

「あいつ、普段は鈍間のくせに山登りだけはすばしっこいな・・・・・・」
「ああ・・・・・・」
「でもあいつ、弓の腕の方は大丈夫なのか」
「この間の定期審査じゃ、どうやったのか自分の方に矢を飛ばしてたの見たぜ」
「そらある意味すげぇな」
「でも木登りは猿並なのな」

 最後の男の言葉に、一同は「そうだな・・・・・・」と茫洋と頷いた。


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