暗い林の中を、疾風のごとく駆けて行く。
 無名は、以前偵察に来た時に記憶しておいた道を、忠実に登っていく。山麓の林を抜けた後は、前と同じ方法で岩棚を登っていき、最上に到ればそこから山の頂まで広がる黒い山林に分け入った。記憶の情景と重ね合わせながら、ひたすら上を目指して突っ切ってゆく。

 それはもう道と呼べるものではなく、とてもではないが常人では歩けまい。獣ですら避けそうなほど、極めて危険で難行な場所である。一歩先に渓があってもおかしくはないのだ。ただでさえ暗闇で足元は見えず、何時足を踏み外すかはわからない。
 無名はその危険を避けるべく、以前と同様に樹々の枝を乗り移って移動する方法をとっていた。

 が、この方法は一見容易い事のように思えて、その実簡単なものではない。山の樹は細く、頂きは天に達するほどひょろりと長い。登るまでが難儀であり、しかも枝は頼りない。人ひとりの重みに耐えきれるかどうかも怪しい。
 それでも下を歩くことに比べれば、無名にとっては時間的にもそして安全面でもずっと都合のよい手段ではあった。

 無名は、枝が自分の体重を支えきれぬようになる前に、次の枝へと跳躍した。背に負った矢がかすかに音を立てている。
 その間にも、堯陣営のある場所は意識から外さなかった。感覚と目測で、計算した場所まで目指して走る。樹から樹へ、枝から枝への移動を繰り返す。道なき道を翔け、全速力で目的地に向かっていた。

 時間が勝負だ。

 無名の双眸が鋭く細まる。

 これが切り札だ。逆に言えば、これを逃せば後には手がない。できるかぎり早く、事を起こさねば。(タイミング)が要だった。針穴に糸を通すが如く、慎重に計算どおりに行わねば。たった一寸のズレでもあれば、これは成り立たないのだ。
 これほど危うい橋を渡るのは無名自身久々である。大体彼は賭け事においてもある程度の勝算を見積もり、いつでも臨機応変に対応できる道を選び出してから実行に移す性質(タイプ)なのだ。

 ―――だが、それでも成功させねば。

 胸中で言い聞かせながら、無名は山林を駆ける。暗緑の景色が横に伸び、尾を引いて後方へ流れてゆく。腕や頬に枝葉が当たり、微かな傷を作るが、それをいちいち気にしている暇はない。猛速度で過ぎてゆくため、空気の抵抗が(おろし)となって身体を包む。頬を掠め、髪を攫う。颮颮(びょうびょう)と耳元で唸る風声が心地よい。まるで己自身が風となったかのような錯覚に捕われる。闇に溶け込み、大気と一体となって山林の間を吹き抜けてゆく。

 そうして、どれほど行ったところか。
 正面遠方に、立ち塞がる闇が見えてきた。
 その先に、木々の姿は見えない。月明かりすらない暗闇だが、常人より訓練された夜目には、それでも樹の輪郭ぐらいは捉えられるはずだった。だが、よくよく目を凝らしてみても、やはり闇の向こうに物体の影を見出すことができない。まるで大きな戸か平たい岩に区切られているかのように、そこだけがぽっかりと黒く口を開いていた。

 近づくにつれて、徐々に正体が明らかになった。
 それは闇でも戸でもなく―――山肌と同じ岩の壁。
 どうやらそこが行き当たりらしい。岩壁が聳えたち、あらゆるものの通行を止めている。枝へと飛び乗りながら岩壁を辿り見上げる。ゴツゴツとした岩の隆起が広がるそこは、切り立った崖であった。つまり逆に言うなれば、眼前は崖の真下ということになる。

 まさに山肌を垂直に削り取ったかのような断崖絶壁。その更に上を目で追って見れば、緑のなかに迫り出した舞台が見える。あそこが頂になるのだろう。然程高い崖ではない。低くもないが、万一上から落ちても、助かる可能性はある程度の高さだ。

 どちらにしろ、ここから先へは進めない。枝伝いにしても、飛び移るにはやや高さがありすぎる。どうするのかと思いきや、無名は急に樹から飛び降り、移動する速さを落とすことなく、それどころか更に速度を上げて、崖下に突進した。
 激突する―――かと思えば、ぶつかる直前で無名は岩壁を強く蹴り、その勢いを利用して、崖を一気に駆け上がった。岩肌の凹凸に足を掛け、重心の移動と踏み切りを巧みに操作しつつ、二本脚だけで登っていく。
 最後のひと蹴りで思いっきり跳躍し、壇上に飛び上がった。
 そのまま草地に軽い音を立てて着地すると、すぐさま膝をついて身を低くした。

 崖の上は、ちょっとした広場になっていた。無名の着地した周辺一部が、そこだけ半円型にくり貫いたようにぽっかりと開け、それを取り囲むように鬱蒼とした山林が広がっている。丁度無名が戯孟と視察をしに行ったあの山の崖と同じだった。

 さっと辺りを観察し、身を翻して崖から下を覗く。
 真下に、堯軍の陣営がしっかりと確認できた。
 ここからならば内部の細部まで隈なく一望できる。
 そう―――つまりここは、堯陣営の丁度真上にあたる位置。
 無名は薄く笑うと、低姿勢のまま、手に持った弓を地に垂直に掲げた。
 背に手を回し、矢を一本手に掴み掛けた、まさにその刹那。

 ハッと。
 無名は何かに反応し、間髪いれずに横へ飛んだ。
 丁度それと入れ違いになるように、先刻までいた地面に、数多の刃が鋭い唸りを立てて突き刺さる。無名は飛びのいた勢いでそのまま転がりながら、素早く身を起こすと、止まることなく再び地を蹴って後ろへと跳躍する。その地点へ、黒い物体が落ちてきた。
 狭い空間で後ろ返りをニ、三度繰り返し、バッと構えを取って、相手を睨み据えた。

 黒い物体と思われたのは、紛うことなき人間。
 仄かに顔が浮かび上がる。
 そろそろ中年の域に達するかという、顔色の悪い男であった。さほど身嗜みの手入れをするような性分でないのか。巾で包んだ結髪は後れ毛で茫々であり、地味な深藍の衣はあちらこちらがほつれている。頬がこけて骨が浮き上がっており、全体的にげっそりと痩せ細ってはいるが長身の体躯。
 鎧を身に着け、腰に剣を佩き、手には矛を持っていた。
 そして何より―――青黒い顔色の中、異様な光を放つ両の(まなこ)。落ち窪んだ昏い双眸だけが、暗闇の中で、獲物を待つ獰猛な虎のようにギラついていた。

 まさに蓬頭垢面の相といった(てい)であるが、男が与える印象は、外見を裏切って鋭利な刃物を思わせた。

 身に纏う雰囲気や物腰から彼がただ者でないことが分かる。自分に対して発せられる敵意や殺気からも、おそらく彼は堯兵―――しかも、主に間者など諜報活動を専門とする細作(さいさく)だろう。彼ら細作は任務や役割上、非常に洗練された武闘技術を必要とされる。となれば、無名が男の気配に直前まで気がつかなかったのも頷けた。
 だが、無名は男の登場に予想以上に驚きは示さなかった。むしろ男を見据える眼差しは意外なほど落ち着いている。

 実はそうなる可能性も、ある程度の想定はしていたのだ。場所が場所でもあるし、無名は―――我ながら思うが―――少々派手に動きすぎた。
 さすがに敵も何かしら警戒を張ってくるだろうことは、想像に固くない。ただ本音を言うならば、あまり見つかりたくは無い相手だっ。  細作の中には、殺人を専門としてその技術を徹底的に極める者もいると聞く。この男がそうであるならば、この場を切り抜けるのはかなり厄介だ。
 無名は眼光を強めた。

 ―――できるな。

 男から感じるのは、氷のような冷たい闘気。しかも足の運び方や呼吸の仕方、気配の消し方などから、男がかなりの凄腕であることが窺える。
 そして―――無名は僅かに目を眇める。
 そして、こびりついて離れない血の匂い。
 何人も人間を殺してきた者が持つ、独特の体臭。

 男はきっと、単なる諜報員ではなく、必要とあらば暗殺も請け負う玄人の殺し屋だ。闇の側の人間。赤子ですら、眉ひとつ動かすことなく殺して見せるであろう。無表情に、無造作に。
 果たして、そんな羅刹の男を上手くあしらえるか。

「お前、堯の人間ではないな・・・・・・」

 初めて男が言葉を発した。聞き取りにくい、ザラついた声だ。

「・・・・・・慶の手の者か」

 問うというよりは、己自身に確認しているような口調で、低く重く言う。いや、実際は感じるほどでもないのかもしれないが、あまりの声音の昏さがそう思わせた。

「・・・・・・そうだと言ったら?」

 無名は小さく笑い、さらりと言い切った。男の瞳がすっと細まる。

「最近不可解な動きが起こっていた。軍師殿は不審な動きをしている者がいないか探れと言っていたが―――お前か?」
「さて、なんのことだか?」

 男の言うことに、無名はとぼけて見せる。が、余裕たっぷりの態度とは裏腹に、その胸中では時間に対する焦燥が募っていた。

(早くしなければ・・・・・・この男をやり過ごして合図を送るにはどうすればいい)

 刻一刻と過ぎていく時の中、男を鋭く見据えている一方で、無名は頭を全力で回転させていた。時を逸すれば、今までの計画が水の泡となってしまう。

「やはり軍師殿の読みは当たっていたのか・・・・・・」

 軍師殿―――

 先ほども耳にしたその単語に無名が瞳を光らす。

「それは、陳公嬰殿のことかな」

 男がぴくっと反応を返す。当たりだったようだ。

「胡が、なぜ堯に手を貸す」
「・・・・・・さあな。俺は下された命令を実行するだけだ。軍師殿の考えなど知らん」

 男はどうでもよさげに言う。本当に知らないのかは甚だ怪しいが、それを今この場で問い詰めるのは時間の無駄だ。

(でも―――ということは、今回のすべてのことは陳雨の進言によるものってことか?)

 男の言から、無名はそう読み取った。だが「策を立てるのは、当然軍師である陳雨だろう」という、男自身の主観による勝手な思い込みという可能性もある。一概に断言は出来ないが、どちらにしろ胡がこの戦の一端を担いでいることには代わりはない。

「で、どうする?」

 無名が挑戦的に口端を吊り上げ、男に眼差しで誘いかける。先ほどから僅かなりとも隙を探していたが、この男はそんなに簡単な相手ではないと判じた。ならば下手に小細工するより、闘るならさっさと闘ってしまって、計画を実行に移す方がいい。
 その意図を男が読み取ったかどうかは分からないが、男は双眸を一層細く眇めた。
 無言のまま、手に持つ矛をぶん、と体の周囲で巧みに回し、型を決める。バッと小気味の良い音をたて、構えを取った。

 足幅を前後に広く取って膝を曲げ、前足にやや重心をもたせている。弓歩(きゅうほ)と呼ばれる足の運びだった。
 右半身を引いて体面を斜めにした。矛は右手に握り、柄を脇に挟むようにしながら、後方へ真っ直ぐ伸ばす。
 そして左手の掌底を、右手とは反対に前方へ押し出すよう構える。親指だけを折るのは、そこが手の中で一番敵に掴まれやすいために守るのだともいうが、これが一般的な技手の型だからだろう。
 全体的に身体を低く保ち、丹田に気を溜めて胴を安定させる。
 流派は何かは知らないが、その型の取り方は、下手な拳法家よりはずっと実戦的で手馴れたものだった。

 対する無名も、無言で手足を動かす。得物はない。あるのは弓と矢がいくつか。あとは己の身一つだった。
 ゆったりと、流れるように曲線の軌跡を描いて腕を回し、型を取る。男と同じように斜め前後へ開いた左右の足を曲げて弓歩をとり、後方に引いた右手は右脇腹のあたりで上向きに拳を作る。そして左腕は胸の前で曲げ、やや指を曲げて丸みを持たせた掌を後ろ―――右上腕に向けるようにして構えた。
 それは無名の教わった流派の、最も基本的な迎撃の型であった。
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