東の大陸の武術は、構えの『形』に重きを置く。均衡の取れた美しい型は、全身の気脈を整え、最良の状態に保つ。更に体内の気と大気の流れをよく調和させ、それによって身心を最大に高められる。そう考えられていた。
 そもそも東の大陸の武術の歴史は長く、古人によって様々な系統の型や拳法が編み出された。以来長きに渡り、それらは多くの武術家たちの手で極限まで洗練され、多種多様な流派となって枝分かれしていった。
 より流麗で美しく。
 合理的な型をつくれる者ほど良いとされ、上級の武術家には構えを見ただけでその者の力量が分かるとさえ言われる。

 その点で言えば男も無名も、文句なしに武術に長けた隙のない構えと言えた。

 しばしの間、お互いはじっと動かないまま睨み合う。といっても、眼力激しくして闘気を発しているのは男の方であり、無名はただ薄く笑みを浮かべてそれを受け流しているだけであったが。
 この者は侮れない―――細作の男は唾を飲んだ。無名からは闘気も殺気も、敵意すら感じられなかった。平素と変わらず気は凪いで穏やかであり、どこまでも自然体である。
 だからこそ男は無名に底知れぬ恐ろしさを感じた。
 人好きする微笑の裏に一体何を隠しているのか。なにを企んでいるのかが読めない。

 ―――読めないならば実際に手を合わせてみればいい。

 男は敵の心理を探るのが不可能と知ると、すぐさまそう頭を切り替えた。
 直接撃を交し合うことで、相手の思考を心で感じ取る。それが一流の武闘家たちの、一種の『会話』のようなものだ。
 強い風が二人の間を吹き抜ける。ざわざわと、樹々が不気味な唸りを発している。

 どちらからであっただろうか。

 ある瞬間に至って、それまで石像のごとく微動だにしなかった両者が、突如申し合わせたかのように動き、同時に地を蹴った。
 ギィン、と耳を劈く金属音があたりに響き渡る。
 矛の男に、対する無名は矢一本。男が真上から振り下ろした刃に、力が相殺されるよう、いつの間にか手にした矢で、正確に鏃を突きたてる。
 上からの力任せな重い攻撃に、無名は少しばかり膝を曲げ、上体を保つ。微細な鏃の切っ先は、しっかりと刃を受け止めていた。
 下目遣いにやや驚きの表情を投げかける男に、無名はにやりと笑い返した。
 すぐさま両者はバッと身を引き、一定の間隔をつくる。そして再びぶつかり合い、双方ともども激しくも切れの鋭い攻防を繰り広げた。

 無名が一気に間合いを詰め、攻撃を繰り出す。男は矛を細かく動かし、穂先で円を描くようにして突き出してきた。
 それを顔を傾けて躱しながら、すかさず懐へ踏み込んで掌底を放つ。寸前、男は膝蹴りで無名の脇を攻撃し、無名は後ろへ退いて避けた。そこを唸りを上げて矛の腹が横から襲ってくる。それも身を屈ませて躱し、その体勢で足払いをかければ、男は両足で跳んだ。着地と同時に身を深く伏せ、地面に弧を描くように矛を横薙ぎ、屈んだ状態の無名を狙う。無名もそれを避けるべく地を踏み切って上へ跳び、跳びながら身を翻して回し蹴りを放つ。男は伏せてそれを躱した。
 男の矛の腕はなかなかに見事なものだった。刃閃は剛柔直曲自在に動き、そう簡単には反撃の隙をつくらせてはくれない。

(急がなければ)

 無名は僅かな隙を見極めんと感覚を研ぐ。
 離れては近づき、接触しては離れる。互いに身の反転を繰り返しながら得物を合わせ、遠心力に沿った足払いがくれば飛んで躱し、突きがくれば紙一重で避けた。矛を突き出されれば避けながら柄を掴み、力任せに押す。時には柄の上に乗り、あるいは穂先を踏みつけて動きを封じたりもする。男も、長い間合いを利用され死角に入ってこられれば、体術で補った。

 白熱と言ってもよいほどの激戦にも拘らず、2人の表情は依然変わらぬものだった。息を乱すどころか汗一つかいていない。それどころか、無名は微笑すら滲ませている。
 一方細作の男は、流水の如き動きを見せる攻撃を何とか躱しながらも、目の前の青年に対して僅かな惧れを感じていた。
 全く読むことができない。青年が何を考えているのか、どういった人柄なのか。流れるような体捌きに相まって、より読みにくくなる。どんなに相容れぬ者同士で、たとえ言葉で通じ合わなくとも、試しに渾身の力でぶつかり合い幾度か拳を交えれば、感じ取れるものがある。その人物がどういう性情で、何を思い、信念としているのか。それは言葉よりも確かな重みを持って、しかもより直接的に伝わってくる。それが武術家同士の闘いというものだった。

 だが目の前で技を出す青年は、どこか曖昧としていて、捉え所がない。

 会ったときから只者でないことは分かっていた。不意打ちの攻撃を躱したことだけではない。一見ただの兵卒であるようなのに、男を見ても動じず、泰然としていたこともまた、男の不安を生んだ。青年は若いくせにどこか老師然とした落ち着きを持っている。更にこの見たこともないような拳法。柔のようでいて剛、弱のようでいて強―――攻から防へと臨機応変に変じる技に、ふとすれば翻弄されそうになるのを何とか堪える。そして相変わらず口元に湛えられた微笑。
 ―――それが何を意味するのか、何かを企んでいるようでいて、全く分からない。

 果たして勝てるか、と男は密かに汗を滲ませた。久々の強敵―――おそらく今まで出会った中で確実に上位にくる強敵だった。だが同時に、男は快感を感じていた。己の力を最大限にしてもまだ勝てない人間と出会えたことに、戦慄しながらも昂揚していた。身体の奥底で、忘れかけていたものが熱を持ち湧き踊る。
 夜闇に包まれる山林に、鋭い音だけが響き渡っていった。
BACK MENU NEXT