「貴様は風雲児だな」

 何の前置きも無く、唐突に男はそんなことを言った。
 横薙ぎに来た矛を腕で受けながら、無名は一瞬きょとんと目を瞬いた。男はすかさず手首を捻って二撃目へと転換するが、間一髪で防御する。

「・・・・・・俺には別にそんなご大層な野望なんてないがね」

 風雲児。世の気運に乗り、好機に乗じて頭角を現してくる英雄のことを、そう言う。例えるならば、まさに喬の孫胥などがそう呼ばれていた。
 しかし男は否定の意を示した。

「俺の言っているのは、まさに風雲のさま、という意だ」

 男は肉薄したまま、低い声で言う。

「風の如く無相で、雲の如く無常」

 無相とは形がなく型に定まらないことを言う。風には色形がない。風を捕らえることはできない。
 雲もまた同じ。無常とはすなわち形が一定に定まらぬこと。常に変化する存在。次々と形を変じる雲を捉える術もまた無い。
 男は無名の持つ独特の気をして『風雲児』と評した。

「最高の褒め言葉だな」

 無名は笑う。そして、受け止めていた矛を弾き返した。 
 熾烈な技の掛け合いが続いていた。何発か喰らったものもあるし、逆に喰らわせたものもある。だがいずれも決定的な致命打にはならない。
 戦闘は激しいわりに、大掛かりで派手というわけではなく、どちらかと言えば静かで、鋭いものであった。
 無名は余裕の表情であるその実、焦燥していた。闘い始めてから少しばかり時間が経ちすぎている。ここでモタついてはいられない。早くしなければ。
 内心の焦りを顔に出さないまま、回りの空気の流れに神経を研ぎ澄ます。時間が無い。今この時に行動を開始せねば作戦は成り立たない。あれは、極限られた間だけなのだ。

 男の腕が予想以上に立ち、なかなか隙を見つけて巧く有利な状況へと持っていけない。いざとなれば奥の手―――方術を使うしかないが、それだけはなるべく避けたかった。

(仕方ない。もうちょっと本気を出すか)

 それならばはじめから全力を出せばよいものを、楽して勝つ、がこの男の信条であった。敵であればあるほど、余計に己の全力は決して見せない。最初から己の底を露にするのは、駆け引きの下手な証拠だ。もう一つ、本気を出さぬ大きな理由が別にあるのだが、とにもかくにも無名は普段から何事に対してもそうそう本気を出すことがない。もしかすると、この細作との戦いをもう少し楽しみたいという気持ちもあったのかもしれない。どちらにせよいただけない根性だが、それがこの男のこの男たる所以でもあった。

 だが今はそんなことを言っていられる状況でもない。やるべき事と些細なこだわりを天秤にかけるほど、無名は愚かではなかった。目的を履き違えるような愚は犯さないつもりだ。
 そうと決めるや否や、俄かに、無名から笑みが消えた。
 同時に動きに速さが増す。
 男は瞠目した。

「くっ」

 突然の敵の変化に僅かに動揺しながらも、全霊で矛術を駆使する。ひゅんひゅんと身体の回りで長い柄を巧みに回し、自らも数度反転を繰り返しながら、振り向きざま脳天を狙って打ち下ろす。
 無名は狙ったようにサッと後ずさり、真直ぐに伸びる矛の柄の上へと飛び乗った。更に一拍もおかず再び柄を蹴り、空中で一回転しながら、男の頭上高くを越えた。ザッと着地し、背後を取る。男が振り向くよりも早く身を捻り、背中のど真ん中へ鋭い蹴りを打ち込んだ。

「ぐぅっ!」

 男は吹っ飛び、樹へ激突する。ミシッと幹が軋み、葉が数枚舞い落ちた。男が飛んでいった軌跡には、無惨に薙倒された草の溝ができている。余程の勢いと力が加わったことが分かる。
 男は幹に蹲るようにして息を荒くつき、口を拭った。そこに赤いものが滲む。内臓を強かに打ちつけたか、口内を深く切ったのだろう。ゴホッと濁った咳をし、矛を杖にして即座に立ち上がる。
 休む間もおかず、得物を振って突進してきた。
 短い攻防が交わされ、その一つが無名の肩を切り裂く。出血は少ないが傷は思ったより深い。

 一層速さを増した男の矛術に、彼もこれまですべての力量を出し切っていなかったのが分かる。無名は素手一つで受け流しながら攻撃し、そして距離を取る。なおも追ってくる刃先を、今度は身を転がして避け、立ち上がりざまに何かを男に向かって投げた。
 草地に散乱していた、無名の矢のうちの一本である。転がると同時に掴んだのであった。
 思わぬ武器の出現に虚を突かれた男は、歯を食いしばって方向転換した。その左膝のあたりを、矢が掠めていく。男は回避と同時に穂先を繰り出していた。
 無名は横に飛んで再び転がる。追うように鋭い刃が突き刺さっていくのを、更に横へ転がっていきながら逃げる。隙を見て跳ね上がり、草地に残る矢の頭を数本、爪先で蹴って男の方へ飛ばした。

 それらをすべて矛が打ち落す間に、無名が一気に間合いを詰める。が、同時に男は最後の一本を打ち落とした勢いで、穂先を鋭く打ち上げた。
 その瞬間、なんと無名は肩に掛けたままだった弓を取り、刃先を避けざまに矛へと引っ掛けた。すかさずその湾曲した弧の両端をつかみ、渾身の力で回転させた。するとどういった加減なのか、弓は矛を軸に、凄まじい速さで旋回した。かと思えば、螺旋を描いて男の手元の方へと走り、その横面や腹部を強烈に連打した。

「!?」

 思わず男は顔を抑え、後ろへよろめきながらたたらを踏む。目をやられたようだ。
 その隙に無名は再び弓を拾い、立ち並ぶ樹の幹々を交互に蹴って、ある枝へ坐り上がると、頭の巾を剥ぎ取り何時の間にか手に持っていた矢の先に巻きつけ、顔の前に掲げてふっと息を吹きかけた。瞬間、布が巻かれた鏃に焔が宿る。そのまま火を噴く矢を弓に番え、ぎりぎりと引き絞った。
 その目線の延長、炎の狙う先には、煌々と明かりの灯す堯陣営があった。

「な、にを・・・・・・!?」

 目を抑え、片目も痛みに眇めて、男が切れ切れに叫んだ。
 無名は瞳を細め、真直ぐと鏃を堯陣営へ向ける。
 が、寸前で突如方向を斜上へ転換し、躊躇せずに思い切り放った。火矢は勢いよく飛んでゆく。
 夜空に、小さな星が瞬いた。

 そして。

 矢は緩やかな弧を描いて、地上へ向かう。
 橙の光が彗星のように、軌跡を辿って尾を引いた。その先にあるものは―――

―――陳雨大人(どの)!!」

 男が鋭く叫び、主の名を呼んだ。はじめて感情らしい感情が男の顔を過ぎる。 
 ―――矢は迷うことなく堯の陣営の中央、そこにある幕舎の天蓋を目指し、落ちていった。


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