憮然と文句をたれていた無名は、不意に口を噤み何かに気づいたようにサッと視線をとある方へ逸らした。
 すぐさま戻し、怪訝な顔をした李洵へ向けて唐突に拱手の姿勢をとると、やたら声高に言った。

「それでは李令君(李洵の官職・尚書令の呼び名)、自分はこれにて」
「は? え? あ、ああ・・・・・・」

 あまりに突然の無名の態度の変化に戸惑い、李洵は思わず目を瞬いた。この急な変わり身は一体どうしたことだろう。
 疑問に思いつつも、だが無名の強い目線に有無を封じられ、とりあえず曖昧に頷いておく。
 それを確認し、無名はひとつ礼を取るとサッと裾を翻して駆け去った。
 李洵は怪訝に眉を顰めその背を見送る。

(どうしたんだあいつ急に―――

 無名のとった行動の意味が分からず心中でそう呟く。
 ―――が、李洵のその謎は程なくして解けた。
 何故ならば。

「李洵殿」
「うおぁ!?!」

 いきなり横合いから声がかかって、李洵は思わず驚きの悲鳴を放った。
 慌てて振り返れば、いつの間にそこに現れたのか、智箋が佇んでいた。
―――刑哿とは別の意味で相変わらず神出鬼没な男だ・・・・・・)

 激しく動悸する胸を抑えながら、こっそりとそう胸中に漏らす。
 智箋という男は別段外見に問題があるわけではないのだが、醸しだす雰囲気のせいなのかどうにもいまいち影が薄い。というより、視界に入っているときはやたら存在感を放つのに、一旦視界から外れてしまうと途端にその存在が希薄になる。
 だから智箋が近くに寄って来ても、なかなか気付かないことが多い。時折わざと気配を消してるのではないかと疑うことすらある。そのせいか、声を掛けられるといきなり振って湧いたかのような気になるのだ。はっきり言ってかなり心臓に悪い。

「は、白暘殿ですか・・・・・・驚かさないで下さいよ」

 引き攣った表情でそれだけ言えば、智箋はもうそんな反応には慣れたのか、至極淡々とした笑みで受け流した。

「すみませんね―――ところで今の者は?」

 言って、智箋はつい今無名が去って行った方向へついと顔を向けた。どうやらこちらに来ている途中で、今の遣り取りの一部を目撃していたらしい。
 李洵は内心どきりとしながらも、持ち前の作り笑いで繕う。

「ああ、先程の奇襲隊の諸事を報告してきた者です」
「こんなところで、しかも李洵殿だけにですか?」
「念のため、堯軍の様子におかしなところや特に気がついた所がなかったか、個人的に訊いていたのですよ。あまり人目のある場所では、どこで間者が耳を欹てているやもわかりませぬから」
「それで、何か分かったことは?」
「いえ、特には」
「然様ですか」

 冷や汗交じりの苦しい返答に、智箋はつまらなそうに鼻を鳴らす。李洵の言葉を信じたのか、それとも勘繰っているのかいまいち謎である。
 どうでもよさげに智箋は再び李洵に視線を戻すと、再び口を切った。

「ところで、説明していただきましょうか」
「は?」

 李洵は目を丸くする。智箋は眼光を鋭くした。

「とぼけないでください。今回の事ですよ」

 シュッと裾を払って、年のさほど変わらない同僚に詰め寄る。
 風が吹き、二人の袍が大きく浚われた。

「それは、一体如何いう意味でしょう」

 乱れた袖口を摘んで身に寄せながら、李洵は小首を傾げ、不思議そうな声音を出す。

「貴方と殿が、私の知らぬところで何をしていたのか―――よもや私が気付かぬとでもお思いか」

 静かだが、確かな声調で智箋は押し迫る。李洵はそれでも断固とした態度で以って対した。

「申し訳ないが、仰っている意味を判じかねます」
「隠しだてなさるお心算か。此度の策、あれが殿の考えられたものではないことぐらい分かります。私には何の相談もなしというのも妙なこと。一体お二人で何を隠しておられる」
「さて・・・・・・私には何のことやら」

 可笑しげな微笑を刷きつつ、困ったように首を振る。智箋の追及に、李洵があくまで知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりなのは明白だった。
 智箋も李洵の頑なな性は知っている。彼が言わぬと決めたことは、どれだけ問い詰めてみても決して口を割らぬことも分かっていた。だからあえてそこで智箋はそれ以上問責するのをやめる。今此処でしつこく尋問していてもどうしようもない。
 だが、腑に落ちぬことは腑に落ちぬ。そして理に適わぬ隠し立ては嫌いだ。
 智箋は数拍李洵の顔をじっと睨み据えたあと、一時休戦を宣言するように両の瞼を下した。

「まあ、いいでしょう―――今は」

 ことさら強調して、言う。

「ですが、すべてが終った後に、必ず聞かせて頂きますよ。よろしいですな」

 李洵の胸元に指を突きつけ、半眼でそれだけを強く言い残してから、智箋は踵を返し歩み去っていった。
 その背が視界より消えるのを確認して、李洵はようやくホッと胸を撫で下ろしつつも、心の中で汗をかく。
 智箋が疑問を持つであろう事は予想はしていたことだが、さすがに彼相手に下手な嘘は通じない。本来ならば色々対処法を講じておくべきであったのだが、状況が状況だけに李洵も諸事務に忙殺されていて言い訳を練っている暇などなかった。
 これは光陵に帰ってからが大変そうだ―――と早くもその情景を想像し、李洵は憂鬱気な嘆息を漏らしたのだった。






 その頃―――

「ええい、くそ。この事態をどうする気だ!」

 峰絽関城内のある一室。
 その中を忙しなく歩き回りながら、干卷は焦りと憤りを綯い交ぜに怒鳴った。
 それを陳雨は床に座したまま冷ややかに見つめる。
 この時を以って尭軍はすでにその兵数400ほどとなっていた。

「こうなったのも、そもそもはお前の策のせいだぞ! なんとかしろ!」

 明らかな八つ当たりの言い草に、陳雨の視線は更に冷めたものとなる。
 己に何をする度胸もないくせに、状況が悪くなれば他を責める。しかも策の不始末を責めている相手へ、更に如何にかしろと策を求める。どうにも救いようのない男である。

「そうですね。全く今回は敵方に一杯食わされました。私も少々彼らを軽く見すぎていたようです」

 陳雨は床上に目線を落とし静かに言った。内容は殊勝だが、言う声音は淡白でひどく無感情である。あまりの冷やかさに、干卷の動きがギクリと止まった。我を失いうっかり獅子の尾を踏んでしまったかと、一気に熱が冷めたようにさーっと顔色が青くなる。
 赤くなったり青くなったり、あまりに分かりやすすぎる面相の変化に陳雨は心中で失笑しながら、

「かくなる上は篭城し、援軍を待つほかありません。幸い兵糧の貯蓄はまだかなりあります」
「援軍はどれぐらいで着くのだ」
「慶軍がこの地に着いてその日の内に早馬を出しましたから、早ければあと四日以内には」
「保つのか?」
「保たせるのです」

 陳雨は双眸を鋭く細めた。

「ここは堅牢堅固の要塞。しかもこの地形は、攻めてくる敵にはかなりの制約を強いられるでしょう。完全に防御に徹し、同時に奇計を用いれば、四日程度保たすことは可能です」

 だが、と干卷はどもりながら口を開く。

「え、援軍が来るまでに慶軍がここまで攻め込んできたらどうする」
「いざとなれば後門から礼州へ逃げ、辨礼(べんれい)城で再起を図ればよろしい」

 辨礼城というのは、峰絽関を抜けた最も近くに在する礼州郡県の城である。
 陳雨は続ける。

「兵が多いからといって、すぐに負けるとは限りません。大軍の弱点は、兵の多さに頼って油断が生じるところです。逆に我々は少勢であるが故に、皆死に物狂いで戦いに臨む筈。上手く兵士達の士気を落とさず、敵の油断を突けば、勝機はあります」

 その策については既に講じてあります―――と陳雨は言った。


 于卷の室を辞した後、陳雨は己に与えられた部屋に戻り、壁際にある牀台の上へと腰掛けた。
 膝に肘をつき、組んだ両手の上に額を乗せる。はぁー、と疲れたような重い溜息をついた。瞑目する眉間には、頭痛にでも耐えるかのように険しく深い皺が影を落としている。
 しん、と静まり返る部屋の中で、陳雨はただ動かずに、そうしていた。
 すると。

 「軍師殿―――

 どこからともなく、声が低く響いた。
 陳雨が微かに身じろぐ。顔を上げぬまま、一言呟いた。

徐尗(じょしゅく)か」

 名に反応するように、部屋の隅、一角の闇が動く。現れたのはひとりの男であった。痩せこけた蓬蓬垢面の風体。陰鬱な気を肩に背に負いながら、しかし眼光だけは鋭く強い。
 昨夜無名と山林にて闘った、あの細作であった。
 徐尗と呼ばれた男は部屋の隅その場で片膝をつく。その右目には今、帯状の木綿布のが無造作に巻かれており、白地に痛々しい赤が薄っすらと滲んでいる。

「軍師殿、まずはご無事で何よりでした」

 伏頭して低く述べる。

「ほうほうの体、といったところだがな」

 自嘲気味に笑い、陳雨は続けた。

「それで―――あの大火の時お前が姿を見せなかったこと、そしてその傷から察するに、何か掴んできたのだろう?」
「はい」

 徐尗は感情を感じさせぬ声で答えた。

「此度のこと、裏にて動いていたのは、ひとりの慶兵にございます」
「何?」

 そこではじめて陳雨の顔が上がった。暗中に控える徐尗を見る。

「その者は一体何者なんだ」
「存じませんが、随分と若い男のようでした。誰かの差し金で動いているのか、己の意思なのかは分かりません。ですが一慶兵として、慶軍がために動いていることは間違いありません。予想外に腕が立ち、不覚にもそのまま取り逃がしてしまいましたが・・・・・・」
「お前がそれほどの傷を負うほどだからな」

 徐尗は血の滲む包帯にわずかに触れ、

「お恥ずかしい限りでございます―――

 そっと、陳雨を見上げる。

「そうか・・・・・・」

 陳雨はぼんやりと中空を見つめ、独りごとのように小さく呟いた。
 陳雨を翻弄し、堯軍をここまで追い詰めた男。おそらく戯孟に助言を与えたのも、また―――
 陳雨は、見も知らぬその男を思い描いた。それは何故か、昨晩に見たあの若い兵卒の姿をしていた。
 己の内の中心の更に奥深くに、静かな炎が灯るのを感じた。
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