「このような所におったのか」

 乾いた岩地を踏みしめ、戯孟は前に座る人影へ近づいた。
 無名は岩の上に腰掛け、峰絽関を一望している。
 その隣に立ち、同じように日暮れに沈みゆく景色を眺めやる。

「よくお分かりになりましたね」

 一瞥もせず、無名は戯孟へ言った。

「鎮文に聞いてな。高いところを好むとは聞いていたが、よくもまぁこういう場所を見つけるものよ」
「さて、癖ですかねぇ」

 陣の後山を登ったところ。断崖絶壁にまぎれて、微かに足場となる径を登っていくとある、天然の高台。

「総大将ともあられるお方が、あまり単身で晃晃(うろうろ)なされますな。鎮文殿達が心配いたしましょう」
「儂とて、時には息抜きがしたいものなのだ。それに今は単身ではあるまい」

 ニヤリと不敵に笑む戯孟。
 無名は全く・・・・・・と半眼で見て、溜め息をつく。刺客に襲われても知らん振りしてやる、と心に誓った。

「その一瞬の隙が狙われる時もあるのですよ。まぁ・・・・・・そのお気持ち、分からぬでもありませんがね」

 言いながら、うーんとひとつ伸びをした。

「気持ちのよい風ですな」
「・・・・・・お主、あの時はぐらかしおったな」
「?」
「風を感じたと申した、あの真意をまだ聞いておらぬ」

 ああ、と無名は髪を掻く。ばれたかと、いささか面倒くさそうにする。
 別に隠し立てするほどのことでもないが、正直説明するのも億劫であったのだ。

「真意も何も、そのままの意味ですが―――まぁ読んだ、とでも言っておきましょうか」
「読んだ?」

 ますます分からん、と眉宇を寄せる戯孟。

「分かるんですよ、何となく―――

 無名は顎に手をやり、悩むように軽く眉を寄せた。だからこればかりは説明するのは困難なのだ。無名にとってみれば、何故二本の足で立って歩けるのかと言われているのと同義だった。歩けるから歩ける。本能的にそれができる。同じことだ。分かるから分かる。それに理由など無い。
 もともと至極感覚的なものであり、言葉には現しにくいことなのだが、できるかぎり適切な言葉を選ぶ。

「勘と言いますか、まあ、風の動きでしょうか。天文学者が星を読むように、あるいは山に住む者が天候を読むように。ある種の法則を感じるんですよ。こう、匂いみたいなものでね。特に砂漠風には前兆があるんです」

 前兆は二回。最初の兆候(きざし)から実際風が吹くまでには大体決まった間隔があるのだ。そして二度目の兆候は風が吹く直前にある。
 それが無名が気づいたものと、待っていたものだ。

「何度か遭遇しているうちに自然とそれが判別できるようになりました。まあ、一種の経験則とでも言うのでしょうか」

 やはり釈然といかぬという顔の戯孟に、無名はちょっと苦笑してみせた。

「そうですねぇ―――例えば鳥などは、天変地異を直前に察知すると申しますでしょう? それと似たようなものかもしれません」

 無名は、どうということもなく、ごく普通にそう語る。特にそれが特別なこととも思っていない。彼にはそれが当たり前に分かることで、呼吸をするのと同じくらい自然なことなのだ。
 戯孟は慄然とする。
 以前李洵がこの男を評して、『風を能く読む』と言ったことがあった。あの時戯孟はあれを、天文の知識や世の風向き、或いは情勢などといったものの喩えだと解釈していた。が、そうではない。この男は、本当に風を―――森羅万象を読む。

 ―――無名(この者)は、自然をも味方につけている。

 それは末畏ろしいことであった。だが同時に、戯孟の目には酷く魅力的なことに映った。双眸が、不遜に煌めく。

 ―――面白い。森羅を読む男か。

 合理的でないものは嫌いだ。割り切れないものも好きではない。古臭い伝承や迷信など糞食らえだし、仙術や妖術の類などはさらさら信ずる気にもなれない。だが。

 ―――得れば万騎の将に値し、天下への覇道を成す。儂にこれを使う器量があるならば、天をも味方につけたことになる。

(面白いじゃないか)

 使ってみせよう。使いこなしてやろう。その先に天下があるならば。
 たとえ自然であろうと、鬼であろうとも、この戯志明の足許に平伏させて見せる。
 戯孟は闘心にも似た烈しさで、心に誓う。


 そんな戯孟の心中を知ってか知らずか、無名は相変わらず曖昧な微笑を湛えた面を、暮れゆく赤天へ向けている。その顔も全身も同じ色に染まり、落陽に煌々と照らされ、輪郭が眩しい色にかたどられていた。その他の部分は、対照的に深い翳りを帯びる。
 途端、細波が退くように、すうっと感情の波が収まっていく。
 その余韻を感じつつ、戯孟は同じ方向を見た。
 先ほどまでの衝動が嘘のように、心が凪ぐ。

 ふと、自分も今同じように夕闇に染まっているのだと認識すると、途端になんとも言いがたい感が去来する。まさに黄昏時。其も吾も暗い陰影に沈む。心にも闇がじわりと忍び込み、得体の知れぬ胸騒ぎを覚える。
 不思議と心が騒ぐのだ。ざわざわと。これは不安なのか―――いや、高揚しているのだ。

 暗がりに浮かぶ険しい山の連なりと、ちらちらと光を反射しながら流れる河。天地の境界がなくなる。まるで己が宇宙の中にいるような錯覚に陥る。
 だが戯孟の胸に来するのは、壮大な自然に対する畏怖や虚無―――ではなく、それらへの対抗心だ。  
 目を眇め、遥か彼方を見通す。

 広い大地。広大な大地―――天下。

 今、己の国と、五つに分かたれている大地。これを一つにする。一つに統べる。自分がその大業を為し得る―――為し得んがために戦っていた。中津原と呼ばれる大陸の中心地域。かつてから数々の雄たちによって覇が争われた地。その狩場の中で、争いあいながら、天下への覇道をどこまでも駆ける。
 それはひとつの快感だった。壮大な夢。中津原を制し、四方に広がる大海を制して、その果てにこの広大な大陸を、天下をこの手に獲る。
 だがそれ以上に戯孟を天下統一に駆り立てて止まないのは―――

「国の痛み・・・・・・」

 不意に横でぽつりと上がった声に、どきりとする。己の夢想に浸っていた戯孟はその声に弾かれたように、横の無名を見た。

―――人の叫び」

 続けて無名は呟く。口元にはやはり薄い笑み。独り言のような呟きに、戯孟は我知らず言葉に詰まる。

「何だと?」

 怪訝な表情で無名を見つめた。言葉に詰まる要因が分からなかった。だが何か―――何かが、心の琴線に触れた。
 数拍おき、無名は少し目を眇めて首を振った。曖昧な笑み。

「・・・・・・いいえ?」

 それから戯孟の方を向いた。

「道は遠うございますな」

 その言葉の意は。
 一呼吸置いてから、戯孟も同じように、唇の片端を上げた。

「ああ、そうだな」

 無名の指しているものが何かは確とは分からない。天下への覇道のことか、それともこの遠征のことかもしれない。だが、それはどちらでもよかった。なんとなく戯孟には無名の言わんとしていることが分かったから。
 道―――それは、己が今歩んでいるもの、そして己の目指すもの。
 ただ戯孟は気付いていない。先程の痞えの正体。無名の言葉こそが、己の心の最も核心部に触れているものだということに―――
BACK MENU NEXT