無名は言う。

「かつて大陸を恐憾させたかの太陽道の乱は、その最たる例ですね。信心とは恐ろしいものです。深すぎる信仰はその者の目を盲ませ、激しく信ずる念は時に想像を絶するほどの力を発揮する」

 確かにそうだ。
 戯孟は無名の言葉を胸中で反芻する。
 狂信的な者ほど危険なものはない。彼らには己の信ずるものが全てであり、世界であり、そしてそのためにすべてを捧げるのを惜しまない。
 戯孟はかつて太陽道の暴徒達の鎮圧に参戦したことがあるため、そのことは身にしみて感じている。はるか古の時代には、多くの人心をひとつに纏めるために為政者達は祭祀―――宗教を利用した。つまりそれだけの効力が、宗教にはあるのだ。
 戯孟の心を見越したように、無名は次の言葉を続けた。

「胡公呂伯もまた例外ではありません」
「呂伯が?」

 戯孟は軽く瞠目した。呂伯が何かを信仰していたなど、初耳である。
 無名は肯く。

「閣下のご想像通り、このたび私は陳雨を堯から離すために―――いえ、後々禍となるであろう胡を、堯と離反させるために謀を打ちました」

 そこで、隣の李洵へチラリと目配せをする。含みある視線に李洵はハッとし、

「ではまさか、あれが?」
「正解」

 にっこりと、今度は邪気のない笑みを浮かべる。見えない話題に戯孟が口を挟んだ。

「どういうことだ?」

 李洵へ説明を求める。李洵はやや戸惑いながらも、

「いえ、実は以前に無名より言い付かり、光陵へ令書を持たせた使者を送ったのです。『直ちに金、銀、玉等を用意し、堯からの使節を装い、友好の証と称して胡へ贈れ』と。念のためお断り申し上げますが、品々は尚書台と少府府で相談をもちかけて議定したのち、国政に障りないと判断される範囲で国庫から出させていただきました―――それでその際に、貢品の簿籍に『如艶蒜香』を入れること、そして手紙の末尾に『日必是落入暗』と記入することを条件としました」

 と答えた。戯孟は軽く呆れた。

「儂はそんなこと一言も聞いておらぬぞ」
「まあ、秘密裏に、とお願いしておりましたしね。閣下の動きが内間や外間(間者。こちら側から送り込んだスパイ)からあちらへ伝わると、企てを悟られてしまう恐れがあるので。あ、これはあくまで私の独断ですので鎮文殿をお責めにならぬように」
「安心しろ。お主の秘密主義はとうに知っておる」

 戯孟はふん、と皮肉げに言い放ったが、無名はそれはよかったと明るく笑い返した。
 なんだか無名の調子(ペース)に乗せられているような気がして、戯孟はなんとも言えぬ面持ちで目を泳がせる。だが何故かあまり嫌味に感じない。不思議だ。右手で顎鬚を撫でつつ、話を本題に戻した。

「それで、如艶蒜に―――なんだったか、『日コレ必ズ落チ暗ニ入ル』? 結局これはどういう意味なのだ」

 そうですねぇ・・・・・・と言いながら無名は酒杯を正面の床上へ留め、改まった調子で両手を膝の上に置く。

「お2人は、浮図(ふつ)というものをご存知でしょうか」 
「フツ?」

 戯孟と李洵は互いに顔を見合わせる。聞いたことのない名だ。李洵がそう言うと、

「遥か西域にある天華(てんが)より伝わってきて、ここ最近庶民を中心に少しずつ広まりを見せている新興の教えです。今はまだ少数派で知名度も低い信仰なので知らないのも無理はない。私も実際浮図の徒に会ったのは偶然の一度きりですしね。だが、人によってはそのうちに(じゅ)(どう)に取って代わって、この大陸全土に広がるのではないかと言う」

「成る程―――それで、その浮図とやらが一体どうしたのだ?」

 戯孟が先を促す。

「胡の呂伯は、その浮図教をとても厚く信心しているそうです。西域からの僧をもてなし、他国では異端とされる浮図の徒を擁護しているほどだという」
「ほう、そのような話、初めて耳にするぞ」
「私もです」 

 戯孟と李洵は素直に驚きを口にした。
 西域と呼ばれる、西の広大な砂漠を越えた彼方に、自分達とは文化人種を異にする国があるのは知っていた。そのなかでも天華とは特に交流が盛んであり、交易の歴史も古い。西の辺境に防衛設備として建設された長城の下では天華からの隊商が頻繁に訪れるし、取引された彼らの品を中央の城下で目にするのも珍しくはない。

 だが今東の大陸にほぼ占めている信仰は―――宗派は色々あるにしろ―――先程無名の言った需教や道教と呼ばれるような、大陸独自のものであった。
 先の大反乱を起こしたかの太陽道も、元を辿れば道教から発生したものだし、特に需教などは、東の大陸に住む人々にとってはすでに生活と切って離せないほど深く根付いている。
 最早それが行動理念であり判断指標となるように血に染み付いており、また政事の姿勢にも深く影響していた。更に言うなら、その二つ以外の宗教はすべて邪教として扱われた。

 だからこそ他の思想を信仰することは、さほど信心深くない戯孟であっても、いわんや名門出で典型的な需家の李洵などには理解しがたいことだった。
 だが乱世という情勢の為せる技なのか、最近になって世間で需教そのものの在り方に、疑問を投げかける声が挙がってきているのも、また事実であった。

「そして浮図には、悪しき象徴とされる花があるそうです」
「花? ということは」

 李洵の声に、無名は肯き示す。

「そう。如艶蒜、つまり曼珠沙華は、浮図の徒にとっては禁忌なんです。これは私が会った浮図徒の一人に聞いた話なんですが―――浮図の開祖の娑兌(しゃだ)がある日煩悩を絶つべく修行していたときに、美女の姿をした魔物、羅耶(ラーヤ)が現れ、これを誘惑しようとしたといいます。娑兌は誘惑に苦悩しながらも耐え続け、ついに悟りの境地をしてこれを退けた―――という説話があるのだとか。浮図の教えは、世俗を離れ煩悩を絶つことで心の平安を見出すところにあります。まあ、その美女の誘惑ってのがつまり煩悩の象徴なんでしょうね。そして曼珠沙華はその羅耶の化身とされ、その香りは誘惑の象徴だといいます」

 聞き、戯孟は顎を撫でながらふむ、と頷いた。

「成る程な。即ち如艶蒜を贈るということは、浮図の徒にとっては冒涜に値するわけか」
「ご明察です」

 無名はにっこりと笑う。

「では『日コレ必ズ落チ暗ニ入ル』というのも」

 確認するように戯孟は問い掛ける。わざわざ手紙に書かせるくらいだ。これもおそらく例の浮図に関係しているのであろう。それも、あまり良い意味ではなく、だ。
 果たして無名は「ええ」と答えた。

「娑尊―――娑兌弥羅尼(しゃだやらに)は太陽の顕現とされ、信者の間では如日(にょじつ)とも呼ばれるそうです」

 "日の如し"―――それだけで戯孟と隣で聞いていた李洵は理解する。ここに来てやっと無名の狙いが分かってきた。
 戯孟は逸る気持ちのまま身を乗り出すようにし、しかし押し殺した声で低く尋ねた。

「つまり、『日これ必ず落ち暗に入る』況や如日を()ということか」

 その通り、と無名はますます笑みを深める。

「日は必ず落ちるもの。ならば如日とて、いつかは如艶蒜(ぼんのう)によって地に堕落()ちよう。たとえ神の如しといえども、人間にはかわりない―――あの一言に込められた意味、浮図の徒ならばすぐに分かる筈。そして信仰厚い呂伯がそれを聞いて黙っていられる筈はない」
「必然的に呂伯は怒り、胡と堯の同盟は破綻する―――

 後を李洵が引き取る。
 無名の双眸に、研ぎ澄まされた刃の光が鋭く閃いた―――少なくとも戯孟には、そう見えた。
 昂揚感に似た心地よい感覚が背を走る。

「そうか、だからお主はしばし停戦せよと申したのだな」

 今やっと謎が解けすべてがひとつにつながり、戯孟は感嘆を漏らした。停戦してから10日経った。おそらくそれは、李洵の送った使者が慶へ到着し、手配どおりに事を進め、そして呂伯がまんまと計に嵌って陳雨へ帰還の令書を出すまでの時間。
 無名は座したまま、両手を掲げ拱手した。

「これで、これよりのち閣下や御麾下(ごきか)の方々を煩わせる存在は消えました。どうぞ思う存分進撃なさって下さい」
「お主も従軍するのだろう?」

 不思議そうに戯孟が質すと無名は軽い調子で肩を竦め、

「いいえ、そうしたいのはやまやまなんですけど―――生憎、兵名籍から外されてしまいまして」
「何っ?」

 目を丸くして驚く戯孟。無名は隣でひとり涼しげな顔で酒を飲む李洵を横目で睨み、

「鎮文殿の仕業です。私の意見も聞かないで、ひどいですよねぇ?」
「影で色々するのはお主の常套手段であろう」
「うっわ、嫌味な奴だな」
「嫌味で結構。それよりもお主、あれだけのことをやっておいて今更隊伍に戻れるつもりでいたのか」

 李洵は呆れ混じりの目を向けた。無名はしれっとあらぬ方向へ顔をやる。だが実際は李洵の言うことの方が正しい。今回のことで無名はいささか目立ちすぎた。兵卒たちの中に戻ったところで、何事もなかったようには振舞えまい。
 戯孟はハハハと豪快に笑いながら、言い合う二人の間に仲裁を入れた。

「まあまあ、よいではないか。今更編成を組み直すわけにもゆかぬし、お前は李洵と留守番だな」

 李洵は拱手し、はい、と深々と頭を下げる。
 そろそろ夜も更けてきたし明日はついに攻城となるゆえ、今夜の酒宴はここでお開きにしよう―――と戯孟は腰を上げた。李洵もそれに続く。 
 が、無名だけは、何かまだ思うところがあるように、始終そっぽを向いたままであった。


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