「無名」

 戯孟は腹の底に力を溜め、その名を呼んだ。名には音に出すことによってこちらに従わせる力を持つと言う。その類の伝承は眉唾ものだが、今この時だけは、確かに少なからずその効果を理解できるようにも思える。頂に立つ者らしい低い声音には、無視することを許さぬ強い響きがあった。

 無名は相変わらず戯孟に背を向け正面に視線を投じたままで、身動きしない。彼が向こう側でどんな表情を浮かべているかは、戯孟からは窺い知れない。だが戯孟はそんな無名の態度については今更敢えて言及する気などない。ただ威圧的に、しかし相手に対する限りない礼と揺ぎない敬いを込めて、その言葉を言った。

「無名、儂に仕えぬか」

 布の幕で、そんなことあるはずもないのに、しかしその声音だけは反響して聞こえた。
 背は動かない。
 戯孟はじっと視線を注ぎ、

「お主のその才気を、我が下で活かす気はないか。お主がいれば必ずや天下を取ることができる。儂は確信している。お主こそが、儂を補け、我が覇業を成さしめ得る男だと」
「・・・・・・王佐には、鎮文殿がおられるのでは?」

 涼やかに、無名は問い返した。こちらからは後頭部しか見えないため相変わらず彼がどのような表情をしているかは計り知れないが、少なくともその声音の感じから、別に李洵に遠慮して言っているわけでないことは窺えた。
 戯孟は答えた。

「だからだ。鎮文は優秀な片腕。だがあやつは『王佐』なのだよ。戦を作る者ではない。内政にこそ真にその才が活きる。だが、儂が求めているのは王佐だけではない。内を守るだけでは駄目なのだ」

 戯孟の声調に力が篭る。そう、それだけでは足りない。覇者となることはできない。

「儂が欲するのは、戦―――軍師としての才のこと。今儂の所にも有能な謀臣は多くおる。が、策を練り、戦を作ることに関して、お主と並ぶ者はない。そして武においても―――武術ですらお前に適う者は、おらぬやも知れぬ。だから儂はお主が欲しい。その天の与え賜う才を持つお主が、必要なのだ」

 どこにどう兵を動かせばよいか、どう陣を配置すれば勝てるか、どうすれば相手を不利に持っていき、自軍を有利に導けるか、瞬時に見極める才。人の心理を読む才。冷静な分析力と洞察力。先見の明―――
 それを天才的に兼ね添えた、存在。
 戯孟は今は後を向いて見えない無名のあの瞳を思い出す。すべてを見通してしまうような鋭く澄んだ瞳。戯孟の心を読んだかのように、なおかつ一番欲している言葉を的確に発する。戯孟には、そういう人間が必要だった。

「我が覇道を助け、ともに天下をとらぬか」

 背は何の反応も返さなかった。
 幕の内に、しばらくの沈黙が訪れる。
 無名は何も言わない。
 戯孟も何も言わない。その背を強く見据えて、目を離さないまま、ただ返事を待つ。
 そうやって、どれほどの刻が過ぎたのか。
 やがて、ふう・・・・・・と諦念めいた溜息を零す音が聞こえた。
 そして。

―――考えておきましょう」

 振り返る淡笑とともに、ただ一言。
 だが、戯孟にはその一言で十分だった。

―――二言はないな」
「ええ、まぁ」
「・・・・・・確かだな」
「はい、多分」
「よし!!」

 いまいち信用に欠ける返事だが、戯孟は勢いよく頷くと、バンバンッと力いっぱい無名の両肩を叩いた。意表を突かれ思わず目を瞬く無名へニカッとばかりにひとつ愛嬌ある笑みを浮かべ、身を翻して足取りも意気揚揚に幕から出て行こうとした。
 が、そこで数歩ほど後ろ向きに戻り、くるりと振り向くと、未だにきょとんとしている無名に向かって、

「絶対だぞ!!」

 びしっと念を押した。無名は思わず苦笑し、

「はいはい。一応先約名籍(リスト)には一番最初に載っけておいて差し上げますから、さっさと行ってらっしゃい」
「先約名・・・・・・??」

 何じゃそりゃ、と問う前に、さあさあと無名に促され、首を傾げつつも入り口を跨ぐ戯孟。
 それよりも臣下らしからぬ言葉遣いや、そもそも15も歳上の者に対しての傍若無人な振る舞いこそ気にするべきではと思うのだが、幸いと言うか本人は全く気づいていない。
 そんなところに更に苦笑を覚えつつ、その背中を見つめ、

「閣下」

 ふと思い出したかのように無名は出て行こうとする英雄を呼び止めた。

「? 何だ」

 戯孟は呼び止めた相手を振り返える。
 その者はひたと眼差しを戯孟に向けていた。最前とは打って変わりどこか静謐とした雰囲気に、戯孟は先程にも感じた正体不明の違和を感じた。
 無名は静かに―――どこまでも静かに言った。

「覇者とは王の先駆け。そして王とは国に奉げられた人柱(にえ)でございます。天と地の間に立ち、(ちゅう)の人を守る人柱。森羅との共存をはかり、恩恵を育み、国という大家を支える柱―――それを努々(ゆめゆめ)お忘れなきよう」

 外で風が吹いた。頬でそれを感じながら、戯孟は不思議そうに無名を見返していた。
 が、やがて相手の言わんとしていることを悟ると、戯孟はしかと頷いた。

「心得ておる」

 それだけを言い残し、駆け足で表へ出ると、側に繋いであった馬の背にひらりと飛び乗り、掛け声とともに馬腹を蹴って、後ろを振り向かずに駆け去って行った。
 無名はそれを何処までも見送った。




 去り行く影すらもが視界から消えてから、ようやく無名は踵を返して幕の内へと戻る。そして先程まで自分が座していた椅子の横を通り過ぎると、端に置かれていた桌子(つくえ)に近づいた。
 桌子の上に置かれた箱。そこから(きぬ)を一枚取り、側に置かれている硯を引き寄せて筆に墨をつけると、おもむろにその白面の上へ滑らした。サラサラと文字を綴る音だけが幕の中に流れる。筆の動きは止まることなく、その間無名は珍しく真面目な表情で、白い布面に集中していた。
 やがて書付を終えると、筆を置き、墨が乾くのを待ってから帛を丁寧に折りたたむ。
 それを片手に持ち身を返して椅子に歩み寄ると、その上にそっと置く。そしてそのまま幕の入り口に向かい、外へ出た。

 風が吹いている。

 無名はふと立ち止まり、半身を振り返って空を見上げた。
 髪や、巾の垂が攫われる。
 幕舎の布が大きく揺れる。
 かたん、と中のほうで何かが倒れた音がした。
 砂嵐が舞う。渦を巻く。設営された数々の幕が翻り、バサバサと音を立てる。暴風、というほどまでではない。しかしそれは飄、と音を立てて、陣営の中を激しく吹き荒れた。
 その最中で無名は髪も服もただ風に遊ばれるままに双眼を開き、じっと天を見つめ―――いや、風を感じていた。
 風は冷たかった。遠く北から吹いてくる風。
 ついと目線を落とし、瞼を伏せた。

 ―――儂に仕えぬか―――
 耳の奥に、ここにはいないはず人物の声が、おぼろげに響く。
 戯孟は英雄だ。おそらく五国の中で一番大きな。頭脳、武、度胸、器量、財力、魅力――すべてを兼ね沿え、どれをとっても飛びぬけて優れている。まさに覇者となるために生まれてきた男であった。小柄な身体。しかし側に寄れば大きな気配。それは強い存在感の証だ。目に見えぬ、内から滲み出る溢れんばかりの精気が、戯孟を大きく、力強く見せるのだ。

 だが戯孟を天下の覇道へと突き動かすその原動は、彼自身が身体の奥底で感じている痛み。
 恐らくそのことに当人は気付いていない。しかし、彼は国の痛み―――人の痛みに、無意識に共鳴している。

 戯孟は本来気性の激しい人間だ。その激しさはこれまでの戦の数々からも読み取れる。だが同時に、ひどく脆くて繊細な人間でもあった。それは打たれ弱い脆さではない。精神的な弱さでもない。もっと内面的な、深層の歪み。
 戯孟はしばしば驚くほど度量の深さを見せる。有能な人材と見れば、たとえ煮え湯を飲まされた敵であろうと、罵詈雑言を浴びせられようと、その者を許す。

 気性の激しさと矛盾するようなこれは、戯孟の感情制御と、莫大な忍耐が影にある。荒れ狂う激情を内に留め、理性を保っているのだ。その甚大な精神力は計り知れたものではない。だからか、戯孟は詩を詠む。詩を吟ずる。内部に留めた激情を、何らかの形で外に発散させようとする心理的な働きが、彼の詩という形であらわれる。戯孟は強い。強いからこそ脆く、繊細だ。

 危うい、と無名は思った。
 とても、危うい。
 戯孟を見ていると、無名は時折痛みを覚える。
 あの均衡が、非常に怖い。
 警鐘を感じずにはいられない。
 戯孟の内に、時折輝く抜き身の諸刃を無名は垣間見た。
 今はギリギリの際でなんとか押し留まっているように見えるが、いつその最後の手綱が切れるか分からない。そんな、一触即発の焦燥と危機感。

 具体的な原因までは分からない。しかし戯孟自身の心の奥底に―――深い闇のようなものを無名は感じた。狂気とも言うべき闇。人の心が持つにしては、暗すぎる凝った深淵。戯孟の持つ激情と、何らかの因縁のある闇。
 均衡が崩れ、闇に食われれば、戯孟は道を誤まる。
 そのことに。その危うさに気付いている者はいるのだろうか。おそらく本人ですら、己の内に宿る歪に気づいていない。少なくとも今いる者で感づいているのは自分だけだ。
 均衡を支えられる者が果たしてかの英雄の側にいるのだろうか。あるいは今後、現れるだろうか。
 もしかすれば、今それが出来るのは、自分だけなのかもしれない。

 だが。

 瞼を、こめかみを、風に遊ぶ髪がさわさわと撫でる。
 風が言う。少し前より感じていた風が。
 まだここには留まれぬと。まだ見ぬ何かが、先に待つものがあると、囁く。
 訴える声を、無視してもよいのだけれど―――

 無名は頭を上げた。
 広く広がる青い宙を仰ぎ、誰へともなく笑顔を浮かべた。

 ()―――。どうやらまだ、『その時』ではないようですよ。

 今はただ、風のままに―――

 散々に吹き荒んでいた風は、もう止んでいた。




 勝鬨が聞こえる。


 峰絽関を陥とした声だ。
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