于卷をはじめとする兵たちは、草木鬱蒼と生い茂る山道の両脇に、身を潜めて待っていた。
 いずれこの道を、慶軍が通る。礼州に入るためには、必ず此処を通らねばいけない。そこを待ち伏せして、来たところを一挙に狙う、と于卷は言い出した。
 相手は30万弱の大軍で、こちらは少数勢。奴等は先程の勝利もあり、きっと油断してくるに違いない。まさかたった40にも満たぬ我らが逃げもせず、こんなところで奇襲をかけてくるとは思いもよらぬはずだ。
 于卷はそう踏んだ。
 上手くすれば戯孟、もしくはその配下の武将のひとりでも、討ち取れるかもしれない。
 于卷にはもう、死への恐れなどなかった。ただ一矢。一撃。それだけでいい。今度こそ。今度こそ。
 今彼は、決して断つことのできない怨憎と復讐の念に支配されていた。
 草葉の間の狭い視界から、ギラついた眼で遠くを見続ける。

 もう少し。あともう少しで。
 早く来い。早くはやくはやく―――

 俄かに、遠くで足音がした。

 ―――来たか

 一瞬歓喜に身を起こしそうになり、瞬時に押し留める。

 ―――待て、妙だ。

 静かすぎる。蹄の音が全くない。しかも、足音は一つだ。
 妄念の成せる業というのか。于卷の頭は、これまでもなく冷静に物事を捉えていた。
 茂る草の陰からそっと窺う。と、向こうから一人の軽装の男が歩いて来るのが見えた。
 いかにも旅人然とした様相である。

 (旅人? まさか。今の今まで戦をしていた所だぞ? 旅人なんかが通るものか)

 更にじっと目を凝らす。男は何処からどう見ても一人のようだった。慶軍側の罠とか、そういったものは感じられない。鼻歌などを歌ったりして、揚揚とこちらに近づいてくる。

(投降兵か? それともこちら側の間諜か?)

 そのどちらでもないことは明らかだった。しかしそうでなければ他に説明がつかない。一体何なんだ。何が目的なのだ。于卷は焦りいきり立っていた。
 と、男の歩みはやがて于卷たちが潜んでいる所に差し掛かった。
 兵が困惑気味に顔を向け、目で対応を伺う。于卷は手で制止を示し、しばらく様子を見ることにした。
 まだその者が慶軍側の手の者と決まったわけではない―――只人と言うにはあまりにも不自然だが―――ここで下手に争って、こちらに向かいつつあるかもしれない戯軍に気づかれてしまっては、折角の計画が水の泡である。このままやり過ごすべきだ、と理性は言った。
 そう思って気配を押し殺し、歩み去るのを待つ。が―――

 于卷の目の前を通り過ぎようとした男は、不意に足を止めた。

(?)

 予想外のことに于卷は思わずきょとんと目を瞬かせる。
 目と鼻の先に立つ男は相変わらず正面を見つめたまま。
 が、軽く嘆息したかと思うと

「全くおっかないことだ。そんなに殺気をプンプン漂わせてちゃ丸見えも同然だぞ」

 瞬間、于卷は声を上げそうになった。しかしそれは適わなかった。
 于卷が身を上げる間に、男は目先から掻き消えていた。と思ったと同時に、上がる呻き声。慌ててそちらを振り返れば、次には別の場所で声が上がった。

(何だっ? 何が起きてるんだ!?)

「こ―――殺せッ  殺せぇえーーー!!」

 混乱に陥った于卷は唾を飛ばし、裏返った声音ででヒステリックに叫んだ。その怒号に反応したのか、次々に兵たちが姿を現し、謎の敵へと攻撃を仕掛ける。
 だが―――

「ば―――馬鹿者が!! 矢を向けるな!! 同士討ちになる!!」

 奇襲に備え、殆どが弓矢を得物としていたため、攻撃手段も自然決められた。だがこの狭い山道で、更に敵は一人だという状態でそれをすればどうなるか。
 于卷が怒鳴ったとおり、放たれた流れ矢や外れ矢は味方へ当たり、次々と兵卒達が倒れてゆく。しかし恐慌状態に陥った兵卒達は弓を引く手を止めない。
 于卷は焦った。こんなはずでは。こんな筈ではなかったのに―――
 その時、耳元で声がした。

「全く本当にその通りだよ」

 ぎくりとして振り返ると、そこには既に誰もいない。すると後方で、矢を放とうとしていた兵がぎゃっとうめいた。
 今度こそ、と首を返せば、弓を構える兵を目にも止まらぬ速さで叩き倒してゆく男の姿が目に飛び込んできた。武器は何もない。身一つで矢を避け、流れるような動作で次の瞬間には的確に急所へと蹴や拳を打ち込んでいる。眼前に繰り広げられながら、しかし已然信じられぬ光景に、于卷は硬直した。歯の根が合わない。

「な、何者なんだ・・・・・・お前は一体―――

 呆然と言い差し、ハッと見やれば、30余いた兵士は何時の間にか動いている者はいなくなっていた。気がつけば、己とその男の2人。
 隊として30という数はあまりにも少数だ。しかし1人に対し、絶対的に人数として見れば、決して少なくはない。なのにあれだけの兵たちを、たった1人で、しかもこんな短時間に―――
 男はあれだけの立ち回りをしたにもかかわらず、息ひとつ乱していない。こちらに背を向けるように立っていたその男は、そのままの状態でゆっくりと言葉を発した。

「何者だと訊かれても、何とも答えられないんだけどねぇ・・・・・・―――まぁ、約束をすぐには果たすことのできない公への、せめてものお詫びかな」

 話の見えない奇妙な台詞を吐き、一人納得する男に、于卷はいよいよ混乱した。約束? 公? 何の話だ? 公とはまさか―――
「まさかお前は―――
「まあ名前くらいなら名乗ってもいいけど」

 何かを言いかけた于卷を遮るように、男が零した。そしてそのまま振り返ったかと思うと―――
 次の瞬間には背後から声が聞こえた。

「俺はね、“無名(ウーミン)”だ」

 それが于卷が最後に聞いた言葉だった。


 がしゃっと鎧の重い音を立てて足元に昏倒した敵の武将を見下ろし、といっても偽名だけどね―――と聞こえもせぬ一言を付け加えた。

 無名がここに来た理由。慶陣営を発ってから特に何処へ行く当てもなく、折角関所の煩い審査などがないのでこのまま礼州に入り、その一番初めの地―――堰耶群青県から、同郡南に位置する仰爾(ぎょうじ)緑氾(りょくはん)庄を目指すためであった。

 だからここを通るのは自然の成り行きではある。しかし最後の戦に参加しなかった無名は、本来ならばもっと早く―――于卷たちよりも更に早く通っている筈だった。
 無名は、敢えてわざと遅れて来たのであった。
 いや、身を潜ませていたというほうが正しい。
 彼はこの山道を見るなり、伏兵に適した天羅の相を様していることを見抜いた。天羅とは六害のひとつである。六害は、行軍中に遭遇したら直ちに脱出すべき六種類の危険な場所のことを指し、絶澗・天井・天牢・天羅・天陥・天隙がある。その中で天羅とは網のごとく草木の密生した地を言う。兵が臥せ、奇襲をかけるには丁度良い土地柄だ。
 そしてもうひとつ―――無名は、于卷がこの地で奇襲をかけるであろうことをある程度予測していた。

 于卷は非常に短気であり、自尊心の高い男だと聞いている。何もせずこのままおめおめと張斯の元へ戻るなど、彼の面子にかけてできないだろう。また、そうしたところで彼に待っているのは厳しい懲罰だ。だから彼がもし一矢報いたいと願っているならば、おそらく狙うのは此処。

 無名は予めそれらを推測して、すぐ側の樹の上で待っていた。すると案の定、関から逃げてきたらしい兵たちが来、そしてその中于卷と思わしき司令官が部下たちに潜伏を命じた。 数は大体にして30程度。独りで何とかできる範囲だった。奇襲の際に最も使われる武器は弓。適度に撹乱してやれば、あとは自ずと同士討ちにもっていける。

 そうしてそれを実行し、今にいたるわけである。
 無名は軽く肩を回して筋肉をほぐした。これが、慶の兵士としてする最後の仕事である。
 半身を返し、慶の野営がある方角を望む。そのまま空を仰ぎ見て、身体を戻し、最後の仕上げに取り掛かった。


 此度は縁がありませんでしたな、公。
 ですが縁とは天の与えしもの。
 再び縁ありせば、或いは閣下の運気が強いものなれば、必ずやそれ(、、)は貴方を導く。
 そしてこの広い大陸の中再び出会うことができれば、それは私の主君たる天運を持った御方であることの証。
 さすれば私は天命に従いましょう―――




 無数の蹄の音が大地を響かせ緑を揺るがす。先日の大雨でぬかるんだ道は泥のようになり、馬蹄が抉る度に黒い飛沫があちこちへ跳ね散る。
 戯孟は峰絽関を陥とすと、時を待たずすぐに一部の隊を率いて行軍を開始した。
 戯孟は30万の軍を3つに分け、兵士たちの疲労状態を調べて休息が必要なほど極限に達してはいない者を選抜し、10万ほどの精鋭の騎馬隊を編成した。兵は神速を尊ぶ。より速ければ速いほど、敵に防備の隙を与えない。そして兵士たちの士気が高揚しているこの時こそ、勝ちの勢いに乗じて礼州へ攻め入るのがよしと判断したからであった。
 その他の軍は一時峰絽関に留め、10万は峰絽関の守りとして李鳳に、残り10万は一時遠征の足取りを戻る隊として智箋に託された。

 関城の守りは、今まで獲得してきた領地が堯の手に奪い返されぬよう峰絽関で足止めをするためである。10万を置くのは残党の可能性などを警戒した上であるが、そのうちに5万は、先陣の戯孟の軍が礼州の青県を落とした後、時を見てあとを追い合流する手筈となっている。

 またもう一方の隊は、それらの領地の確保と安定化を確実にするためのものである。智箋は内政に関して優れた手腕を持つため、戯孟は彼に屯田の開墾、人民の救済、その他様々な制度の取り決めに加え、反乱が起こればその鎮圧など、戦火に乱れた研州の整備を任せた。土地を確固としたものにすることは、領民を完全に慶のものにすることを意味し、戯孟の土地拡大の足場固めとなる。

 同じく内政の才を持つ李洵は、しかし首席参謀として戯孟に付き添った。
 そして今は、峰絽関を越えて、その背後に続く山道を礼州に向けて進軍の真っ只中である。
 と、斜め後ろで主に付き添っていた武将の一人がにわかに馬足を速め、主の馬に並び近寄って、囁きかけた。

「殿、この先は密集した山林が続くところに差し掛かります。如何致しますか」

 確かに先を見やれば、遠くに鬱蒼とした暗がりが確認できる。于卷の伏兵の可能性を考えたのだ。
 このまま進めば、もしかすると敵の奇襲に遭うかも知れない。
 だが、

「いや。このまま突っ切る」

 戯孟はきっぱりと言い切った。

「宜しいので?」

 配下の武将は不安げに確認する。

「構わぬ」

 主がそこまで言うのならば、それ以上進言することはできない。主の判断を信じ、その決定に何処までも付いて行くのが臣下の義務である。武将は御意、とひとつ頷くと元の配置へ戻った。
 相手は僅か少数の兵を率いて逃げる手負いの将。まさか、よもやこのようなところで奇襲をかければ、一時的には優勢を得られてもすぐに巻き返されてしまうだろう。多勢に無勢である。そんな命知らずな愚行を犯すとは考えられない。

 それでも、普段の戯孟ならば言われてそこで止まったかもしれない。慎重なこの男のことだから、おそらく伏兵の有無を確認してから進んだであろう。しかし何かが、戯孟にそれをさせなかった。いや、何やら確信めいたものがあったのだ。直感とも違う。

 ―――あそこに伏兵はない。奇襲は起こらない。

 不思議とそう納得していた。根拠のない自信だが、決して外れないという確固たる予測。

「進めーーーー!!」

 各隊に檄を飛ばし、歩兵ともども勢いのまま一気に駆け抜ける。
 地が割れんばかりの轟音を立てて、濃色な緑の中を大群が次々に通り過ぎる。

 樹の上から、無名はそれを見下ろしていた。

 高い枝の上に腰掛け、組んだ膝の上に頬杖をつき、いつものように笑みを浮かべて。足下を横切る人馬の群れを、穏やかに見送る。
 樹の根元には、堯の兵たちが、叢の中に埋もれるようにして倒れ伏している。
 その横を、戯孟率いる騎馬隊は通り過ぎる。

―――そう、それでよいのですよ。

 諭すように、無名は心の中で密かに呟いた。

 ―――貴方は貴方の信ずる通りに道を行かれるがよろしい。

 軍影はやがて山林の奥に消え、驫は空の彼方に溶け込みんだ。

「さて」

 無名は樹上から飛び降り着地すると、背を伸ばし、騎馬の後を追うように研州の方向へ歩み出す。
 その背を、囁くような風が撫でた。 
 若緑の山道を、清清しい空気が吹き抜ける。




 建覧4年。太祖堯に遠征す。太祖、峰絽関を下し、喬が助力を以て、十州のうち七州を奪う。太祖、烈火の如く堯を攻むるも、張斯、俄かに勢を盛り返し、卒として反撃す。斯、慶喬を抑え、終に二州を奪還、慶勢を五州に留む。太祖、光陵へ帰都の後、五州のうち鼎泰二州をもって喬の領となし、礼研二州をもって自ら領す。残る砥州は冷亘・冶安を境とするを以て各々慶、喬の領と定む。
―――五国志『慶書』武帝紀





後書
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