その夜は、前夜とは打って変わって酒盛りに夢中になる尭軍の陣営があった。
 陽気に笑い、勝利を祝う兵士の姿。勝った軍の酒宴は、どこも似たり寄ったりである。今日の戦の余韻に浸り、命があることを感謝する。敵か味方かというだけで、畢竟どちらも同じ人間なのだ。
 そう、同じ人間―――
 楽しげに明るむ尭の陣営の中に、一人だけいるはずのない人間がいた。

「あっはっは」

 人の間で陽気に笑うのはウーミンである。彼は軍に従って退却した後、味方の目を盗み昨日と同じ方法を使って抜け出すと、尭の陣営に密かに忍び込み、祝宴が始まってから何食わぬ顔で出てきたのである。なにしろ相手は同じ韓人。髪と目と肌の色が違う胡人でもあるまいし、そうそう気づかれるものではない。幸い尭方言には耳慣れていたので訛りを合わせることもできた。それでも正常な感性の持ち主であれば多少は緊張感を伴って極力人との接触を避けようとしそうなものであるが、

「俺のこと忘れたのか? ひどいなあ」

 すっかりくつろぎ溶け込んでいた。何せ全体で万単位の兵の数がいるのである。全員が全員の顔を覚えているわけではない。おまけに今はほとんどの兵が酒を飲んでいるわけだから、うまく誤魔化すことなどお手の物だ。
 だがウーミンは別にただ酒をたかりに来たわけではない。彼は怪しまれないように適当な幕に入り、酔っ払って我を失っている数人に目をつけると、彼らに近づいて知り合いであるという既成事実を作ることから着手した。
 まず「よう兄弟」と気さくに声をかけて酒を勧めながら、さも前から顔見知りであるかの素振りで世間話をする。大概は心の中で誰だったかと訝るものの、さして訊くこともなく気にとめない。誰何されれば酔っ払い調子で「おいおい、何言ってんだよ。俺のこと忘れたのか?」だの「前に語り合った仲じゃないか」だの適当に言って誤魔化し、相手が気まずさから思い出した振りをするのを待つ。更に突っ込まれそうならじっと凝視した後に人違いだったと謝ってしれっと去ればいい。しかしかなり酒精の回っている者を選んでいるので三段目の場面に至ることはまずなかった。ひとまず適当に雑談をし、間を測って本題を滑り込ませて反応を見ると、後は長居せずに立ち去る。結局名乗りはしない。
 ウーミンは同じ手口で知り合いを装って近づいたある男に、世間話ついでのようにさりげなくきり出した。

「にしても今日のはすごかったなぁ」
「あ?」

 言葉の意味がつかめず、男が訊き返す。

「慶軍だよ慶軍。潮が引くように逃げ帰っちまったじゃないか」
「ああ、そうだなぁ。ありゃなんだったんだろうなぁ」

 間延びした調子で相槌を打ってくる。その男の杯に水差しから酒を注ぎ入れてやり、

「火薬だってよ。干将軍もすごい作戦を考えたもんだなぁ。尊敬しちゃうよ」

 感極まったように言う。すると男は間髪いれずに言ってきた。

「ちげぇよ。ありゃ将軍の作戦なんかじゃねぇさ、多分」

 あぐらをかいた膝に杯を持ったほうの肘をつき、投げやりな風情で吐き捨てる。
 ウーミンの瞳に、冷たい光が閃いた。

「えぇ、違うのか?」
「おめぇ、あの将軍があんなこと思いつくと思うかぁ?」
「うーんどうだろ。ほらオレもアタマ悪いから」

 男は仕様がないと言った風に大仰に溜息をついた。酒をなめつつ、説明する。

「あれは、アイツの考えさぁ」
「アイツ?」

 干卷以外の誰かを指しているらしい。男はまどろっこしそうに空を手で掻いた。

「アイツだよアイツ。ホラ何つったか・・・・・・ああ、そうだ陳・・・・・・陳雨とかなんとか」
「陳雨―――?」

 鸚鵡返しに呟くウーミンの目に鋭い光が閃く。

「そうだ・・・・・・って、お前知らないの?」

 男の顔が訝しげに歪む。ウーミンはすかさず頭を掻いて曖昧に唸った。

「いや知ってるけどさ、あいつ信用できるのかなぁって思って」
「だよな? ホントどうかしてるぜ干将軍も、あんな得体の知れない奴の言うこと聞くなんてさ。しかも他言厳禁とか意味分からねぇ。どこの馬の骨ともわからねえのに」

 酔いと誘導尋問ですっかり舌が滑らかになっている男はここぞとばかりに言い募る。戒言令が布かれている以上さすがに大っぴらには物申せないので、声は抑えているが。
 しかしウーミンは最早聞いていなかった。思考の海に沈んでいく。
 陳雨―――
 幾度か耳にしたことのある名だった。といっても未だ公で広く名を轟かせているわけではないが、一部の見識ある知識人の間では前々から知られていた。
 字を公嬰と言い、確かかなり若いと聞く。青二才というならばウーミンも人のことは言えない歳だが、だからこそ年齢と才覚が必ずしも比例しないこともよく知っていた。
 陳雨は煌川に並び、世に名高い廉靜(れんせい)郡の人という話だが、近年胡の幕下に加わり頭角を現してきたという新鋭だった。ついでに相当な美丈夫だとも聞く。周囲の者たちからは若僧よ生意気よと陰口も叩かれているとのことだが、才色兼備のその男の能力は確からしい。

(『まさか』が真になろうとはな・・・・・・)

 以前一瞬だけ過ぎった名がよもやこんなところで出てくるとはさすがに予想しておらず、ウーミンはなんとも言えぬ微妙な顔をした。だが重要なのはそこではない。ウーミンは我に返ると、今だに不平を並べている男を見る。本来他言無用の機密を知っているということは、どうやら最下層の兵ではなく、例えば伝令のように、そこそこ指揮系統に接触する機会のある位なのだろう。更にウーミンのことも同級の同僚か何かと勘違いしているらしい。

「ていうかさ、アイツ結局何のためにここにいるんだろうな」
「ああ? さぁな。俺ゃあ知らねーよ」
「そうか・・・・・・」

 他にも何か知っているかもしれないと踏んだのだが、生憎当てが外れたようだ。この男からはこれ以上聞き出せそうにもなかった。
 ウーミンは適当なところで見切りをつけると、ごく自然な形で小用を口実に立ち上がる。男はそれにああ、と言って手を振ると、杯を呷った。
 幕を出たウーミンが最後に寄ったのは、顔欣(がんきん)という男の元だった。尭軍の斥候をしていて、尚且つ峰絽関周辺の地形や気象に詳しい男である。
 予め話に聞いていた幕に入り、近くの兵に尋ねる。赤ら顔の兵卒が指した指の先には、頭に白いものが目立ち始めている初老の男が盃を片手に座っていた。周りの男達はどうやら大分酒が入っているらしく、目が虚ろだった。ウーミンはしめた、と唇を舐めた。

「厳初殿ォ」

 数人と談話中の顔欣の背中に、酔っ払いの振りをして凭れかかる。

「な、なんだぁお前??」

 突然背中にのしかかってきた馴れ馴れしい青年に、顔欣は怒りと困惑のない交ぜになった顔を向けた。

「うっわ、酷い。厳初殿、オレのことを忘れたちゃったのか?」

 厳初というのは顔欣の字である。これも先に情報収集していた。

「忘れたなんも、俺ゃお前なぞ知らんが」

 顔欣は迷惑顔でそう言う。おや、と思う。どうやらこの男は酒に呑まれてはおらぬようだ。これはこれまでと同じ手では通じない。ウーミンは即座に次の手を打った。不意に俯く。
 俄かに様子がおかしくなった妙な青年に男達が不思議そうな表情を浮かべた。と―――
 唐突に泣き出した。
 声を上げてとまではいかないが、おいおい嗚咽する。
 これにはさすがの顔欣もびっくりした。
 どうしたものかと慌てて口を開く。

「お、おい。なんだよ、泣き上戸か?」

 とにかく肩に手を掛け揺すってみる。が、ウーミンは一向に泣き止む気配がない。さっきまで談笑していた仲間の視線が何故かちくちくと痛い。一体俺が何をしたと、顔欣は顔を顰めた。
 そうは思っても目の前の事態は変わらない。うううう、と呻くような泣き声は恨みがましささえ漂っている。
 仕方ないと思ったのか、顔欣は色々と話し掛けてみる。

「おい、こら。お前男だろ? 男がめそめそ泣くんじゃねぇや。みっともねぇ」

 顔欣としても、自分でも慰めいてるのかけなしているのか分からなくなってくる。酔いの回った頭では現状を冷静に分析することもできず、適当な言葉も思い浮かばない。

「おいってば」

 何度かの呼びかけで、やっとウーミンは反応を返した。

「俺、言ったのに・・・・・・」
「は? な、何を?」

 とりあえず会話ができたことに顔欣は心底ホッとしたものの、しかしそこからの内容が理解できずに、頭をひねる。

「オレ、この間進軍中に大切な親の形見を落としたって話しただろ。その時ここらに詳しいから、地形とか道とか教えてくれるっつったじゃないか」
「あ、ああ・・・・・・そうだったっけか?」

 何とも言えずあやふやに答える顔欣。と、また俯いて泣き出したので慌ててヤケクソ気味に言い直した。

「ああ! そうだった!! 思い出したよ、確かそうだったなぁ!」

 すると、今度はウーミンはじとりとした眼で睨んだ。

「何を失くしたっつった、俺?」
「え、ああ、ええっと・・・・・・」

 再び俯きかけたウーミンに、顔欣は更に慌てて言いつくろった。

「許してくれ! もう歳で忘れっぽいんだよ、もう一回教えてくれ!!」

 最早顔欣のほうが泣き出しそうな始末であった。
 その様子を嘘泣きの下から見て、ちょっとウーミンは憐れに思い、心の中で苦笑した。
 こうしてウーミンはまんまとこの山野の地形、そして気象を聞き出すことに成功したのである。
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