それは遠い昔、未だ弱冠(はたち)にも至らぬ李洵が、学友達と岸辺で遊んでいた時のことだ。
 たまたま友人の一人が連れていた幼い弟が、遊びに夢中になっているうちに河岸から足を滑らせ、水中へ落ちてしまった。折悪くその前日は大雨で、川は水量を増し流れが早かった。
 幼子は懸命に岩へしがみついていたが、あまりの激流に誰もが手を出せずに右往左往していた。
 そんな中、まだ少年であった刑哿だけがいち早く狼狽える年長らを一喝し、大人達を呼びに行かせた。思えばこの時から刑哿はどこか他人と違っていたように思う。
 一人を呼びに行ったのでは時間もかかるし、救い揚げるにしても人手が必要だ。そう言って、その場の学友全員にそれぞれに指示を出した。冷静な声に冷や水を浴びせられたかのように、友人等は思考停止状態にありながらも何とか頷き、あたふたと一斉に駆け出した。
 李洵のみはそこに留まり懸命に励ましていた。幼子が不安がらぬように、声をかけることで己の存在を示す。
 その隣りで刑哿が膝をつき、李洵と同じ様に岸下を覗き込んだ。だが李洵のように呼びかけるわけでもなく、じっと黙したまま。李洵がその横顔を横目で一瞥すると、不思議な眼差しで彼は幼子を見ていた。
 大人を呼びに行かせたはいいが、早く救助しなければ命が危ない。今は岩につかまってはいるが、この激流ではやがて力尽きてしまうだろう。
 祈るような気持ちで李洵はひたすら声をかけ続けた。少しでも生気を分け与えようと、普段は出さない大声を張る。幼子は泣きじゃくりながら必死に助けを求めていた。
 このままでは押し流されてしまう―――李洵は焦った。しかし慌てたところでどうにもならぬのもまた事実だった。
 この急流では、一旦流されてしまえば絶望的である。かといって泳ぎに長けていない自分が飛び込んだところで、一緒に流されて溺れるのが落ちである。

 どうしようもなくもどかしい思いに襲われた。どうしていいかわからず、思わず縋るように再び横を覗い、息を呑んだ。
 己よりも遥かに年下であるはずの刑哿は、今までになくひどく大人びた表情で、何か思い悩むように眉間に皺を寄せていた。
 刑哿は確かに同年代より成熟していたが、勉学の場以外では年相応の少年であった。屈託なく笑い、友人とふざけ合い、無邪気に遊ぶ。大概はおどけた風情で過ごし、時にだが怒ることだってある。子供らしいといえば子供らしい少年であった。

 だがこの時の刑哿は、これまでにない様子で、恐ろしいほどに思いつめていた。唇を引き結び、葛藤と苦悩が皺寄せた眉間に漂う。初めてみる表情を、李洵は食い入るように見つめた。
 だがそのような感傷まがいの疑念は、すぐさま眼前の非常事態に掻き消される。
 危惧したとおり幼子は徐々に力を失っているようだった。顔面は蒼白で、唇の色も変わっている。
 まずいと思った。このままでは。

「鎮文」

 唐突に低い声音で刑哿が字を呼んできた。
 引かれるように首を動かすと、刑哿はこちらを見ることなく下を向いたまま、淡々と言った。

「これから起こること、誰にも言わないでくれる?」
「え?」

 何を言われているのか分からずに、反射的に疑問の声を上げたその時。
 幼子を見守っていた刑哿の顔色が変わった。李洵の背筋を氷が滑り落ちる。バッと川を見下ろした。
 同時に、幼子の手が、岩から離れる光景が視界に飛び込んだ。
 あっ、と李洵は口を開けた。
 だが出かかった声は、喉の奥で引き攣って、ひゅう、と不快なか細い息の音になった。
 土色に渦巻き波打つ濁流の狭間に、小さな身体が吸い込まれる―――
 刹那、隣りにいた刑哿が鋭く何かを囁いた。何を言ったのかは聞き取れなかった。反射的に視線をやると、刑哿はなおも川下を強く見据えていた。激痛に耐えるかのように、歯を食い縛る。両の眼は瞬きを忘れた風にカッと力を込めて一点を睨みつけていた。

 李洵には刑哿が何をしているのかは分からなかった。耳の奥で鼓動が鳴る。衝撃で気が動転しているのもあっただろう。この時の李洵の頭の中は「死」という文字だけが明滅を繰り返していた。
 周辺の空気が変わったと思ったのは、ある瞬間からだった。にわかに肌が粟立つ。目に見えない何かが、刑哿を中心に急速に集結し始めていた。音の無い耳鳴り。まるで弓の弦を極限まで引き絞っているのにも似た、一触即発の張りつめた緊張。
 刑哿の額にじわりと汗が浮かび、頬を伝って滴った。地面に置かれた手の指先が白くなるほどきつく握り締められている。きつく眉根を寄せた厳しい表情で何かを念じている様を、李洵はただぼんやりと見つめ続けた。
 川の音が変わった。
 それまでの激流の轟音が、濁り始める。我に返り咄嗟に眼下を見やれば、なんと川の流れが歪み奇妙な螺旋の文様を描いていた。
 信じがたい出来事に目を剥き、刑哿を仰眄した刹那、川の水が轟音と共に弾け、吹き上がった。
 水飛沫が豪雨のごとく降り注ぎ、二人をびしょ濡れにする。その瀑布の中、一つの小さな影が飛来するのを視界の端に捉えた。次の瞬間、それは刑哿の腕に飛び込んだ。反動に耐え切れなかったのか、刑哿の身体が勢いのまま後ろに倒れこむ。
 濡れた衣が纏わりつくのにも構わず、水滴を払いながら李洵は慌てて近寄り、刑哿の腕の中を覗きこんだ。
 刑哿が受け止めていたのは、紛れもなくあの幼子であった。

 その後、戻ってきた学友と引き連れられた大人は、目の前の出来事を見て目を丸くしていた。何が起こったのか辺り一面は水浸しで、しかも問題の幼子は何時の間にか救助されている。何とかその場は適当に言い繕い、李洵と刑哿の二人で助け上げたことにしておいたが、なんという危険な真似をと大人たちから延々説教された。
 だが、それでも李洵は本当のことを言わなかった。説教中、横目で刑哿を盗み見て彼の科白を思い出し、何となく言ってはならないような気がして黙っていた。また刑哿自身も、始終無言のままであった。その直後、彼は高熱を出し、しばらく室から出てこなかった。

 幼子は衝撃で気絶していたが、おかげであまり水を飲んでいなかったようで、命に別条はなかった。冷えた身体を温めてやればすぐに血色を取り戻し、二三日後には元気に駆け回る姿を見せた。
 同じ頃、こちらも熱が下がって外出許可を得た刑哿が、李洵を訪ねてきた。

「黙ってくれてありがとう」

 彼は開口一番そう言った。
 何に対しての礼なのかは言わずとも分かった。李洵が曖昧に言葉を濁すと、刑哿はあの、年のわりに大人びた微笑を浮かべた。そして皆には内緒だと前置きし、語ってくれた。

「生まれつき“そういう”力が人よりも強かったらしい。それで俺は、旅の道士に預けられたんだ。その道士ていうのがつまりは俺の老師なんだけどさ。そこで方術も覚えた」

 方術だけでなく、獲物の獲り方、植物の見分け方、野外での行動の仕方、そのほか基礎的な治療術にわたるまで、ありとあらゆる生き抜くための術を叩き込まれたのだという。
 老師とは今はともにいないのか、と尋ねると、

「生き別れになっちゃってさ」

 と、戯れか本気なのか分からぬ答えが返ってきた。
 それから刑哿は、本当はもっと早く救助すべきだったと懺悔した。
 しかしあの時は傍には李洵がおり、他人の目の前で力を使うことを、ぎりぎりまでためらっていたのだと言う。

「師匠から言われたんだ。少なくとも18を過ぎるまで、決してこの力は人前で使ってはならないと」
「18?」
「歳数は単なる指標にすぎない。要は力の使い方の善し悪しが分かるようになるまでは駄目だってことらしい。師匠が言うには『世俗や煩悩を知ることで人間を知り、世の道理を見通せるようになってから、初めて正しく力を使えるようになる』んだってさ。今はよく分からないけど、きっとこの言葉の意味が分かるようになった時が、その時なんだろうと思う」

 子どもらしい、あどけなさを残す横顔に過ぎる強い意志。
 それまでは人前で力を操って見せるのは危険であるという。それはおそらく、その力を利用せんとする悪しき輩に狙われる恐れがあるからだ。そういった者たちを見極め、上手く躱す術が身につく歳という意味で18を呈示したのだろう。
 そして刑哿は、そこのあたりをよく解していた。分かっていたからこそ、言いつけを破ることに躊躇した。それでも人命より重いものはないと決意した。
 もしあそこに居合わせたのが李洵でなければ、今頃姿を消して、此処には留まっていないと彼は小さく笑った。
 そこで李洵はなんとなく理解した。
 掟かそれとも人道かと、迫られた選択。できることならどちらも破りたくないという思い。あの時の刑哿の祈るような目や、懊悩に耐える表情は、そのためのものであったのだと。

 それは、ようやく十を超えた子どもが思い悩むには、重すぎる課題のように思えたけれど。
 結局、学友達は間に合わなかった。だから刑哿は幼子の救助に踏み切ったのだ。
 だが却って他の人々が来る前で良かったのかもしれない。全員で救助をしている最中に幼子が流されて、やむなくそこで力を使ったのであれば、否が応でも皆に知られることになったであろう。
 師の教え以上に、自分はあまりこの能力を知られたくない。あんたは信用できるが、皆には黙っててくれと、少年は頼んだ。理由を問うと、

「人知を超えた力は人々にとっては所詮恐怖の対象にしかならない。それに、知られれば色々とめんどくさいことになるだろ。この力は、人に見せびらかすものじゃない。影でこっそりと、何かの役に立てるくらいで丁度いいのさ」

 歳にそぐわぬ、諦観した表情と口調で、少し寂しげにそう笑うと、刑哿はいつものように飄然と去って行った。




 李洵は下ろしていた瞼を上げ、回顧を断ち切る。静かな双眸で戯孟を見た。

「殿。無名は不思議な男です。風水を読み、また人を能く読む」

 特殊能力。そう呼ぶべきものであった。それは方術使いとしての力のことでもあったし、また人の心理や世の事象を、天性の観察眼と洞察力で分析し、読み解く才気という意味でもあった。

「あれは大変得難い者でございます。手に入れれば幾千万の軍騎に匹敵し、手放せば天に龍、地に虎を逃すようなもの。のちのち大きな悔恨となって残ることでしょう」

 そう。得ればこれ以上ない戦力となるが、別の者に獲られれば大きな脅威となる。
 戯孟は瞑目した。李洵の言うことを己の中で反芻し、吟味する。いや、してもしなくても、とっくに結論は出ているのかもしれないが。
 ふっと口端を吊り上げる。そして目を開け、ゆっくりと口を開いた。

「鎮文の言うことも、分かる。だが・・・・・・もう少し待て」

 李洵はある種の思いを浮かべる瞳を静かに瞼に隠し、ただ御意、と答えた。
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