将たちへ指示を出し、様々な確認事項を終えて幕舎へ戻ると、中には意外な人物がいた。
 戯孟はその情景に一瞬思考停止してから、呆れ交じりに嘆息した。

「無名、お主そこで何をやっておる」

 いたのは、件の問題児だった。おまけに陶器の壷を抱え込みちゃっかり中身を拝借している。しかもそれは戯孟とっておきの秘蔵酒だ。李洵にも見つかってはならぬとこっそり隠しおいていたはずなのに、一体どうやって探し当てたのか。
 当の本人と言えば、振り返りながら全く悪びれた様子もなく「おや閣下、ようやくお戻りで」ととぼけている。

「待ちかねて先に始めておりましたよ」
「何が始めてだ。どこから見つけ出した」
「兜の下とか分かりやすすぎですよう」
「他の者に見つかれば無断進入に無断飲酒で打ち首になるところだぞ」
「主幕に侵入する不届き者がいるとも思えませんし、無断飲酒ならば酒を隠し持っていた閣下も同罪になりますが」

 その不届き者がいけしゃあしゃあとよく言う。戯孟は白い眼を向けた。

「『法は貴きに加えず』と申してな」
「おやおや、信賞必罰を看板に掲げる閣下の言とも思えません。良くも悪くも下は上の範に従うものです。まずは示しをつけなければ」

 ちょいちょいと酒壷を指差しニヤリと笑う。

「減らず口め」

 戯孟は口を歪めながら歩み入り、視線を左右に巡らせた。

「鎮文がおらんな。先に天幕で待っていると申しておったが」

 無名は盃を口元に当てたまま、軽く小首を傾げてみせる。

「さて。私が来た時には既におりませんでしたが。小用かもしれません」
「そうか、では待つとしよう」

 戯孟は無名の対面にどっかりと腰を落ち着けると、無名の手から甕の柄杓を取り上げた。濁った色の酒を自分の爵に酌み入れる。
 酒で一旦喉を湿らせると、戯孟は改めて無名を正面から見据えた。

「最後の仕上げとやらは終ったのか?」
「ひとまずは。まあ後はなるようになりましょう」

 無名は盃を掲げ、最後の一滴を口中に降り落とす。言い様はいい加減だが、なすべきことはすべてしていた。

「余裕だな」
「余裕じゃありませんよ。どれだけ周到に準備したところで、完璧などありえないと知っているだけです」

 戯孟から柄杓を奪い返して、酒を注ぐ。

「鎮文殿の仕事が早かったのだけが嬉しい誤算ですな。こうして、勝負前に酒を飲む時間があるとは」
「ということは、本当に後は待つだけなのか」
「ぎりぎりまで。あまり早く行動を開始してもさして意味はない上に、敵に露見する恐れもありますゆえ」

 そう答える無名の脳裏には、一体どんな予想図が描かれているものか。戯孟には全く想像もつかない。代わりに、思いついたことを口にする。

「そういえばお主、鎮文の古馴染みだと言ったな」
「ええ。煌川時代に同じ竹裏私塾の廬太保(りょたいほ)老師の元で机を並べました。とはいっても、私は後から入塾しましたしご覧のとおり若輩ですので、厳密には師兄弟(せんぱいこうはい)になるわけですが」
「ほう、かの幽篁(ゆうこう)先生に師事したか」

 戯孟は興味津々げに聞く。
 煌川は才の誉れ高い者たちで有名な地である。また、そのなかでも更に目覚しい者だと、風の噂や人物鑑定家の評などに聞こえてくる。李洵や智箋、胡の陳雨も、その手で名を知られ、各所から仕官を請われたのだ。そして戯孟自身も、有能な人材を集めるためにそれらの噂話に聞き耳を立てている口であった。
 だがそれにつけてもこの男の名には全く聞き覚えがない。『無名』などといった珍しい名前なら、一度聞けば忘れるはずもないのだが。

「幽篁先生の下にいて鎮文が評価するからには、お主もさぞかし清流派の覚えめでたい者なのだろう」

 探りを入れる戯孟に、無名は首を横に振った。

「生憎。私が竹裏にいたのはその実ほんの一瞬ですし、基本的に名を変えあちらこちらを旅していましたから、清濁問わず人の口にも上らなかったと思いますよ。ですから閣下の御耳に入ることもなかったでしょう」

 そう言って、邪気ない笑顔を向けてきた。最後の含みに、戯孟は口を曲げなんともいえぬ渋い表情をする。どうやら考えは読まれているらしい。さすが李洵が薦めるだけのことはある。だがどうにも気まずさが残った。

「まぁ、な・・・・・・」

 苦々しく認めたところで、あることに思い至り、再び無名を見る。

「時に無名、まだ聞いていないことがあった。お主は火薬騒ぎの下手人であったな」
「これはまた、随分と懐かしいお話を。そういえば然様なこともありましたかな」

 全く悪びれもせずにけろりと答えられ調子が狂いそうになるが、流されぬよう気を取り直し尋ねた。

「もう一度訊くが、それは真か?」

 言外にその訳を問う。前に質した時にははぐらかされたが、今度はそうはさせぬと語調を強くした。
 さすがに誤魔化しは効かないと観念したか、無名も茶化すことはせず、遠くへ目をやり肯定した。

「紛れもなく事実です。あれは―――

 眇められた双眸が、一瞬だけ鋭く閃いた。

「作戦のために必要なことでした」
「作戦?」

 思いもよらぬ言葉に、戯孟は鸚鵡返しに訊き返す。

「ええ、『作戦』です」

 無名ははっきりと頷き繰り返した。
 兵法にいう『作戦』とは一般的に呼ばれる作戦―――いわゆる戦の進め方や計画とは違う。すなわち「戦を()すもの」である。
 この場合「戦を作すもの」とは、戦を始める上で資本や基盤となるもののことだ。これは時によって兵力であったり武器であったりと様々だが、専ら軍需費用を指すことが多い。
 しかし無名のそれは人でも金でもなかった。

「私にとって戦を作すものとは、すなわち『情報』です」
「『情報』」

 無名は是と肯く。

「大将の人物から、率いる兵力、陣形、士気、兵糧―――いかに多くの情報を手に入れられるかで、戦法が決まり、それが勝敗へと繋がる。すべてにおいて情報は極めて重要な手がかりです。多ければ多いほど物事の全容が見えてくる。逆に少なければ暗中を手探りで進むようなもの。敵の策にも嵌りやすくなる。情報とはつまり知ることです」 「『知る』、か」

 戯孟は低く呟き、その言葉を深く噛みしめる。
 無名の言は極簡で、一見分かり切ったことである。しかしその単純かつ当たり前のことを、真諦まで痛感している者は実は多くはない。情報の重要さは、戯孟も戦をする者として身に沁みていた。斥候や間者を放つのもそのためであるし、また反間(二重間者)によって偽の情報を掴まされた軍がどうなるか、この目で実際に多く見てきた。
 無名は彼方―――堯陣営のあるあたりを透かし見るように続ける。

「火薬を放って慶の退却を誘ったのは堯を優勢に立たせるため。そうすることで情報を得ようと思ったのです」

 ただでさえ絶対的不利で、敗色の濃い干卷軍。勝勢を収めれば、士気を維持し向上するために慰労の酒宴を設ける可能性が高い。一度でも勝利は勝利、それが安堵を生み、安堵は少なからず緊張の緩みを生む。その隙をついて、堯の営地内に潜り込んだのだ。

「確かにあの爆発は、堯側の罠だと思わせるには充分だった。だが不思議だったのは、あれによる重傷者や死者がいなかったことだ」

 独りごとのように漏らす戯孟に、無名は微笑いながら言う。

「あの火薬は極めて殺傷力の低い調合です。目的は派手に音と煙と火花を散らして混乱させることですから、実害は大したことはありません。言ってみれば爆竹の類ですよ。規模は比べ物になりませんがね。ただ辛椒を少しばかり多めに混ぜ込んでしまったので、五官への刺激が強すぎたようで」

 直に思い切り煙を嗅いだ兵たちは、視聴覚の不調とともに、しばらくは何を食べても味覚が麻痺していたという。それも時と共に徐々に治っているようだが、相当な刺激だったはずだ。知っていてなるべく煙を避けていた無名自身ですら、しばし刺すような目の痛みを覚えたほどである。

「何故事前に申し出なかった。結果的には勝利を導くためとはいえ、あれでは混乱を招くだけだぞ」

 戯孟は咎めるような眼差しで無名を射る。あらかじめ知っていればあのようにごたごたはしなかったものを。
 それに対し無名は悪戯げに光る瞳を向け、莞爾として言い切った。

「敵を欺くにはまず味方から、と申しますでしょう?」

 いけしゃあしゃあとした口ぶりに、戯孟は呆れたさまで見つめるしかない。
 全く、心底やられたと思う。いちいち道理にかなっていて、いっそ清清しいぐらいだ。確かに無名の思惑を知らなかったからこそ慶軍はごく自然に騙され、芝居でなく本当に慌てふためいて退却したわけであり、それが敵により一層信憑性を持たせることに繋がった。
 そこでふと気にかかったことがあった。

「ということは、やはり単身で堯陣営に乗り込んだのだな?」
「まぁそういうことになりますね」

 李洵から聞いてはいたとはいえ、どうしても確認せねば気が済まない。

「夕燕城の時もか」
「いやぁ、あの時ばかりはさすがにいささか骨を折りました」

 何せ一人仕事なので、と無名は軽く宙を仰いで肩を竦めた。まるで「にわか雨に遭って困った」とばかりの軽さだ。しかし冗談ではないのは、その後に続いた詳細な話から知れた。
 何という大胆かつ奇抜な考えを起こす男なのか。しかもそれを現に行動へ移してなお、『骨折り』の一言で済ましている。戯孟はとうとうこらえきれずに噴き出し、豪快に声を上げて笑い出した。

「まったく面白い男だな」

 腹を抱えて呵呵大笑する戯孟を、無名は意表のつかれた思いで見ていたが、段々つられるようにこちらも笑みが浮かんでくる。

「お褒めに預かりまして恐悦至極」

 邪気のなく言えば、戯孟は更に可笑しがった。
 そうやってしばらくの間状況も忘れ、酒を片手に2人で笑い合う。
 衝動に渦巻く意識の下で、ある思いが戯孟の中で微かに閃いた。

 もしこの男を股肱に加えられたならば―――

 漠然と己の中に泡沫のごとく浮かんで消えた思精。未だ形定まらぬもの。しかしやがてそれは確固とした形を成すだろう。元より人材集めには目が無い戯孟である。優秀な人材と知れば、身分も家柄も人柄も問わず、どんな手を使っても手に入れようとする。戯孟の人材収集に対する熱意はすでに病の域で、周囲から「また始まった」と口を揃えて呆れられるほど重症だった。
 幸い無名は李洵の古い知人である。清流派を取りまとめる彼の推挙は金璽並だ。その一声さえあれば、例え氏素性知れぬ一平民一兵卒でも仕官に関してさほど反発はあるまい。必要とあらば、捏造でも何でもして、相応の階級身分を与えても良い。箔を得るために縁なき名門の系譜を名乗るのは古来常套手段である。

(だが、まだ早い)

 人物すべてを受け入れるには未だ決定打に欠ける。自分自身、無名に対する胡散臭い印象は拭いきれていない。どこかで疑わしく感じている部分もあった。若者にありがちな、口先だけで己を過信している男ではないのか。そうではないと己の直感は訴えるが、主観のみで道理を曲げることは戯孟の矜持が許さぬし、筋も通らない。無名の今の待遇からしてすでに規範に反している。存在そのものが異例なのだ、他にも認めさせるには有無を言わさぬ結果が必要だった。

「ところで閣下、少々お願いしたいことがあるのですが」

 無名が不意に表情を改めた。

「何だ?」

 戯孟が促すと、無名はにやりと笑みを浮かべ、瞼を僅かに下した。眸が鋭く閃く。

「兵をいくらか、お貸し願えますか」


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