峰絽関に幾度目かの夜が来た。闇色の帳が空を覆い、関所を囲む山々を包む。生命の象徴でもある陽はとうに身を隠し、反対に舞台へ上がるのは、冷たくも優しい光を放つ太陰と無数の星たちの筈だったが、それらは現在、見ることは適わない。
 峨峨と連なる山が黒々と群れ、間に掘り沈んだ渓谷は粛々と沈黙を保っている。気温は下がり、それを差し引いても人間の立ち入りを拒絶するかのような冷厳さが、山野に湛えられていた。元より伝承信仰の色濃い土地である。各地に散らばる霊山ほどではなくとも、自然の厳格さを見せつける険しい山脈は、人間に畏怖の念を抱かせるのに充分な神々しさと迫力を備えていた。
 空は、これまでにもなく重かった。黒墨を(ぼか)し込んだような空。斑を描く濃色の天上は、厚く垂れ込めた雲に支配されている。

   その中、一際濃厚に香る湿った匂い。否応もなく胸騒ぎを起こさせ、不気味な予感を与えて止まない匂いが、荒野に満ちていた。
 二つの敵対する陣営は、それぞれひっそりと静まり返っている。多くの人間がいる筈なのに、それらが活動する空気は感じられない。寝静まっているのか、それともじっと息を潜めているのか。
 慶軍の陣営に聳える投石機の姿だけが、不気味な遺跡のように不動で佇んでいた。
 時間が経つにつれ、沈に沈が重なり、静寂の色が増す。
 その何時の頃か。夜闇の中に、ふと、ある種の空気が流れた。
 水気を含んだ重ったるい空気を押し分けるように、それはゆっくりと広がる。ふたつの気質は相容れず、決して混ざり合う事はない。
 風というにはあまりにも些細で微弱。だが無視してしまうには、その場に漂っている空気とはあまりにも異質なそれ。
 それは、人々には気づかれずに、ささやかに、微々と少しずつ、だが確実に変化をもたらしていた。
 その変化に気づいた者は何人いるだろうか。おそらく敏感な者ならば、その違いを肌で感じたかもしれない。
 ともかくも、変質は、間違いなく訪れていた。




 陳雨は己の天幕から表へ出た。
 藍染の袍の袖が揺れる。外は少しばかり風が出てきたようだ。
 陳雨は陣柵の近くまで足を運ぶと、下方にある敵陣を眺めた。夜闇は深い。篝火の明かりだけでは、ぼんやりとすら確認ができない。
 それでも陳雨の目には、ここ数日見続けて記憶した慶の陣営の形が、暗中に浮かんで見えた。
 流れの激しい川を背にして立つ慶軍営。多少なりとも兵法をかじった者ならば、一瞬でも背水の陣を疑うだろう。
 背水の陣とは、その名の通り川などを背にすること。兵をこれ以上退くことの出来ない危険な状況に追い込み、死に物狂いで戦う環境、状況を作ることである。
 だがこの場合、一見して優勢な慶軍がわざわざそれをする必要性は見当たらない。おそらく便宜上、すなわち、堯軍と正面から相対するのに、その形が自然であったことと、水の確保だろう。

(もうすぐだ)

 陳雨は空を見上げ、思った。もう間もなく、陳雨の予想したとおりの事態が起こる。とうに兆は現れていた。
 だがそこで、ふと例の疑念が脳裏を過ぎった。未だなんの解明もされていない謎の事件。が、陳雨は即座に頭を振って、それを頭から追い払う。ここまで来たのだ。この正念場において、不安や疑問などのひっかかりを抱えて行動するのはよくない。迷いは瞬時の判断を鈍らせ、全体の動きを遅滞させる原因にもなりかねない。

(これで、確実に決する―――否、決してみせる)

 己に言い聞かせるように念じる。
 堯から盟約を求める密書を受けた主君呂伯が、帷幕の官たちを集めて軍議を開いた際、堯との同盟を積極的に推したのは、他ならぬ陳雨自身であった。
 陳雨は戯孟を恐れていた。戯孟のなかに、己の主君が持ちえないものを見出していた。それは英雄としての資質であったり、また炎のような激しさや、恐るべき計算高さや、運の強さであったりした。
 別に呂伯に英雄の気質がないというわけではない。人を惹きつけてやまない魅力や、他を圧倒する存在感。攻めるときは霆のごとく、臣下に対する情にも厚い。
 そして短所であり長所であるのが、その臆病さだった。臆病と言っても、怯えて足が竦むような小心のものではなく、物事に対し非常に慎重に構え、注意深く行動するといった臆病さであった。呂伯は若かったが、青い考えで致命的な愚行を起こさなかったのは、ひとえにこの臆病さからくる用心深さによるものだった。また臆病だからこそ生に対する執着も人一倍強い。攻撃は最大の防御。乱世から身を守るため死に物狂いで駆け抜け、ここまで生き残ってきたのだ。

 しかし臆病という一見奇異な特徴は、勇猛果敢さを求める武将たちにとっては、今ひとつ導率力に欠けたものになりかねない。
 一方で、やはり若気ゆえかひょっとしたことで衝動的になり、いささか思慮に欠けた、武力に訴えがちな矛盾した傾向も持っていた。同じ激しさでも、戯孟のは烈火の裏に、確実に張り巡らされた計算や考えがあり、呂伯のは血気溢れるばかりにそれに逸っている。これは戯孟と呂伯の歳や経験の差でもあったが、両者の明らかな違いであった。
 呂伯は先代が早くに死去し、13にしてその跡を引き継がねばならぬことになったため、5年経った今でも飛び抜けて年若い総領であった。胡勢はもともと一つのまとまりではない。地方の様々な有力な豪族達が、それぞれ張っていた縄張りを併合し、あるいは駆逐されてできた巨大な連合体だ。そしてその中でも最も力のあった呂家が立ち、いわば盟主として統括していた。

 その流れで、親の死を悼む間もなく、周りの歴戦の勇将たちに、半ば無理やり担ぎ出されるように立った呂伯の戸惑いは大きかっただろう。それでも彼は期待以上の君主ぶりを発揮しここまで来た。
 思慮深さなど、年齢の如何ではない。努力次第でどうにでもなるというのが、陳雨の持論である。実際に自分が実例であるからだ。陳雨と呂伯の年齢は大きくは変わらない。己の場合は生まれつきの性も手伝ってそうなったのだろうが、例え若かろうと、短慮を律し沈着を身につける事は決して無理難題ではない。要は己を御する意識の問題なのである。

 だから陳雨は呂伯のそういうところを、致命的な短所だとは考えていなかった。それはこれからゆっくり諭していけばいいのだ。それに、逆に言えば若いからこその良さもある。柔軟な思考や斬新な発想。未だ原石のまま、その奥に素晴らしい輝きの可能性を多く秘めている。陳雨はその可能性に、未来を感じたのだ。呂伯という人物は、ただの若者ではない、大事を成し遂げることのできる大器を持っている。そう判断したからこそ陳雨は、天下という二文字を呂伯に賭けた。

 その上で戯孟という存在は、呂伯の進むべき道の前に立ちはだかる、大きな障碍であった。不安と言う名の巨大な壁。
 このまま戯孟をのさばらしておいては、今に必ずより強大になり、大いなる脅威となることは必至だ。だから戯孟がこれ以上力をつける前に、討っておきたかった。堯など慶に比べれば大した脅威ではない。反対に、慶が退いて堯が残れば、天下取りもよりやりやすくなると、陳雨は考えた。ゆえに、陳雨は堯と手を結ぶことを薦めたのだった。
 責任上、そして呂伯の覇道を築くためにも、陳雨はこの戦いに勝利しなければならなかった。
 陳雨は再び天を仰ぎ、睨みつけるかのように目元を険しくした。もう間もなく、勝利は我が物となる。
 そのまま裾を翻し、今後の動きを打ち合わせるべく錬乂のもとへ向かおうとして、ふと自分が喉の渇きを覚えていることに気が付いた。だが特に気にも留めず、一旦自幕へ戻って、卓の上にひとつ置かれた中身の残ったままの茶杯を手にとると、とうに冷め切ってしまった液体を無造作に喉に流し込み、すぐさま踵を返して将軍の幕舎へと足を向けた。
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