将たちへ指示を出し、様々な確認事項を終えて幕舎へ戻ると、中には意外な人物がいた。 戯孟は呆れた声を上げた。 「無名、お主そのようなところで何をやっておる」 いたのは、先刻分かれたはずの無名だった。おまけに、青銅の酒甕を抱え込み、ちゃっかり酒を拝借している。しかもそれは戯孟とっておきの秘蔵酒だ。李洵にも見つかってはならぬとこっそり隠しておいたはずなのに、一体どうやって探し当てたのか。 戯孟を振り返っても、全く悪びれた様子もなく「あらま閣下、お早いお帰りで」ととぼけている。 戯孟は歩み入りながら、視線を左右に巡らせた。 「鎮文がおらんな。先に儂の天幕に戻っておると申しておったが」 無名は盃を口元に当てたまま、軽く小首を傾げてみせる。 「さて。私が来た時には既におりませんでしたが。小用かもしれません」 「そうか、では待つとしよう」 戯孟は無名の対面にどっかりと腰を落ち着けると、無名の手から甕の柄杓を取り上げた。濁った色の酒を自分の爵に酌み入れる。 酒で一旦喉を湿らせると、戯孟は改めて無名を正面から見据えた。 「最後の仕上げとやらは終ったのか?」 「ひとまずは。まぁ後はなるようになりましょう」 無名は杯を掲げ、最後の一滴を口中に降り落とす。言い様はいい加減だが、なすべきことはすべてしていた。 「余裕だな」 「余裕じゃありませんよ。どれだけ周到に準備したところで、完璧などありえないと知っているだけです」 戯孟から柄杓を奪い返して、酒を注ぐ。 「鎮文殿の仕事が早かったのだけが嬉しい誤算ですな。こうして勝負前に酒を飲む時間があるとは」 「ということは、後は待つだけなのか」 「ぎりぎりまで。あまり早く行動を開始してもさして意味はない上に、敵に勘づかれる恐れもありますゆえ」 そう答える無名の脳裏には、一体どんな予想図が描かれているものか。戯孟には全く想像もつかない。代わりに、思いついたことを口にする。 「そういえばお主、鎮文の古い馴染みだと言ったな」 「ええ。一時ですが、煌川時代に同じ竹裏私塾の廬太保老師の元で卓を並べたことがあります。とはいえ、私は見てのとおり若輩ですので、あちらが 「鎮文もそのようなことを申しておったな。お主もかの幽篁先生に師事したわけか」 戯孟は興味津々げに聞く。煌川は才の誉れ高い者たちで有名な地である。また、なかでも更に目覚しい者だと、風の噂や人物鑑定家の評などで聞こえてくる。李洵や智箋、胡の陳雨も、その手で名を知られ、各所から仕官を請われたのだ。そして戯孟自身も、有能な人材を集めるためにそれらの噂話に聞き耳を立てている口であった。 だがそれにつけてもこの男の名には全く聞き覚えがない。『無名』などといった珍しい名前なら、一度聞けば忘れるはずもないのだが。 「あの鎮文があれほど評価するからには、お主もさぞかし名の知れた者なのだろう」 探るように言葉を投げかける戯孟に、無名は首を横に振った。 「残念ながら。私は名を偽ってあちらこちらを彷徨していましたのでね。人の口にも上らなかったと思いますよ。ですから閣下の御耳にも入らなかったでしょう?」 そう言って、にこりと邪気のない笑顔を向けてきた。最後の言葉に、戯孟は口を曲げなんともいえぬ渋い表情をする。どうやら考えは読まれているらしい。さすが李洵が薦めるだけのことはある。だがどうにも気まずさが残った。 「まぁな……」 苦々しく認めたところで、あることに思い至り、再び無名を見る。 「時に無名、まだ聞いていないことがあった。お主、爆発騒動を起こした下手人であったな」 「これはまた、随分と懐かしいお話を。そういえば然様なこともいたしましたっけ」 全く悪びれもせずにけろりと答えられ、戯孟は一瞬言葉に詰まる。しかしすぐに気を取り直して、次々と浮上してくる疑問を口に出した。 「もう一度訊くが、それは真か?」 言外に、「何故か」と理由を問う。前に同じ質問をしたときははぐらかされたが、今度は決してそうはさせまいと強く質す。 その気迫に、さすがに誤魔化しは効かないと観念したのか、無名も茶化さずに答える気になったようだ。 無名は遠くへ目をやりながら、ひたと言い切った。 「そうですね。あれは―――」 眇められた双眸が、一瞬だけ鋭く閃いた。 「あれは、私の中の一つの作戦でした」 「作戦?」 思いもよらぬ言葉に、戯孟は鸚鵡返しに訊き返す。 「ええ。『作戦』です」 無名はもう一度同じ科白を繰り返した。 兵法にいう『作戦』とは一般的に呼ばれる作戦―――いわゆる策と同義の戦の進め方や、ある一定期間の目的ある戦闘行為を指すものではない。ここでの『作戦』とはすなわち「戦を作すもの」である。「戦を作すもの」とは、戦を始めるのに基盤となるもののことだ。これは時によって人であったり武器であったりと様々だが、主には戦争の費用のことを指す。 が、無名の場合、これは金でもなかった。 「私にとって戦を作すものとは、すなわち情報です」 「情報」 無名はええ、と肯く。 「敵の総数、各隊の大将、陣形、兵たちの様子、兵糧の状態―――いかに多くの情報を得られるかで、戦法が決まり、それが勝敗へと繋がる。それだけじゃない、全てにおいて正確な情報は極めて重要な手がかりです。多ければ多いほど物事の全貌が見えてくる。逆に情報がなければ、暗中を手探りで進むようなもの。敵の策にも嵌りやすくなる。情報とはつまり敵を知ることです」 「知る、か」 戯孟は低く呟き、その言葉を深く噛みしめる。情報の重要さは、戦をする者として身に染みている。斥候や間者を放つのもそのためであるし、また反間によって偽の情報を掴まされた軍隊がどうなるか、この目で実際に多く見てきた。 無名は遠く―――堯陣営のあるあたりを見、続ける。 「情報を得んがため、火薬を放って慶の退却を誘いました。堯に忍び込む隙を作るためです」 「確かにあの爆発は、堯側の罠だと思わせるには充分な威力だった。だが不思議だったのは、あれによる重傷者や死者がいなかったことだ」 独りごとのように漏らす戯孟に、無名は微笑いながら言う。 「あれは極めて殺傷力の低い調合です。どちらかといえば派手に音と煙と火花を散らして混乱させることが目的ですから、実際の被害は大したことはありません。まあ言ってみれば爆竹の類ですよ。規模は比べ物になりませんが。ただ香辛料を少しばかり多めに混ぜ込んでしまったので、目鼻や舌への刺激が強すぎたようですがね」 香辛料は消毒作用があるため、風土の異なる地での食料調達を行う際に不可欠だ。当然、遠征の慶軍も常備している。それをいただいた。糧食担当の官は香辛料がごっそり減っていたことにさぞかし驚いたことだろう。しかし責任問題を恐れて口をつぐむはずだと無名は踏んだ。 もろに煙を嗅いだ兵たちは、聴覚視覚の不調とともに、しばらくは何を食べても味覚が麻痺していたという。それも時と共に徐々に治っているようだが、おそらく相当な刺激だったはずだ。知っていてなるべく爆煙を避けていた無名自身ですら、しばし刺すような目の痛みを覚えたほどである。 「何故事前に言わなかったのだ。結果的には我が方に利するためとはいえ、あれでは混乱を招くだけだったぞ」 戯孟は咎めるような眼差しで無名を射る。あらかじめ知っていればあのようにごたごたはしなかったものを。 それに対し無名は悪戯げに光る瞳を向け、莞爾と言った。 「敵を欺くにはまず味方から、と申しますでしょう」 いけしゃあしゃあとした言いっぷりに、戯孟は開いた口がふさがらない。呆れたさまで無名を見つめる。 心底やられた、と思う。いっそ清々しいぐらい小気味が良い。確かに、実際無名の思惑を知らなかったからこそ慶軍はごく自然に騙され、芝居でなく本当に慌てふためいて退却したわけであり、それが敵により一層信憑性を持たせることに繋がった。 そこでふと気にかかったことがあり、訊いてみる。 「お主単身で堯陣営に乗り込んだのか?」 「まぁそういうことになりますな」 「夕燕城の時もか」 「いやぁあの時ばかりはさすがにちょっと苦労しました」 無名は軽く宙を仰いで眉を寄せ、唸る。まるで「雨に振られて困った」と同じ調子にしか聞こえない。しかし本人は真剣に言っている。 戯孟は更に呆気に取られた。何という無茶で奇抜な考えを起こす男なのだ。しかもそれを現実に行動へ移してなお、「大変だった」などと軽い一言で済ましている。先ほどから腹の底でうずうずとしていたものが膨らみ、込み上げてきた。 可笑しい、可笑しすぎる。 とうとう戯孟はこらえきれずに噴き出し、豪快に声を上げて笑い出した。 「面白い! まったく面白い男だ」 腹を抱えて呵呵大笑する戯孟を、無名は意表のつかれた思いで見ていたが、段々つられるようにこちらも笑みが浮かんでくる。 「お褒めに預かりまして恐悦至極」 邪気のなく言えば、戯孟は更に可笑しがった。 そうやってしばらくの間状況も忘れ、酒を片手に2人で笑い合う。 衝動に渦巻く意識の下で、ある思いが戯孟の中で繰り返し瞬く。 この男を己の股肱に加えてみたら、どうなるか――― 漠然と己の中に泡沫のごとく浮かんで消えた思精。未だ形定まらぬもの。しかしやがてそれは確固とした形を成すだろう。元より人材集めには目が無い戯孟である。優秀な人材と知れば、身分も家柄も人柄も問わず、どんな手を使っても手に入れようとする。既に一種の病気と言ってもいいほど、戯孟の人材収集に対する熱意は常軌を逸していた。ここまでくると、もはや狂の域である。 幸い無名は李洵の旧友である。李洵の推挙ひとつあれば、例え氏素性知れぬ一平民一兵卒でも仕官に関してさほど障りはあるまい。必要とあらば、何か適当な理由をつけて相応した階級身分を与えても良い。 (だが、未だだ) 未だこの人物すべてを受け入れるには決定打に欠ける。自分自身、無名に対する胡散臭い印象は拭いきれていない。どこかで、疑わしく感じている部分もあった。若者にありがちな、己の能力にあぐらをかいているだけの男ではないのか。そうではないと己の直感は訴えるが、主観のみで道理を曲げることは戯孟の矜持が許さぬし、筋も通らない。無名の今の待遇はいわば反則。存在そのものが例外なのだ。他にも認めさせるには、有無を言わさぬ結果が必要だった。 そう、結果だ。 「ところで閣下。丁度よいところにお越しでした。少々お願いしたいことがございましてね」 無名が不意に表情を改めた。 「何だ?」 戯孟が促すと、無名はにやりと笑みを浮かべ、瞼を僅かに下した。眸が鋭く閃く。 「兵をいくらか、お貸し願えますか」 |