空にひと欠片の星が点る。 それを目にした慶の斥候達は、同時に身を起こした。 「合図だ」 矢に手を掛け、矢先に火打石で火をつけていく。順々にそれらを弩に番え、弧に弓手を掛けて思い切り引き分ける。 片膝をつき、方向を定め、両の腕で極限まで弦を絞り―――斜上の堯陣営へ向けて一斉に引き放った。 陳雨は楼閣に登っていた。そこからはこの峰絽関の半分が見渡せるようになっている。 陣中に設営された高台の上に佇み、乱世をして天才と呼ばれる胡の軍師は空を見上げる。 黒煙が立ち込めたような空模様では、いくら天文の知識に精通している陳雨でも星見は困難である。だがたとえ星が読めずとも、確実に分かることはあった。 ―――来る。 陳雨は目を細めた。 ―――もう間もなく決着がつく。 胸中で繰り返し言う。 これで慶軍は大打撃を得るだろう。さすがの戯孟といえど、兵を退かずにはおられまい。 実際日数としてはさほど経ってはない筈なのに、ここまで来るのに随分長い時間がかかったような気がする。 だが勝機はいよいよそこまで迫ってきている。これで全てが収まるのだ。 微かな高揚を込めて、そう思ったときだった。 突然、誰かが悲鳴を上げるのが聞こえた。 「火が……!!」 その声に、ばっと振り返る。よくよく耳を凝らしてみると、向こうの方―――陣営の中央辺りで、何人かの兵が叫んでいる。 丁度主幕のある辺りである。そこだけが不自然に明るい。 (何だ―――?) 不穏な胸騒ぎに、逸る気持ちを抑えつつ、側に控えていた兵を伴って声のする方へ駆け足で向かう。 近づくにつれ、大慌てで入り乱れる兵卒たちにぶつかった。彼らは忙しなく走り回り、騒がしく何かを怒鳴っている。 陳雨は眉根を寄せた。一体何が起こったのか。 兵卒たちの間を抜けて何か問題を生じているらしい場所へ行く。 (何なのだ。火とは何のことだ。あの明かりは、一体何が) 突如陳雨の目に、信じられないものが飛び込んできた。 闇夜の中、真っ赤な炎に包まれる主幕が、そこにはあった。 幕の前で右往左往する于卷の姿が見える。 陳雨は呆然と佇みながら、皓然と揺らめく炎を見つめた。 (何が起こったと言うのだ) 軍師の姿を目に止めた于卷が、無様に転びつまろびつ近寄ってきた。 「陳雨! こ、これは一体如何したことか!」 強面を情けなく歪めながら、横合いから怒鳴る。 陳雨は思わず舌打ちしたくなった。その様なこと、自分が知っているわけがなかろうに。大体にして指導者たるべき者がそのように取り乱しては、従う者達にも影響してしまう。 混乱している指導者の問いには答えず、陳雨は動揺する兵卒たちに向かい、よく通る声で叫んだ。 「うろたえるな!! 各自速やかに水を持ち消火を行え!!」 素早く指示を飛ばしてゆく。命じられた兵卒達は慌てふためきながらも、言われた通りに動き始めた。万一の失火に備えた訓練も積んでいる。すぐさま関の横にある滝から水を送るべく兵達は準備を進めていく。 陳雨は重ねて檄を飛ばした。 「慌てずとも火は広がらぬ!! もう間もなく雨が来る!!」 そう。もうすぐ、この峰絽関に大きな雷雨が来る。 年に一時、この季節、この時期に、定例の雨嵐がこの辺りを襲う。そしてそれこそが、陳雨の狙い。 雨はこの日この時刻にしか来ない。陳雨は地元民の情報と、天文の動きでそれを読んだ。だから彼は、わざわざ回りくどい手で時間稼ぎをし、巧妙に手の込んだ仕掛けを作ったのだった。 「この程度の炎、たとえ飛び火しようともすぐに雨で消える!! 慌てず、鎮火の準備をしろ!!」 陳雨はひたすら号を飛ばす。 ―――が、そうしているうちに、また別の事態を知らせる声が上がった。 「火矢が、火矢が飛んできます!!」 「何!?」 兵の声につられ、陳雨は上を見上げる。 空に、あるはずもない無数の星が―――橙の星が輝いていた。 ―――こちらへ向かってくる。 陳雨は両眼を大きく開いて凝視した。 あれは慶軍の火矢だ。 そこでやっと気付く。 先程から吹いていた強めの風が、いつの間にか東向きに変わっていることに。 (西風!!) 陳雨は内心舌打ちをした。迂闊であった。この辺りを吹く風は常に東風であると聞いていたのに。よりにもよって――― 「夜襲だ!! 火矢が飛んでくる、慶の夜襲だ!!」 わあっと喧騒が広がる。逃げ腰になる兵卒たちに、陳雨は振り返って怒鳴った。 「慌てるな!! 皆のもの、直ちに迎撃の装備せよ!!」 風が徐々に強まる。 兵士達は慌てて自らの武具を装着しだした。 その間にもあちらこちらで次々と火の手が上がる。 (なんという―――) 風が吹く。 風が吹く。 人々の怒号が風声の中に浮かんでは掻き消える。陣中の幕が大きな音を立て、人々の服が翻る。陣中を、山を、西から吹き付ける烈風が直撃した。 (なんということだ) 陳雨は強く歯軋りをした。 西風。谷風、逆風―――何とでもいえる。正面から吹き当たってくるもの。慶軍にとっては追い風であり、堯を火攻めするに最適な風向き。 (まさかそんなことが) 陳雨の顔色が俄かに白くなる。火矢は風に乗り、堯陣営内に次々と降り注いだ。 あちらこちらと刺さった箇所から火玉が上がる。風がそれらを煽り、火玉はたちまち炎となって黒煙を吹き上げた。 天幕は元より燃えやすい。ここ最近は湿度の高い日が続き、大分湿気を含んでいるので燃え広がりにくいかとも思われたが、いつの間にか乾燥した空気が場を支配しており、火は予想以上の勢いで燃え広がってゆく。 兵士達は大急ぎで敵の襲来に準備しながら、必死に消火へ駆け回った。 堯陣営は今や、怒涛の嵐に呑み込まれんとしていた。 空に一斉に焔の花が咲くのを見届け、無名はすぐさま樹から飛び降りた。着地と同時に、チラリと先程から沈黙を守っている細作の男を一瞥する。 男は崖下を見ていたが、無名に気づくとそちらへ顔を向けた。先程までの愕然とした表情はもうない。ただ、片目だけが閉じられている。瞼の周り一帯が紫に腫れ、目元に一文字の傷が走っている。先程の一撃で負傷したものであろう。 恐らく今なら逃げるのは容易だ。そう判断し、無名は崖先へ向けて駆け出した。 ところが、無名が断崖から下へ飛び降りようとした寸前、 「待て」 ひどく静かな声音で呼び止められた。 無名はぴたりと足を止め、振り返り男を見る。 出合った眼に、先程までの闘志は既に見受けられなかった。 自陣に燃え立つ炎に気を殺がれたのか、はたまた怪我によって戦闘継続不能と判断したのか。戦意を手放したらしいその男はただじっと無名を見据え、言った。 「―――貴様、名は?」 無名は虚を突かれたように瞬き、見返す。 普通に考えればこの状況で己の名など言うわけがない。正体を晒すに等しい。だが男は繰り返した。 「答えろ」 無名は逡巡し、一呼吸おいてからこう答えた。 「名はない」 「何?」 言われた意味を図りかねず、眉を顰めて怪訝に問い返す男。 その彼を見返し、無名は半身を翻しながらもう一度、 「無名さ」 笑みとともに言い放つや、そのまま崖から宙へ身を躍らせた。 |