「風が来る」

 無名は山を駆け下り、慶の斥候兵が各自潜伏しているところをそれぞれ回った。
 その言葉は次々と伝わり、斥候達は合図のように口々にそれを繰り返す。
 俄かに様子が慌しくなる。兵達は弓を収めると密かに忙しく動き始めた。

「風が来るぞ、急げ」

 伝令としてすべての潜伏箇所を巡ったのち、最後に一番最初にいた斥候隊のところに戻ってくる。
 そこにはあの兵が、いっぱいいっぱいな様相ながらも他の兵を纏めていた。意外にこいつは使えるなと無名は頭の隅で思いつつ、近くに駆け寄る。無名の姿を目にした男は、驚き半分怒り半分で彼を見やった。

「おい、お前なあ―――

 文句言いた気な男に、だが無名は構わず、

「風が来る。移動だ、急げ」

 首を堯の陣営方に向け、陣内の様子を窺いながら言った。
 それを耳にして斥候達は、ハッとなってすぐさま気持ちを入れ替え、支度を整える。

 ―――これで、締めだ。

 堯陣を見上げたまま、無名は双眸を細めた。




 風は相変わらず強く吹きつけて止まない。それどころかどんどん勢いを増してゆく。炎の舌は風に沿い、山の頂きの方へ向かって伸びてゆく。火粉は既に周りの山林へも飛び火していた。
 それでも陳雨はまだ希望を捨てなかった。
 あともう少し。あと少しで、必ず雨は来る。そうなれば、この程度の火災ならなんとか被害は最小で収まるはず。
 陳雨の願いを聞き届けたかのように、俄かに空が鳴動しはじめた。
 風は依然狂々たる様ではあったが、確実に天の運行の変わる。
 西風の向こうに、その風道を押しつぶすように湿気の多い大気が押し寄せる。黒雲が物凄い速さで渦を巻き流れていく。遠くの方で、低く、丹田を震わすような遠雷の鳴が聞こえる。
 やがてポツリポツリ、と雫が天より落ち始めた。

 頬に当たった水玉の感覚に、陳雨は文字通り弾かれたように天を仰いだ。その額や睫毛にも水滴が弾け滴る。雨だ。
 陳雨は急いた様子で楼台に戻ると、慶陣営を覗きこんだ。
 一滴、また一滴と。地に染みを作る水滴の間隔が、徐々に短くなっていく。
 ドォン―――と腹の底に響く轟きが近くで鳴った。
 空が、天が唸る。雨は次第に大粒の飛沫となり、峰絽関に降り注いだ。先ほどとはまた違った風が吹き荒れ、乱雨の相を成す。
 突如来らした大嵐が峰絽関の山谷一帯を呑み込んだ。
 ざあざあと響きを上げて雨が降り頻る。まだ暴風雨とまでは行かないが、いずれ盆を傾けたような大雨となることは明らかだった。それが証拠に、雨脚はどんどん速さと強さを増している。地は泥濘み、視界が悪くなる。

 だが本当の災害は、これからだ。
 どこからか、豪雨に混じって地響きのような音が聞こえ始めた。明らかに雨風とは違う轟き。
 陳雨は雨に濡れるなか、してやったり、と嘆息を漏らした。
 あれは、慶の軍を冥府へと誘うの声。まもなくここに、地獄絵が広がる―――
 心中で、そう呟いた。
 漪水は山中の湧き水を起点に、山脈を挟んで北側、南側それぞれに流れを作っている。そのうちの戦場側に流れる漪南川の更に上流。陳雨は予めそこに堰を作っていた。そして慶軍が通ってきた狭い山間の道。遥か下流に密かに兵を配して、切り崩した岩石や樹を、頃合を計って山峡の頂から落とすように命じていた。上流の流れは速い。それに大量の雨水で河の水位が増せばどうなるか。勢い増した河水を堰き止めた出口が決壊すれば。
 水は勢いよく溢れ出す。そして慶軍は漪南川を背にして陣を設営している。
 音は次第に高まり、そして確かな振動を持って近づいてくる。堯の兵士達は轟音に惑い、それぞれに音のする方を向いた。
 音は、慶軍の方角からしていた。この雨の中、堅固にも見えたはずの慶軍の陣営は、今や頼りない小枝のように見える。
 漪南川の上流から迫り来る気配。
 ついにそれがやってきた。
 ドオンという大音声が上がり、続いて大量の水が噴き出した。

 ―――漪南川の氾濫だ。

 上流より雨によって増水した水が、堰を破って鉄砲水と化す。だが水は、下流で急激に堰き止められたが故に逆流し、更なる暴波となって打ち戻ってくる。大量の水はまさに飛ぶ勢いで山麓を薙ぎ、木々を倒し、谷に溢れかえり―――そして漪南川を背にしていた慶の陣営を瞬く間に激しい流れの中へ呑み込んだ。崩れ落ちる楼閣、薙倒される木柵、容赦な砕かれ流されてゆく投石機。幕や支柱が、次々と水中に消えてゆく。
 それらの光景が、陳雨の脳裏にははっきりと見定めることができた。
 炎に照らし出される水面。何かの一部と思われる細かな木材たちが、濁流に浮き沈みしていく。それすらもあっという間に目の前を通り過ぎる。
 破竹の勢いで、水は流れた。川筋は最早原型を留めず、渓流は元の何倍もの幅となって山間を走る。戦地となった広野は多量の水で溢れ返った。
 慶陣営は、跡形もなく波間に浚われた。
 水攻め。
 これが陳雨の考えた、慶軍撃破の秘策であった。
 だが、すぐに異変に気づく。

 ―――おかしい。

 雨の中、目を凝らす。長い官服は既にびっしょりと水を含んで重たく、色も元よりも濃くなって身体に張り付いている。冠はとうにどこかへ飛ばされ、髪の毛は蓬々の状態で、しきりに垂れる雫が目に入って視覚を遮る。苛立たしげに髪を掻き揚げ、陳雨は山下の激流を眺めやった。

(おかしい。何故だ)

 陳雨は目を瞠って自問した。
 確かに水攻めは陳雨の策であった。しかしそれは、実のところ作戦の序盤でしかない。
 まだ、陳雨の作戦はここでは終わらないのだ。
 なのに―――

(何故、慶軍の兵の姿がひとつも見当たらない?)

 川が逆流したとき、慶陣営から兵士達が逃げ出す姿がなかった。豪雨のせいで見えなかったわけではない。確かに、一人も姿を現さなかった。逃げ惑う悲鳴も聞こえなかったし、混乱の様子すら感じられなかった。
 陳雨の計算では、この雨と川の氾濫により混乱する兵士達が、我先にとこちら側の山へ逃げ駆け上った時―――その時に事が起こる筈だったのだ。
 この辺りの山々は地盤が弱く落石が多い。更にこの豪雨で山滑りは起きやすくなっている。もしそのような状態で、大勢の人馬が一挙に山頂へ押し寄せれば、足場は崩れ、大岩が転がり落ち、兵士達は次々と谷底へ突き落とされる。そして激流に飲み込まれる。
 そうなるはずだった。少なくとも計画では。
 ところが慶兵が人っ子一人見当たらない。これはどうしたことか。
 陳雨は予想外の事態に困惑する。何故。
 その時だった。
 目の前。堯陣営の真下に無数の人影が現われたのは。

「あれは……!」

 陳雨の表情が驚愕に染まる。
 人影は、慶の軍装をした弩弓兵。数えて幾十。
 彼らは勢い立つ水に飲まれぬ程度の位置で、堯軍陣営に向かうなだらかな坂の登り口―――本来は、旅行く人々が関所に向かうために崩し整備された山道の間中に、列を成してこちらを見上げている。
 狙いは明快だった。あるいは立ち、あるいは膝をつき並ぶ兵の、その一番先頭。そこに、無名はいた。背後下の激流にも気を留めず、薄く笑みを浮かべながらただの長弓を構え、堯陣営を真っ直ぐに仰ぐ。

 いや、堯陣営ではなく―――陳雨を見据えていた。

 そして無名の後ろ、数多全ての兵士達が、一様に強弓を堯陣営に向けて構えていた。その矢の鏃ひとつひとつに、小さな皮袋が括りつけられている。
 すべてが、顔に泥をつけ、全身を土と水塗れになり、ただ真っ直ぐに鋭く輝く双眸を向けている。
 陳雨の顔は、冷たい雨に打たれ続けたためか青白く、仄かに輝いている。その顔色から、弓矢の軍勢を見た途端さらに血の気が失せた。
 たった一度だけ。陳雨の目が無名を捕らえた。2人の視線が絡まる。
 陳雨は戦慄した。分かったのだ。彼が何を考えているのか。何をしようとしているのか。
 口だけが何かを言わんとして空振る。

 ―――勝負だ、陳公嬰。

 無名は声無き声で言う。
 その昔山伯と雨師は仙女を捕らえた。だが火師と風師によって企みは破られた。
 この時期、この辺りは雨期であり、常に東風が吹きつける。しかしただ一回だけ、西風が吹く一瞬がある。
 ―――この伝説は、事実を示唆していた。
 豪雨に、勢い旺盛であった炎は、いまや黒煙を上げて少しずつその勢力を弱め始めていた。だが既に陣の大半を飲み、山へ大幅に広がりを見せる大火は、このような雨嵐をもってしても完全な鎮火まではかなりの時間を要すと思われるほど、激しさを見せている。丁度山頂の草木が生い茂る地帯であったのが不幸したようであった。
 無名の瞳が、雨闇のなか綺羅と閃いた。
 引き絞った弦がギリギリと硬い音を立てる。鏃の小袋が揺れ、中で液体のようなものの音がした。
 強弓ならまだしも、普通の弓ではここまで届かない。だが陳雨はぼんやりと、あれがここに届くだろうことを認識していた。何故だかは分からない。きっとそうなるだろうと、不思議な確信が胸を突いた。
 無名の瞳がスッと細まる。
 そして矢は、放たれた。ひょう、と威勢のいい音を立てて、一気に飛んでゆく。
 続くようにその後ろから、一斉に強弓が放たれた。
 無名の矢は雨を切り、風を切って真直ぐに貫き、いまだ火消えずにいる堯の幕舎へと突き刺さった。途端、鏃についた布袋から液体が零れる。液体は火に降り注ぎ―――唸りを立てて火柱が上がった。
 悲鳴が上がる。
 その声に、陳雨は弾かれたように我に返った。

「しまった!!」

 次々に飛んでくる鏃の袋が火に触れるたび、その中身が火に掛かるたび、火は勢力を盛り返したように大きく燃え上がる。猛火は今までの倍の速度で燃え広がり、すべてを容赦なく炭と成す。皮袋の中身は油だ。火に油を注げばどうなるか。更に、そこへ水気があれば。自明の理だ。
 盛気を取り戻した炎の群はますます勢力範囲を広げ、黒煙が山まで囲む。西風に煽られたためか、堯軍陣営の上方の山は全体から炎を噴いていた。
 火は油に引火し、更に水によって油が撥ね、飛び散って炎を広げる。堯陣営は最早火の海、消火はとうに不可能となっていた。喧喧囂囂の嵐が陣営内を包んだ。
 さすがにこのままでは自分の身も危ういと思った陳雨は、展望台から降り退路を走った。その途中で逃げる兵達に怒鳴り散らす于卷を目の端に捉え、舌打ちを抑えて走り寄る。
 気がついた于卷がこちらを向いたとき、あまりにも変わり果てた顔に陳雨は息を呑んだ。緊張と続く混乱のせいか憔悴しきり、指揮者の容貌は一気に年を取ったように見えた。
 だが陳雨はすぐにその思いを振り切り于卷の側まで駆け寄ると、鋭く叫んだ。

「将軍! 退却命令を!! ここは駄目です、すぐに関城へ退却せねば!!」

 于卷は疲労の濃い表情を向けながらも、目を眇めてひとつ頷きすぐさま兵士達へ指令を発した。

「全軍退却! 直ちに関城へ!!」

 しかし兵士達は炎の勢いに混乱し、自我を失って逃げ惑っていた。于卷の声も、一部の者が反応するのみでその他殆どが混乱をきたし、錯綜を始めていた。
 上は盛大な山火事で逃げ場を塞がれている。下は洪水でやはり降りることは困難である。難を逃れるには自然と、城砦のある北側か反対の南側に行くしかない。
 打ち付ける雨の中、ある者は城砦の方面へ逃げ、そしてある者は煙に視界を奪われるまま南の山の方へ走る。雨と風と炎で錯乱した彼らは、無我夢中で火から離れようとした。
 しかし陣営から南側へ逃げ出す兵達を視界に留めた陳雨は、ハッとし大声で制止した。

「駄目だ、戻れ!! 死にたいのか!!」

 恐慌する兵達は聞かない。彼らは逃げることにただ必死であった。

「そちらへ行くな!! 関の方へ退却しろ!!」

 懸命に声を張り上げる。だが人々は止まらない。
 駄目だ。そちらは。そっちへ行けば。
 大量の兵士達が南の山道へ殺到する。
 その頭に、巨大な石群が降ってきた。
 頑強な岩に直撃され、士兵が悲鳴を上げて岩棚からぼろぼろと谷へ転落していく。阿鼻叫喚が巻き上がる。やがて、緩くなった地盤が鳴動をはじめる。山肌が傾れ、岩棚は兵士達を乗せたまま崩れ落ち、山下の乱流へと飲み込まれていった。
 まさに煉獄の絵図とも言える惨状が、目の前で繰り広げられていた。一度に大勢が殺到する振動で起きる落石に山崩れ。まるで己が書いた講談本を、そのままそっくり相手によって演出されたかのような。そう、まるで自分の考えを読んで、逆に利用したかのように―――
 凄まじい光景を目にしながら、まさか、と陳雨は胸中で呟く。
 まさか読まれていたのか。
 全て。全て、自分の策が相手に読まれていたというのか。
 脳裏にちらつく、薄く光る瞳。
 風。火。雨。矢。鏃の油。山火事。山崩れ。落石。
 どれも、こちらの考えを知っていなければできぬことだ。こちらが仕掛ける前に種を仕掛け、川の氾濫に備えて密かに軍を移動し、己の兵力は保持したまま、相手の戦力を削ぐ。見事に手の内を利用されたのだ。

(見事)

 陳雨は柳眉をきつく寄せ、奥歯を噛んだ。初めて味わう完敗だった。
 一瞬だけ慶軍の方を睨みつけ、それから陳雨は踵を返して、関城へと走り去った。


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