遠くで、勝鬨の声が聞こえた。




 無名は、薄暗い幕舎の中央の円座に胡坐をかくように腰を下ろしていた。立てた片膝に右肘をひっかけ、目は閉じたまま、じっと身じろがない。
 幕内には他には誰もいない。幕舎どころか、陣営内にもほとんど人気はなかった。兵士は留守役を抜かせばあらかた出払っている。
 無名が居るのは、この遠征中、主簿たちが執務を行ったり、主の戯孟が某かと対面するときに使う天幕である。その中で、無名は一人ただ待っていた。
 今より、最後の締めとなる戦が行われようとしている。勝機は完全に掌握した。きっと戯軍が勝つだろう。
 無名は伏せていた瞼を僅かに上げた。
 先程の声は幻聴。しかしそう遠からぬ未来の声だ。恐らく日が南天を傾かぬうちに、峰絽関は陥ちる。
 于軍は最早大打撃から立ち直れないだろう。兵を大量に失い、戦力と言える戦力も残ってはいまい。いかな天然の要害とはいえど、力なき者の前ではただの石の建物。頼みの綱であった陳雨ももういない。峰絽関は今や、満ち潮にさらされようとしている砂上の城であった。先戦の圧勝に勢いづいた戯軍30万を止める手立てはない。
 無名はそのようなことに思いを馳せながら中空を見つめた。
 豪奢な鎧を着た小柄な男が幕の入り口を潜り内に入ってきた。薄暗い幕の中、男は日明かりの入る入り口に背を向けて椅子に座る者の姿を目に入れる。足を踏み入れたとたんひんやりとしていると感じたのは、あまりにも強い外の日差しに反して中が昏かったせいか、それとも幕の主といわんばかりのその人物の纏う空気のせいか。
 巾が揺れる。振り返った口元には、涼しげな笑みが刻まれていた。
 戯孟もまた笑った。

「そのご様子だと、戦略通りに行ったようですね」

 無名は立ち上がることなく、半身のみ返すようにして戯孟を見上げている。下位の者が上位の、それも国の高位に就く者に対する態度としては無礼極まりない。本来ならば決して許されぬ振る舞いであるし、また許していては他にも示しがつかないだろう。
 だが天幕には2人以外おらず、そもそもからして別に腹も立たない。こうした無礼は今に始まったことではなく、また注意せぬうちに慣れてしまったのかもしれない。むしろこの不羈な在り方こそがこの男に相応しいと戯孟は思った。
 そんな戯孟の心を見透かしているのかどうか、無名は「それは何より」と言って再び元の方に向き直った。戯孟からは見えないが、薄影の中どこか遠くを見つめるような目をしていた。
 戯孟はその様子に少し違和感を抱く。それはあまりにも曖昧で、一体何なのか掴めない。確かにそこにあるはずなのに、掴もうとすれば手を摺り抜けていくような、あやふやで捕らえどころのないもの。
 戯孟はその後姿を見つめ、しばらく黙り込んだ後、重々しく口を開いた。

「これから砦に総攻撃を仕掛ける。もはや関は完全に我が手に陥ちた。これで研州礼州は手に入ったも同然となるであろう」

 そうすれば次は堯の都城だ。
 無名は、やはり振り向かぬまま言った。

「焦りは禁物です。急いては判断を誤り、油断すれば足元を掬われる。ここからは慎重に行かねば」
「判っておる」

 戯孟は唇の片端を吊り上げ答えた。それを気配で察し、無名は影で満足げに微笑むと、更に言った。

「閣下にとっては今更ではありますが、占拠地の領民には改めて仁慈の心を以って接せられますよう。決して兵達に略奪行為を起こさせぬよう軍律の徹底を。張斯は善政を敷いてはいるようですが、直接的に領民の信愛を掴むような触れ合いはしておりません。特にここからは水土に恵まれた豊穣の地。士兵達の欲もあらわになりやすい。ここで閣下が領民の生活の安全を固く約束すれば、必ずや民心を掴むことができます。加えて今や軍の3分の1は堯の人間。彼らにとってみれば対峙しているのは同郷の人々です。武と力を以って蹂躙すれば強い反発を得ましょうが、和と仁を以って礼を尽くせば閣下への忠誠心は一層強まり、軍の統制にも繋がりましょう」

 無名の語る堯の姿は長年の放浪の旅に基づく情報である。そこに暮らす人々の様子や、張斯へ抱く印象、そして実際に無名自身が見た張斯の人柄から考えて、これはまず間違いないと断言できた。尤も、このようなことは戯孟ほどの政治家であれば言われるまでもないだろう。だからこれは単なる念押しだ。戯孟が迷わずその道に進めるように。あるいは戒めか。
 強烈とも言える眼光を背にひしひしと感じ、無名は微笑を苦笑の形に変えた。

(酔狂なものだ)

 己のような氏素性知れぬ男の言葉を信じようとするなど。
 戯孟は臣下や他人からの進言をよく聞き大切にすると評判だった。己の非を指摘されれば素直に受け入れる。それでいて決して全てを鵜呑みにはせず、また己の定見もしっかり持っている。軍議では麾下の幕僚たちの論を自由に競わせ、たとえそれが己と相容れぬ意見でも足蹴にせず、使えると思った策案はすぐさま採り上げる。皆が意見を言い尽くすまで己は口を挟まず、最後に有用と思われる考えを理論立てて述べ、それに対する意見を聞く。そして一人一人への気配りも決して忘れない。
 だから人は彼について行くのだろう。李洵もまたそうしたところに惚れ込んだに違いない。

「これから先は柳州都に近い。おそらく人々の張斯に対する忠誠心は、辺境よりも強くなります」

 中心に近くなればなるほど、受ける恩恵もそれだけ直接的に影響する。

「ですから少しずつ足場固めをしてゆくことが肝要です。反慶感情が伝染して広がって行かぬように。そのためには閣下が張斯以上の大器であることを強く印象付けなければなりません。多少大げさな位で丁度いいでしょう」

 無名はまるで詩でも吟ずるように述べると、ふと再び振り返って戯孟をひたと見据えた。

「仁の心を保たれよ。さすれば民も臣も必ずついて来る。彼らは閣下を見ています。閣下が己の指導者として相応しいか、その一挙一動を見定めています。そのことを忘れず、決して道を見失われぬように」

 決してそらされる事なく、真直ぐに投げ掛けられる瞳。静かな中に宿る鮮烈な光を、戯孟は同じぐらい強い眼差しで見据え返した。
 戯孟は何故無名がわざわざこのようなことを言うのか気づいている。彼には“前科”があるからだ。
 かつて戯孟は二度ほど過ちを犯した。そしてその一方においては命さえも落としかけた。それは今でも戯孟の心の楔として、そして己を戒める鎖として、奥底に残っている。
 戯孟の犯した過ち―――それは、復讐心という激情に捕われ、周りが見えなくなり、己すら見失って、憎しみに駆られるまま無数の力なき民の命を無惨に奪った行為。あの侵攻で戯孟は多くの兵を失い、そして自分自身も瀕死の重傷を負った。しかしこれは自分にとってあって然るべき敗と応報だと思っている。無謀にして幼稚な己の行動が、多くの人間の血と悲劇を呼んだ。

 戦火の跡の、未だ煙燻る地で戯孟は、己に向けられる多くの憎しみの目を感じた。己の行なったことの重大さを知り、戯孟はその時生まれて初めて、一生涯拭えぬ深い後悔を得た。無論、戯孟とて激情だけで挙兵したわけではない。いずれ攻略するつもりの土地ではあった。その時の計画も練ってあった。しかしまだ時を待たねばならぬ状態で、周囲の静止の声も聞かず無理矢理に実行に移したのは、確かに奔流する激情だった。そして必要ない血を流したのもまた、そうだ。
 再び同じ過ちは繰り返すまいと心に誓った。
 しかし、と戯孟は瞑目する。一方で、あの時の残虐な行いを許した心情も真実のものだった。それは決して消えることでなく、常に戯孟の奥底で燻り続け、何かの拍子に烈火と変じそうになる。それを時に詩や発明といった形で発散させつつ、何とか理性を保っている自分がいる。果たしてそんな己に仁を貫き通せるだろうか。

「……儂は、お主の期待するほど高尚な人間にはなれんかもしれん」

 自嘲交じりにそう答える。らしくなく殊勝になっている、と自分自身でも可笑しかった。李洵や李鳳の前でさえ、こんなにも弱気な言葉を吐いたことはなかった。大きく、強くみせてこその将帥。それが己の役割だと思ってきたから。
 そんな希代の英傑を、凪いだ瞳で見つめていた無名は、ふっと微笑んだ。

「大丈夫ですよ。閣下は人の痛みを知っている。戦の虚しさを分かっている。そして乱世の業の深さを悟っている。何より、この私さえも認めた雄です。もっと自信をお持ち下さい」

 戯孟は軽く目を見開いた。何度か瞬き、まじまじと無名を見る。
 己の短慮が呼ぶ結果を戯孟は痛感した。己の言葉一つで命が左右されることの重さを、痛いほど思い知った。だから遺された人々の憎悪と怨念を、甘んじて受けた。これが己の罪。そしてこれからも犯すだろう罪。乱世と言う世を、平安なものとするために犯し続けなければならない罪。それが戯孟の選んだ道と信念と覚悟だった。
 奇麗事を言うつもりはない。破壊なくして新創はありえない。そして流血なくして破壊はありえない。すべてを護って丸く収める法などない。それは妥協と言うものだ。妥協は必ずどこかに禍の芽を残す。芽はやがて大きくなり、再び乱を起こす。だから切り捨てるところは切り捨てなければならない。切り捨てられる者こそ―――切り捨てる覇気を持つ者こそ、そしてその業を負う覚悟のある者こそ、真に英雄たりえるのだ。
 戯孟はそう信じていた。
 そして今の無名の言葉はまるでそんな戯孟の心中を見透かし、思うものを理解したうえでの発言のように思えた。
 戯孟は苦笑した。

「そうか。儂はお主の眼に適ったか」

 感慨深げに呟く。
 確認する声音に、無名はただ笑むことで答えた。そして思いついたように口を開く。

「もしも閣下がまだ己の覇道に捨てきれぬ不安を僅かにでもお持ちならば、ひとつだけ、良い事をお教えしましょう」

 すると無名は笑みを消し、完全に戯孟に向き直ると、よろしいですかと前置きをした。

「仁は礼を生み、礼は智を伴い、智は理を解し、理は道を成し、道は義に通じ、義は忠を呼び、忠は信を得る―――これが仁義礼智忠信道理八徳の(シン)、覇道の鍵です。八つの内どれが欠けても、どれかに過ぎても成り立ちません。闇雲に連鎖を実現させようとするだけでも駄目なのです。世には程というものがある。程を知らねば、均衡は崩れましょう。ですが程を知るならば、自ずと八鎖は成り立ちます。そして八徳を得た者こそが真の覇者となる……」

 八鎖。戯孟は口内で小さくその語を舌の上に乗せた。
 無名の言う『程』というものがなんなのか、そこに隠された意味を、戯孟は正確に察していた。徳の均衡。しかしそれだけではない。無名は決して『仁徳のみ』で動けとは言っているわけではないのだ。上に立つものとは仁徳だけではなく、時に非情にもならなければならない。しかし過ぎてはならない。どちらかに及びすぎれば、物事は滞り、進まない。その加減を知ることが肝要なのだと―――つまりそういうことなのだ。八連の鎖の間に見え隠れする、『均衡を保つための加減』という名の闇。

「その八鎖の徳とやらを体得できれば、儂は覇王となれるのか」
「御意」
「では、お主ならば儂をそこに導けるか」
―――……」

 その問いに、無名は押し黙った。
 しばしの沈黙した後、瞳を閉じて、短く答えた。

―――或いは」

 戯孟はそうか、と喉の奥で言い、再び瞼を伏せた。
 仁は礼を生み、礼は智を伴い、智は理を解し、理は道を成し、道は義に通じ、義は忠を呼び、忠は信を得る―――
 その言葉を心の中で反復する。そして再び顔を上げると、そこにいるのはもう先程までの人懐こい英雄ではなく、一大国を治め、軍を統括する支配者の顔があった。
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