無名は言う。

「信心とはげに恐ろしきもの。行き過ぎた信仰はその者の目を盲ませ、時に想像を絶する力を発揮させる。大陸を恐憾させたかの太陽道の乱などは、その最たる例でしょう。為政者にとってはこの上もなく厄介な存在です」

 確かにそうだ。戯孟は無名の言葉を胸中で反芻する。
 狂信的な者ほど危険で恐ろしい。彼らには信ずるものこそが全てであり、世界であり、そしてそのためにあらゆるものを捧げることを惜しまない。それは皇帝への忠誠心さえも上回る。
 戯孟はかつて太陽道の暴徒達の鎮圧に参戦したことがあるため、そのことはそれこそ実感を伴って身にしみている。はるか古の時代には、多くの人心をひとつに纏めるために為政者達は祭祀―――信仰を利用した。つまりそれだけの効力が、信仰、思想、宗教にはあるのだ。
 戯孟の心を見越したように、無名は次の言葉を続けた。

「胡侯もまた例外ではありません」
「……そういえば遥か西から来た僧たちを抱え、その教えを広めているとは聞いていたが」
「さすが閣下、情報通でいらっしゃる」

 無名は肯く。

「浮図と言って、遥か西域にある天華(てんが)より伝わり、ここ最近庶民を中心に少しずつ広まりを見せている新興の教えです。胡地以外ではまだ知名度は低く、私自身も浮図の徒に会ったのは一度きりですが、やがて需や導に取って代わり大陸全土を席巻するのではないかとも噂されています」

 西域と呼ばれる西の広大な砂漠を越えた彼方に、文化も人種も異にする国々があることは知られている。なかでも天華とは特に交流が盛んであり、交易の歴史も古い。西の辺境に防衛設備として建設された長城の下では天華からの隊商が頻繁に訪れるし、取引された彼らの品を中央の城下で目にするのも珍しくはない。
 他方、今の東の大陸をほぼ占めている信仰は―――宗派は色々あるにしろ―――先程無名の言った需教や導教と呼ばれる華原独自のものであった。

 特に需教は、韓人にとってはすでに公私の暮らしから切っても切り離せないほど深く根付いているし、先の大反乱を起こし、今も一大勢力を誇る太陽道も、元を辿れば導教の一派だ。こと導教は民間信仰がもととなって発展したものであったから、太陽道も人々に受け入れられやすく、また生活に困窮している者たちに手を差し伸べ、教えを説いて回ったことから急速に支持を集めた。

 しかし太陽道は反政権派の徒。胡の地においても、民を扇動する彼らの存在が悩みの種だった。このままでは反乱を繰り返され統治がままならない。そこで、呂伯は一計を案じた。毒を以って毒を制すように、信仰は信仰で塗り替えればいい。だが生半可な教えでは、熱狂的な信者を改宗させられないだろう。
 そこで目をつけたのが浮図の教えだった。その教義は、今世の苦しみを解き、心安らかな悟りの境地へ導くというもの。
 人々の信仰心の源にあるのは、日々の生活の中で膨れ上がった不満や不安や困窮だ。極論を言えば、縋りつき、辛い現実から救ってくれるものであれば何でもよいのである。浮図は苦行を経ることで、あらゆる欲から解き放たれることを信義としており、反乱心を煽るような過激さはない。

 呂伯は早速、西から伝道で渡って来た僧侶たちを集めて庇護し、後ろ盾となって、己の領地での布教活動を後押しした。今では太陽道を圧す勢いで信者が増えているというから、呂伯の目論見は大成功といえよう。異なる宗教間の衝突や軋轢はあるものの、浮図徒は総じて今世の苦しみを祈ることで昇華しようとするので、暴徒化は極めて少ない。
 しかし、その呂伯自身、建前から己も教えを受けるているうちに感銘を受けて、敬虔な信徒となったというのだから、皮肉と言うべきか、木乃伊取りが木乃伊になったと憂慮すべきなのか分からない。
 それはさておきである。要するに、この先の戦を有利に進めるのに邪魔な胡侯勢を、なんとか堯勢から引き離す必要があった。

「そのための離間の計として、浮図を利用しました」

 李洵はハッとして口を開いた。

「まさか、あれが?」
「あれ? どういうことだ?」

 説明を求めるに戯孟に、李洵はやや戸惑い気味に答えた。

「実は無名より頼まれ、戦況報告にまぎれて光陵へ指令書を送ったのです。直ちに金銀財宝を用意し、堯からの使節を装い、友好の証と称して胡に贈るようにと。念のためお断り申し上げますが、品々は尚書台と少府府の詮議の上、国政に障りないと判断される範囲で国庫から捻出させていただきました―――その際に、貢品の簿籍に『如艶蒜香』を入れ、また胡侯宛書簡の末尾に『日必是落入暗』と記入させたのです」

 と答えた。戯孟は軽く呆れた。

「いつの間にそんなことを」
「どうか鎮文殿をお責めになりませぬように。早さが勝負だったのと、敵の内間や外間を通じて陳雨に悟られるのを避けるために、秘密裏に事を運ぶよう私がお願いしたのです。鎮文殿は尚書令という立場ですから、閣下の裁可を得なくとも行政上の執行権はありますし」

 無名がいけしゃあしゃあと言ってのける。もはやついていけない戯孟は怒りを通り越して呆れ顔だ。咳払いを一つして先を促す。

「して、お主の意図は?」
「浮図には、悪しき象徴とされる花があり、それが如艶蒜なのです」
「如艶蒜……あまり聞かぬ花名だが」
「曼珠沙華のことを浮図はそう呼ぶそうで、彼らにとっては忌花とされています。これは私が会った浮図徒に聞いた話なんですが―――浮図の開祖の娑兌(しゃだ)がある日煩悩を絶つべく修行していたときに、美女の姿をした魔物、羅耶(ラーヤ)が現れ、これを誘惑しようとした。娑兌は誘惑に苦悩しながらも耐え続け、ついに悟りの境地をしてこれを退けたという説話があるのですよ。浮図の教えは、世俗を離れ煩悩を絶つことで心の平安を見出すところにあります。まあその美女の誘惑ってのがつまり煩悩の象徴なんでしょう。そして曼珠沙華はその羅耶の化身とされ、その香りは誘惑の象徴だといいます」

 聞き、戯孟は顎を撫でながらふむ、と頷いた。

「浮図徒に如艶蒜を贈るということは、すなわち冒涜に値すると」
「御意」
「では『日コレ必ズ落チ暗ニ入ル』というのも」

 確認するように李洵は問い掛ける。わざわざ書簡に書かせるくらいだから、これもその浮図に関係しているに違いない。それも、あまり良い意味ではなく。
 果たして無名は「ええ」と答えた。

「娑尊―――娑兌弥羅尼(しゃだやらに)は太陽の顕現とされ、信者の間では如日(にょじつ)とも呼ばれるそうです」

 "日の如し"―――それだけで戯孟と隣で聞いていた李洵は理解する。やっと話が見えて来た。
 戯孟は逸る気持ちのまま身を乗り出すようにし、しかし押し殺した声で低く尋ねた。

「つまり『日これ必ず落ち暗に入る』況や如日をや―――ということか」

 その通り、と無名はますます笑みを深める。

「日は必ず落ちるもの。ならば如日とて、いつかは如艶蒜(ぼんのう)によって地に堕落()ちよう。たとえ神の如しといえども、人間にはかわりない。この一言に込められた意味、浮図の徒ならばすぐに分かる筈。そして敬虔な呂伯がそれを聞いて黙っていられる筈はない」
「だが、このような()で張斯が喧嘩をふる意味がないし、益もない。いくら怒りに流されたところで、さすがに怪しむのでは……」

 戯孟は独り呟くようにそこまで言いかけ、はたと目を瞬いた。

「なるほど、そうか。呂伯は城中に浮図僧を召し抱えているのだったな」

 「さすがご慧眼です」無名はにっこりと笑う。
 
「そう。もしその場に浮図僧が同席していたら? あるいは同席していなくとも、“運悪く”城中に風聞が流れたら―――?」

 含みある物言いからして、胡地に潜入させている間諜に噂を立てるところまで仕込み済みということだろう。

「呂伯は私情の怒りだけでなく、立場上の態度も示さねばならず、胡と堯の同盟は破綻する、か」

 後を戯孟が引き取る。
 いくら呂伯が「これは敵の罠だ」と必死に弁明したところで、それこそ身も心も命も浮図に捧げている僧侶の感情を納得させることは困難だろう。なにせ相手は遥か西域から東の果てまで伝道するほどの筋金入りだ。

「そうか、だからしばし停戦せよと申したのだな」

 今やっと謎が解けすべてがひとつにつながり、戯孟はようやくすっきりした。停戦してから10日経った。おそらくそれは、李洵の送った使者が慶へ到着し、手筈どおりに事を進め、そして呂伯が計に嵌って陳雨へ帰還命令を出すまでの時間だったのだ。
 無名は座したまま、両手を掲げ拱手した。

「これで、これよりのち閣下や御麾下の方々を煩わせる存在は消えました。どうぞ思う存分進撃なさって下さい」
「お主も従軍するのだろう?」

 不思議そうに戯孟が質すと無名は軽い調子で肩を竦め、

「いいえ、そうしたいのはやまやまなんですけど―――生憎、卒名籍から外されてしまいまして」
「何っ?」

 目を丸くして驚く戯孟。無名は隣でひとり涼しげな顔で酒を飲む李洵を横目で睨み、

「鎮文殿の仕業です。ひとの意見も聞かないで酷くないですかこの仕打ち」
「影で色々するのはお主の常套手段であろう」
「嫌味な奴だな」
「嫌味で結構。それよりもお前、あれだけのことをやっておいて今更隊伍に戻れるつもりでいたのか」

 李洵は呆れ混じりの目を向けた。無名はしれっとあらぬ方向へ顔をやる。だが実際は李洵の言うことの方が正しい。今回のことで無名はいささか目立ちすぎた。兵卒たちの中に戻ったところで何事もなかったようには振舞えまい。
 戯孟はハハハと豪快に笑いながら、言い合う二人の間に仲裁を入れた。

「まあまあ、よいではないか。今更編成を組み直すわけにもゆかぬし、お前は李洵と留守番だな」

 李洵は拱手し、はい、と深々と頭を下げる。
 そろそろ夜も更けてきたし明日はついに攻城となるゆえ、今夜の酒宴はここでお開きにしよう―――と戯孟は腰を上げた。李洵もそれに続く。 
 が、無名だけは、何かまだ思うところがあるように、始終そっぽを向いたままであった。


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