夏は苦手だ。アスファルトに立ち上る陽炎のように"道"の境界が揺れる。あちらが近づき、普段よりも多くのモノがこちらを徘徊する。
 ヒトの目には見えないそれはそう―――

 妖怪と呼ばれるもの。








 差すような日差しと蝉の合唱が降り注ぐ中、ポストの扉を開ける。陰になった箱の内側から新聞にチラシ、DMの類を一掴みに取り出した瞬間、間から何かがヒラリと落ちた。

(何だ?)

 拾い上げ、一瞥してから首を傾げる。長型の茶封筒に達筆な毛書という今時あまり見ない古風なスタイル。しかも宛名は『藤原様気付 夏目貴志様』とあった。
 幼い頃に両親を亡くして以来、親族の家を転々とし、数年前にこの家にやってきた夏目にとって、現住所を知っていそうな友人はおろか、手紙を送ってきそうな知人さえ、すぐには思い当たらない。学校周りの知己であれば手軽なSNSアプリでメッセージをよこすだろう。裏面を返してみたが、本来あるべき差出主の情報はなかった。

(親戚の誰かとか?)

 厄介者扱いしかされてこなかった過去を思うとそれも考えにくいが―――違和感を覚えつつも、とりあえずその場で封を千切り、二つ折りの一枚紙を開いてみた。

「『御招待状―――8月1日子の刻、石月渓谷にて』……何だこれ?」

 一筆書きでもよかったのではと思えるほど素っ気ない文面に鼻白み、再度首を傾げた。やはりどこにも差出人の名はない。

「新手のいたずらかな」
「何か面白いものでもあったか?」

 水遊びを楽しんでいたニャンコ先生が肩に乗ってきて覗き込んでくる。

「あ! コラ、服が濡れるだろ」

 反射的に片手で弾き落とすと、足元からぶうぶう抗議が上がってきた。

「動物虐待だ。そんなだから不幸の手紙なんぞ送られてくるんだ」
「何だ不幸の手紙って」

 小学生でもあるまいし今時、と呆れ返りながら再び手紙に戻した目を瞠った。
 手の中にあるのはただの無地の白紙。封筒の宛名も消えていた。

「さっきまで確かに……」

 その場になってさあっと背筋が冷えてくる。そもそもこの手紙には切手が貼られていなかったことに今更思い至る。
 不味い、また何か余計なものの蓋を開いてしまったのでは。
 ニャンコ先生がそれみたことかとでも言いたげな眼差しで告げた。

「バカめ、図られたな。油断するからだ」
「一体誰に図られるっていうんだよ」
「そんなもん、古今東西決まっておろう」

 先生は前足を舐めながら、にやけた目尻をさらにニヤリと歪める。
 夏目は立ちくらみを覚えて額を抑える。ひとまず白紙の手紙は握りつぶしてジーパンのポケットに押し込んだ。家の中に入り、養母に新聞類を渡す。養母は少し表情を曇らせ「顔色が悪いけど何かあった?」と心配げに尋ねてきたが、軽い暑気中りかもと笑って取り繕った。

「少し休めば回復すると思うので、水飲んで部屋で横になってます」

 言うが早いか台所で水をがぶ飲みし、逃げるように2階の部屋に駆け込んだ。あとからニャンコ先生もついて来る。
 戸を閉め、手紙を取り出して途方に暮れる。

「どうしよう、これ……」

 思わず嘆息が零れる。妖怪関係の厄介ごとに巻き込まれるのは何も初めてではないが、まるで巧妙な詐欺のように毎度毎度新手のやり口で来るからなかなか対処法が確立できない。ぐしゃぐしゃになった紙をニャンコ先生が鼻先で嗅ぐ。

「ふむ。僅かに妖気の残滓があるな」
「何が目的なんだろう」
「何が書いてあったんだ?」

 夏目は記憶にある文章を繰り返した。たった一文だから忘れようもないが、それ以上に鮮明に脳裏に刻みつけられている感覚があった。
 ニャンコ先生が壁にかけられたカレンダーを見返す。

「1日というと、2日後か。招待ということは、指定の場所に来いということだろうな」
「見なかったことにしてスルーするとか」
「一度開いてしまった以上、出席の意思表示をしたことになる」
「もし欠席したら?」
「さて。まあ一種の契約であるから、それなりの制裁は覚悟した方が良いだろう」
「こんなの騙し討ちじゃないか。法律だってクーリングオフって制度があるんだぞ……大体どこだよ、石月渓谷って」

 先生が机の上に飛び乗り、放置してあるスマートフォンを器用に操作して検索する。毎度思うが、猫が肉球で一人前にスマートフォンをスワイプしたりタップしたりする光景は何ともシュールである。そもそも何故にロック解除のパスコードを知っているのだ。検索結果が表示されるのを待つ間に訊くと、「お前のことだからどうせ誕生日に決まってる」と鼻先で笑われた。

(後で絶対に変えてやる)

 決意を新たにしたところで画面に地図が表示された。

「意外にも県内だな」
「ああ。だがかなり奥まった所にあるようだ。車で行くしかなさそうだぞ」

 確かに、赤い印が立つのは並みいる山中で、周辺を見ても国道しか通っていなそうだった。
 さて困った。大学2年目に入り、バイトを始めた夏目は今年の夏休み中に免許を取るつもりでいたため、現在はまだ教習所通いなのだ。仮免までは何とか終えたのだが、路上教習に入った途端、進み具合が難航していた。というのも通行人かそうでないモノの区別がつかないことが多々あり、何もないところでしょっちゅうブレーキを踏んでしまう。あまりに回数を重ねるので教官からは呆れを通りこして「君、一体何が見えてるの?」と怖がられる始末だ。更には後部座席から色々なモノが応援という名の邪魔をしてきたりして、全く集中できないのである。
 というわけで8月1日までに本免を取るのは絶望的だし、そもそも若葉マークをつけて1人でそのような土地勘もない山奥まで運転したくもない。

「かくなる上は最寄り駅まで行ってからタクシーか」

 しかし帰りが困る。いっそすでに免許を取っている田沼に頼むか。いや、何が待ち受けているか分からないし下手に巻き込みたくはない。つい頭を抱えてうんうん唸った。

「トカゲ男に訊いてみたらどうだ」

 前足でスマホゲームを遊びながら先生が提案した。

「名取さんに? でも海のものとも山のものともつかないのに」
「だからこそ下手な輩には頼めんだろう。どうせ奴にはこれまでも貸しがたくさんあるんだ、たまには役に立ってもらわねば」

 随分な言い草だが、餅は餅屋というニャンコ先生の言にも一理ある。期日までにそこへ行かねばこの家の人に迷惑がかかるかもしれない。いずれにしても誰かを巻き込むほかに道がないのなら、プロの祓い屋である名取に頼むのが最も安全策だ。
 凄まじい速さで連打している猫の手の下からスマホをもぎ取る。『あー! もう少しで奇跡の十連鎖が!』とニャンコ先生が叫んだが無視してゲームを終了し、LINEを開いた。少し目を離すと勝手に課金されかねないから油断も隙もあったものではない。大体にしてゲーム中毒など、妖としての本分を忘れてはいないだろうか。
 溜息を零しつつ、最近のトーク画面を開く。芸能人の名取はオンオフの予定が掴めない。忙しいかもと思いながら「少しご相談したいことがあるんですが、お時間ある時に電話していいですか?」と送ったら意外にもすぐに既読がついた。と思った直後にスマホが振動し、着信画面に切り替わった。早!と内心思いつつ慌てて応答する。

『やあ、夏目。元気かな?』

 電話の向こうの声は相変わらず白い歯が輝いていそうなくらい朗らかだ。

「ええ、まあ。というか、突然すみません。忙しかったんじゃないですか」
『今は丁度、夏休み中でね』

 芸能人にも夏休みなんてあるのかと妙なところで感心していると、

『ついでにあちら(・・・)の案件でちょっと忙しくなりそうで、しばらくオファーは止めてるんだ』

 声を潜めるようにして意味深に付け加える。あちら、というのは聞くまでもなく裏稼業の方だろう。

『それにしても君から相談とは珍しい。どうしたんだい?』
「実は……」

 かくかくしかじかと事情を話すと、電話口が沈黙した。

「あの、名取さん?」

 数秒経っても反応がないので、電波が悪いのかと心配になって声をかけると、やがて大きな溜息が聞こえてきた。

『そういうわけか……いや、このタイミングだから何かあるとは思っていたんだが』
「はあ」
『夏目。さっき言った案件というのだけど、実はまさにその石月渓谷で開かれる会合のことでね』
「はあ―――は?」

 相槌を打ちかけて慌てて聞き返す。目頭を押さえている名取の姿が目に浮かびそうだ。

『話すと長くなるから、詳しくは明後日説明しよう。急だが、2、3日ほど外泊はできそうかい?』
「あ、はい。多分大丈夫です」

 未成年とはいえ、もう大学生だ。男だし、高校までよりずっと自由度が高い。元々養父母は夏目の自主性を尊重している。嘘をつくのは彼らの優しさにつけ込むようで気が引けるが、大学のサークル仲間とキャンプと言えば心配されることはないだろう(サークルなど入ってはいないが)。バイトも短期限定で先日終わったところだった。

『じゃあ明後日9時に近所まで車で迎えに行くから』

 言うが早いか一方的に通話が切れた。やはり忙しかったのだろう。

「何だか気持ち悪いくらい計ったようなタイミングなんだけど」

 電話の側で聞き耳を立てていたニャンコ先生がさもありなんと耳を撫でた。

「大方トカゲ男も巻き込まれた形だろうな」
(会合か……)

 過去の記憶が蘇り、夏目は暗澹たる気持ちになる。会合といえばロクな思い出がない。バックレたくなるが、先程のニャンコ先生の言葉も気になる。一度成った契約を無視すればどんな報復があったものかしれない。

「さあ、そうと決まれば早速準備だな」
「ああ、そっか。荷造りしないと」
「どの菓子を詰めていくか、それが問題だ」

 意気揚々と押し入れにストックしているスナック菓子を物色し始めたニャンコの頭に拳骨投下まであと5秒。








「いや、急に悪かったね」

 翌々日。午前9時ぴったりに家の近くに現れた車の中に夏目とニャンコ先生はいた。
 田舎町に悪目立ちするピカピカ外車などで現れたらどうしようかと思ったが。案外普通のセダンだった。あからさまにホッとした約1名及び1匹に「レンタルだよ」と名取はやや憮然として言った。

「芸能人と言っても、一部を除けば普通は人目につく車にあまり乗らないよ。特に今時はどこでもすぐSNSなんかに晒されるからね。大体、東京からここまで車を飛ばすより飛行機を使う方が早いし楽だろ」

 常識で考えれば確かにその通りであるが、常にキラキラオーラを纏っている名取ならやりかねない。という声は心に留め、夏目は曖昧に笑って誤魔化した。

「ところで名取さん、詳しい話というのは?」
「ああ、そうだったね」

 名取の表情が緊張を帯びた。高速を目指しながら静かに語り始める。路上教習生としてはそのハンドル捌きと運転テクニックについ意識が行きそうになるが、なんとか堪えた。

「石月渓谷というのは、的場家の別荘がある場所だよ」
「やっぱり……」

 予想通りではあったが、それでも顔が強張るのを止められない。脳裏に何かと因縁深い的場静司の顔が過ぎる。隻眼に冷めた光を宿し、唇に謎めいた笑みを浮かべた、妖しく危うい祓い屋集団の当主。

「的場は各地に別荘を持っていてね。もっとも全てが所有地というわけじゃなくて、廃業したり断絶したりした祓い屋の持ち物を的場が管理しているケースもある。会合はそうした別荘を持ち回りで使っているんだけど、今回の臨時会合の開催地が石月渓谷なんだ」
「臨時?」
「今回の招集は前回からそんなに期間が経ってない。何か緊急の用件ってことだろう」
「それが今夜というわけか」

 ポテチを咥えながらニャンコ先生がふむと鼻を鳴らす。夏目は助手席から名取の横顔を見た。

「会合って結局いつもは何をしているんですか」

 夏目も過去に成り行きで参加したことはあるが、状況が状況だったので、普通の会合がどのように進められているのかいまいち判然としなかった。

「その時々で議題は様々だけど、主には近況報告と情報交換の場かな。最近どこにどういう妖が出没したとか、誰それが祓い屋をやめたとか、滅多にないけど新顔の披露目とか。新しい式神を見せびらかしに来る輩もいるよ」
「名取さんもいつも参加を?」
「毎度ではないけど、気が向いたらね」
「じゃあ今回も?」

 名取の頬を蜥蜴の痣が過っていく。「……まあ、たまたまね」
 答えまでに微妙な間があったところからすると、裏稼業の依頼に関わっているのかもしれない。

「何故自分が呼ばれたのかって顔をしているね」

 名取の声に、夏目は知らず宙にさまよいかけた視線をハッと右に戻した。

「名取さんは、手紙の主が的場さんだと思いますか?」

 問題は、誰が何の目的で夏目に招待状等を送ったのかだった。的場が主宰する会合に『招待』などという言葉を使うとなると、有力なのは度々一触即発の邂逅をしている現当主だ。夏目としては苦手意識が強く、あまり会いたくない相手である。

「どうかな」

 しかし予想外にも名取ははっきりと断定はしなかった。表情から笑みを消し、慎重に言葉を選ぶ。

「あり得る話だが、何となくしっくり来ないような気もする。会合と言っても、毎回的場家が出席するわけじゃないんだ。静司曰く、常に的場が参加していると委縮させてしまうからとかなんとか……何より差出人の名前がなかったというのがどうにも引っかかってね」

 あの挑戦的な自信家ならば、夏目を誘い出すのに騙し討ちのようなやり方を取るより、むしろ名前を晒して大胆に仕掛ける方を好みそうだ。実際、以前にも的場は夏目に手紙を送ったことがあり、自身の名もしっかり記していた。

「あの手紙、微かな妖気の残滓を感じたな。あの中二男の式のものなのかは分からないが」

 フライドポテト型のスナックに手を出し始めたニャンコ先生が真剣なのかふざけているのか分からないコメントを挟んできた。名取が「中二」のところで噴き出しそうになりプルプルしていた。
 「手紙の主が静司であろうとなかろうと『呼ばれて』いるという点に変わりないだろうね」笑いをなんとか飲み込んだ名取が結論付けるのに夏目も頷いた。

「そうそう、行けば分かる。いざ鎌倉だ」
「行先真逆だけど」
「そこは気にしない」
「っていうかいい加減食べ過ぎだ」

 三日分の非常食を早くも食べ切りそうな勢いのニャンコ先生を制しつつ、窓の外から空を見る。夏真っ盛りの晴天はどこまでも青く明るいのに、目的地に近づくにつれ夏目の胸内はむしろ暗澹と曇ってゆく。この妙な心臓の脈動は、見通せぬ道行への不安か、それとも怖いものみたさの興奮なのか。
22.02.18

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