祖父は小説家だった。

 祖母は霊能力者だった。

 目に見えぬモノたちを愛情と憧憬を込めて克明に描き出した祖父には、何か不思議な力があったようだ。

 目に見えぬモノたちから名を勝ち取り使役するための「友人帳」を作った祖母は、どうやら強い霊力の持ち主だったようだ。

 そのせいか、子供の頃、世界は怖いもので一杯だった。

 その影響か、小さな頃から時々、おかしなものを見た。

 はっきり見える時もあれば、ぼんやり見える時もある。

 それらは日々常に側にあり、追いかけられることもしばしばだった。

 この体質はどうやら隔世遺伝というものらしい。

 この目に映るそれらは、




 恐らく妖と呼ばれるもの。






家鳴り




 夏は嫌いだ。クーラーなどといった文明の利器と無縁のこの古い家では室内にいても無駄に暑いし、全身からやる気を奪って、何をしようという気にならない。

「あんたそんなこと言って、いつも何かやろうって気ないじゃない」

 従姉の冷たい突っ込みも大した涼にはならず、否定する気力さえ起きない。

「夏休みの真昼間からただ酒たかりに来ている人に言われたくありません」

 寝転がったまま惰性で言い返す。

「失礼ね。私がたかりに来てるんじゃなくて、あんたんとこの鳥が勝手に運んでくるのよ」

 司が長い髪(暑くはないのだろうかといつも疑問だ)を揺らしながら拳を振って抗議した。しかしその手にもお猪口が握られているのだから説得力もあったものではない。
 なので律はさらっと無視した。

「姫、まだこちらにもございますぞ」
「さささ、一献」

 一献も何も、昼間の鳥の姿では司が自分で手酌するしかないのだが、しかし彼らがこうして昼も夜も問わず次々酒精を運んでは献上する光景も、最早見慣れたものである。

「おい尾白尾黒、ほどほどにしろよ。じゃないとしばらく禁酒令にするからな」

 茹だる暑さにだれながら、一応釘を差しておくことも忘れない。以前家中の酒を空にされて母と祖母が大騒ぎをしていた。この家で怪事が起こることは日常茶飯事だが、だからといってあまり無用な迷惑はかけたくはない。

「ううむ、それは困りまする」

 白黒コンビもさすがに深刻な趣きになり、酒運びはひとまず慎む。とはいえ酒盛りは終わらない。

「若、若もいかがです」
「日本の法律では二十歳未満は飲酒禁止」

 ぱたぱたと無邪気に飛んできた尾黒をすげなく手で追い返す。実はこの家で一番常識人なのは自分ではないかと、律は常々思う。その分一番の苦労性でもあるのだが。
 第一こんな暑い日に酒など飲めば余計に暑くなるだろう。
 律は畳の上でごろごろと寝がえりをうち、少しでも涼しい場所を確保しようと試みる。
 縁側に近い所まできてようやく風の通り道を発見し、目を瞑る。

 夏は嫌いだ。
 無駄に暑いし、何より境界が曖昧になる。

(そろそろ地獄の釜が開く頃だ)

 一年に一度、闇のモノたちが活発になる鬼月。この時期は律にとって一年のうちで最も鬼門の季節だった。おかしなモノに遭遇しやすい。否、おかしなモノとの遭遇は実際は年中行事なのだが、夏は輪にかけてややこしいことが多い。
 風鈴がちりんとなる。
 瞑目して寝そべる額をそよ風が撫でる。
 少し離れたところでわいわいと酒盛りの声。
 そして庭の外で、あははと数人の明るい笑い声。


 ちりん。


 ハッと目を開けた。
 身体を起こし、慌てて外を見る。
 塀の向こうで複数の少年らしきおしゃべりが通り過ぎる。

(今のは何だ?)

「どうしたのよ、律」

 背後で司が肩越しに訝しげに問いかける。

「・・・・・・」

 律は答えず、ただ塀をじっと注視していた。汗がこめかみを伝う。ジーワジーワと鳴く蝉の声が嫌に大きく響いた。
 悪寒が背筋を走る。動悸は恐怖への警鐘。
 感じ取った大きな気配は、しばらくそこに留まっていたが、やがてふいと過ぎ去ってしまった。

(・・・・・・去ったのならば大丈夫かな)

 未だひんやりする背を不快に思いながら、ほっと詰めていた息を吐く。ここは祖父の家だ。亡くなってから年月が経ち、大分弱くなったとはいえ、家中にはまだ祖父の気が残っている。僅かながら結界もある。

「行ったな」

 いつの間にか渡り廊下の向こうから、護法神が歩み寄ってきていた。その顔はやはり庭の塀に向けられている。

「何だったんだ」
「さてな」

 さして興を引かれなかったのか、青嵐は至って適当な返事を返す。
 しかし頭を掻きながら、ただ、と付け加えた。

「しばらく外には出ぬことだ」

 楽しむような表情で嫌な忠告を一つ残して、父の姿をした妖はそのまま後ろを通り過ぎる。司や鳥たちが陽気に挨拶する声がする。
 律は憮然とした。
 これだから夏は嫌いなのだ。おかしなモノが多く闊歩する。






「おい夏目、どうしたんだよ」
「置いて行くぞー」

 前を行く友人二人の声に、夏目貴志ははたと我に返った。

「ああ・・・・・・悪い悪い」

 謝りながら小走りに追い付く。
 少年たちは滝のように流れる汗を袖で拭い拭い道を行く。

「あーあ、こんなに暑いのに宿題合宿! これ毎年やるのどうかしてるよ」
「文句言うな。意外と楽しいと思うぞ? なあ夏目」

 急に振り返って話を振られ、夏目は「えっ」と戸惑う。それから僅かな時差のあと、

「そ、そうだな」
「どうしたんだ夏目? なんかさっきからぼんやりしてるけど、どっか具合でも悪いのか」
「暑さにやられたかー」

 心配半分からかい半分に問いかけてくる友人たちに、夏目は控えめに微笑んでそうかも、と告げた。
 そう、暑さだ。暑中は感覚が鋭敏になる気がする。それは周囲を取り巻く闇の気配が最も濃くなる時だからなのかもしれない。

「折角旅行なら、もっと涼しい所が良かったぜ」

 パタパタとシャツの胸元を摘まんで揺らす。
 夏目は笑いながら自分も同じようにして風を通した。

「でも、東京に来れる機会だって滅多にないし」
「東京っつったって、こんな郊外じゃあな。せめて舞浜とかなら夢のネズミーランドに行けたのに」
「それは千葉だよ。東京じゃないよ」
「え、そうなの」

 ボケ突っ込みにドツキ漫才。どっと笑い合いながらじゃれあう。夏休みならではのこの独特の空気が夏目は好きだった。昔ならば決して味わえなかったものだ。
 ほうっと息を漏らして空を仰ぐ。
 晴天の青に猛暑の緑がまぶしい。

(でも、東京にもこんな緑が残ってる所があったなんて意外だ―――

 意外と言えば。

(さっきの・・・・・・家? 何だったんだろう)

 大きかったが、普通の人家だったと思う。高く長い築地塀から雑木林の頭が見えた。
 何より、不思議な気配を漂わせていた。
 嫌な感じではなかった。
 むしろどこか懐かしく、じんわりと心暖まる空気だった。
 そこだけが、どこか違って、引き寄せられた。
 そうして気がつけば立ち止まって眺めていた。

『あれは力のある者の住処だ』

 不意に腕の下から声がした。旅行カバンがもぞもぞと動き、ぶはっと丸い顔が飛び出す。

『ひーひー、蒸し焼きになるかと思った!』
「ニャンコの蒸し焼きなんて美味しくなさそうだね」

 会話を聞かれぬように二人から少し距離を取って小声で話す。

『誰の所為だと思っておるんじゃ!』
「勝手にカバンの中に忍びこんでついてきたのは先生の方だろ」

 例のごとく(大量のお菓子を押し出して)勝手に入り込んだニャンコ先生は、(陶器の)猫のくせに汗だくだった。舌を出してだれている。あまりの暑さに今にも溶けだしそうな勢いだ。招き猫が溶けるかどうかは疑問だが。

「それより、力のある者って?」

 先程ニャンコ先生が漏らした言葉に夏目は興味を引かれた。

『そのまんまさ。お前やレイコのように、我らを『視』、使役しうる力を持った者のことだよ』
「え・・・・・・」

 さあっと風が吹き抜け、汗が拭われる。
 夏目は瞠目し、堅い顔でニャンコ先生に尋ねた。

「それって、名取さんみたいな払い屋ってこと?」
『近いがそれとも違う。夏目、表札を見たか?』

 唐突な問いだ。招き猫の器ゆえにどんな時でも妙ににやついた顔をしている先生は、なかなか感情を読ませない。だから先生の意図が、夏目にはよく分からなかった。

「いいや」

 素直に首を振る。「先生は見たのか?」

『カバンの中で茹で猫になっておって見る暇もなかったわ』
「蒸しと焼きときて次は茹でか」
『どうでもいい! ・・・・・・見てはおらんが、聞いたことはある。このあたりにかなり強い力をもった人間がおるという風の噂をな』
「どっからそんな噂を」
『妖怪ネットワークは広いのだ』

 そんなものがあったのか・・・・・・と夏目はどこかシュールな気分になる。ネットワークなどと近代的な言葉を使う妖怪も考えものである。しかし考えてみれば自分が出会った妖怪の中にも、別の妖怪から夏目のことを伝え聞いて訪ねて来たというパターンがなくもない。
 ニャンコ先生の話によれば、妖怪同士でどこそこに面白い人間がいるというのは特に妖怪たちの話題にのぼるものらしい。

『その男は小説家だというが、一方でいくつもの妖魔を使役しているという話だ』
「小説家・・・・・・」

 夏目は舌の上で転がす。いまいちピンとこない。さっきちゃんと表札を見ておくのだったと後悔した。

「でも妖魔を使役って・・・・・・レイコさんみたいな?」

 夏目の祖母は妖怪たちの名前を記した友人帳で、多くの妖怪を使役したという。

『さて。契約のやり方は分からんがな。ただ相当処世術のうまい男だと聞く』
「処世術?」
『妖怪との駆け引きさ』

 意味深な笑いを浮かべ、ニャンコ先生はついにカバンから飛び降りた。中は暑くて堪らないらしい。
 軽く身体を震わせてから、ぽてぽてと短い手足を動かして歩く。

『名前を聞いたはずだったのだが忘れてしまってな。名字でも分かれば思い出すと思ったんだが』
「その人、いくつくらい?」
『うーむ、かれこれ五十年ほど前に聞いた噂だから』
「五十・・・・・・」

 夏目は目を剥いた。五十年前ですでに小説家だとすれば、

「八十くらいのおじいちゃんってことじゃん!」

 ニャンコ先生は小首を傾げている。

『そうだっけか? 相変わらず人間の年月はよう分からん』

 これでは生きているか死んでいるかさえも怪しい。
 妖怪との駆け引きのエキスパートともなれば、良き相談相手になってもらえるかと期待していただけに、肩すかしをくらった気分だった。

『しかしさっきの家には結界の気配があったぞ』

 結界。
 その言葉に夏目は反応した。

「え?」
『大分古そうではあったがな。あと中にも何やら強い守護がいた。それからよく分からんが小さい奴が雑多に』
「・・・・・・」

 夏目はふと思い至る。自分は祖母レイコの血を引き―――端的に言って彼女に似たために、この力を受け継いだ。
 ということは、その小説家の血筋にも、自分のように遺伝的に『見える』人がいるのではないだろうか。

(見える人って、案外いるもんだな)

 それは夏目にとって一種の安堵のようなものだった。決して自分ひとりだけではない。自分は嘘つきなんかではない。それを証明してくれる存在。自分の見ている景色を共有し、理解できる人が、他にもまだいる。
 幼少から少年期を理解者もなく孤独に過ごし、一人で怯えてきた夏目にとっては、その事実だけで救いとなった。更には名取を始め、身近に不思議を感じ取る友達と知り合えて、今はとても安定している。ともすれば己さえも疑ってしまいそうな恐怖から解放してくれた彼らの存在は、今や夏目の中で大きな場所を占めていた。
 けれども、妖怪とに関わりに関して、彼らにすべてを打ち明けられるわけではなかった。名取は基本的には払い屋であるし、他の二人は夏目ほど見えるわけでもなく、妖怪については夏目と同じく素人だ。下手に巻き込むわけにはいかない。
 けれどももし、払い屋でも何でもなく、しかし妖怪たちとの付き合い方、あしらい方を熟知している人がいるならば、是非教授してもらいたい。
 そうすればきっと自分は、もっとうまく周りに迷惑をかけぬようにしながら、己の身に降りかかったことを解決できるのではないかと、そう思うのだ。
 この度夏目たちが泊る旅館はこの近くにある。もしも何かの機会があれば、尋ねてみようか。
 そう思った矢先のことだ。
 ひやりと脊髄が凍った。

 ―――何か、いる。

 背は目が届かない分、身体の中で一番気配を敏感に察知する部位なのだと、誰が言ったのだったか。
 凍りついた足元でニャンコ先生が一気に警戒態勢に入る。

『夏目、歩け。振り向くんじゃないぞ』
「先生・・・・・・」
『大方お前の力に吸い寄せられたモノだ。こんな真昼間から天下の往来で悪さしようというやつはおらん。無視すれば大事はない。いいな、振り向くな』

 ごくりと唾を飲みながら、夏目はゆっくり一歩を踏みしめる。
 肌は焼けつくほどの暑いのに、身の内は寒い。
 流れ落ちる汗が冷や汗に変わる。
 どくん、どくん。
 己の浅い呼吸音を聞きながら、少しずつ足を速める。
 やがて友人たちに追い付いたところで、

「? おい夏目、どうした?」

 一人が気づいて振り向く。そしてぎょっとした。

「本気で大丈夫か? 顔真っ青だぞ」
「おいおい、熱中症じゃないか? 少し休んで水を飲んだ方が」
「大丈夫だ!」

 存外に強い声が出てしまった。驚いてぱちくりしている友人二人に、夏目はハッとなる。
 慌てて取り繕った。

「いや、旅館もうすぐだろ? な・・・・・・早く行こう」

 にこ、と務めて何事もないかのごとく促す。
 心持ち急かすような夏目に、どこか鬼気迫るものを感じて、二人も戸惑いながら頷くしかない。

「あー! 夏目、またニャンコ先生連れて来て!」

 はたと足元に気づいて、一人が指差す。
 その瞬間、背後の威圧感が消えた。
 どっと、その瞬間に空気がなだれ込む解放感を味わう。
 夏目は狼狽しながら後ろを見た。
 そこにはもちろん、何の影もなかった。
10.07.24

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