世にはあらがえぬ流れというものがあるようで、こういう時ほどそれを切に感じることはないと律は思う。
 悪寒は凶兆だ。青嵐の忠告には素直に従っておいた方がいい。
 長年の教訓を守り室内に籠っていた律を追い出したのは祖母である。

「ちょっとこの桃を三丁目の西山さんの家まで届けておくれ」

 そう言って目の前に突きだされる桃の箱。

 生徒さんが実家の農場から送って来てくだすったんだけどねぇ、何分量が多くて。ほら、桃は持たないし。どうせうちだけじゃ食べきれないし、このまま駄目にするよりはお裾わけした方がいいだろ。西山さんにはこの間の町内会でお世話になったからね。どうせお前暇なんだし。夏休みだからって家の中でごろごろばかりしてるんじゃないよ。

 問答無用で桃を持たされ、追いやられたわけである。

「何、出かけるだと。おい、さっきの私の話を聞いていたか」

 一応報告に父の部屋へ足を向ければ、相変わらず落書き見たいな書画で楽しんでいた妖が振り向きざまに顔をしかめた。

「しょうがないよ、あのおばあちゃんの命令だもの」

 ふうと諦観したように律は肩を竦める。自分だって嫌なのだ。
 仕様のない奴め、とぶつぶつ文句をいいながら、青嵐は筆を置いた。

「お父さん?」
「私も一緒に行く」
「珍しいね」
「余計な面倒事は勘弁だが、近くにおらねばいざという時に守れん」

 フン、と鼻を鳴らしながら青嵐は踏ん反り返った。

「その代わり帰りはアイスだからな」
「はいはい」

 相も変わらず食い意地ばかり張った妖である。

「若、お出かけですか」
「我らもお供に」

 廊下に出れば、外出の気配を察した家来たちが飛んでくる。

「いや、お前たちは司ちゃんについててくれ」

 従姉は無自覚に霊感垂れ流し状態であるから、一体何を拾ってくるか分からない。
 尾白尾黒はいささか不満そうであったが、主の命令となれば引き下がるしかない。

「司ちゃん」
「あら、出かけるの?」

 顔を出した従弟に司がホロ酔い気分で応じる。

「うん、ちょっとお父さんとそこまで。それから、外には出ない方がいいよ」
「はぁ?」
「多分今日は泊って行った方がいいと思う」

 何それ、ときょとんとしている司に、「そういうことだから」と畳みかけてさっさと玄関に向かう。
 途中母と祖母に声をかけてから、家を出た。
 日の下に出ると眩しさと肌を焼く熱が襲った。

「うー、殺人光線」

 目の上に手をかざしながら、律は空を見やった。底抜けに明るい青空が憎らしい。雨でも降れば少しは涼しくもなろうものを。

「さぁ、さっさと行ってアイスを買うぞ」

 すっかりアイスの方が目的になっている青嵐の背を見ながら、はぁと何度目になるか分からない溜息を吐いた。
 門を出たところで、不意に爪先に何か当たった。
 見下ろせば、小さな茶色の粒が落ちている。

(どんぐり?)

 ひょいっと摘まんで持ち上げてみる。
 まぎれもなくどんぐりだった。

(でもこの季節に?)

 怪訝に思いながらも、先を行く青嵐に急かされ、律はそれをジーパンのポケットにねじ込みながら追いかけた。






 旅館についた夏目たちは、荷を解いて一息ついたところで、あたりを散策しようという話になった。
 このような暑い日に外を出回るのはおっくうだが、折角来たのだし、昼間から旅館に籠っててもしょうがないだろうとなったのだ。といったって周りには山や木しかないのだが。そもそも何故合宿先にこのような何もないところを選んでしまったのか、そこからして疑問である。

「なんかこの時期はどこも満室みたいでさ。ようやく見つけたここだけが空いてたんだよ」
「って言ってもこんな何もないところじゃあなぁ」
「いいじゃないか、森林浴に来たんだと思えば」

 マイナスイオンで癒されようよ、と夏目が言えば、「前向きだなぁ」と妙に感心されてしまった。

『私も行くぞ』
「ニャンコ先生」

 足元に寄ってきてうっそりと呟く猫に、夏目は軽くびびりながらも、いつにない様子に先ほどのことが気になるのか、と心中で推察してみた。
 そんなこんなで再び外に繰り出した三人プラス一匹は、炎天下を蝉声に包まれながら、当てもなく歩く。

「せめて海の近くだったらなぁ」
「この近くに川があるらしいぜ。川遊びでもするか」
「いいなそれ」

 下らない会話を交しながらいくらか来たところで、ふと夏目はバッグの中に財布が入っていないことに気づいた。

(ああ! 馬鹿だ俺・・・・・・)

 本格的に暑さにやられたのだろうか。自分の迂闊さにがっくりしながら、友人二人に声をかける。

「悪い、財布忘れたみたい。ちょっと戻って取ってくる」
「ええ? 金くらい貸してやるよ」

 友人がそう言うのに、夏目は手を振った。

「大丈夫大丈夫、まだ旅館からそんなに離れてないし。先行ってていいよ、すぐに追いつくから」
「そうか?」

 ゆっくり歩いてるからなーという言葉を背に、夏目は脱兎のごとく駆け出す。側ではどてどてと猫らしくない不細工さで並走する先生の姿もある。

『全く、このうっかり者め』

 ぷんすか文句を言ってくるのに軽く蹴りを入れる。

(ええっと、この道を確か右で―――

 来た道を逆繰りに思い返しながら、夏目は走った。
 と、ある角のところで爪先がコツリと何かを蹴る。
 足を止めれば、どんぐりが落ちていた。

「どんぐり?」

 呟きながら拾い上げる。
 しばらくまじまじと眺めた後に、急いでいることを思い出し、無意識のままそれをポケットに突っ込んで再び走り始めた。
10.07.24

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