東の空がようよう白みはじめた頃には、堯軍はすべて峰絽関城内に退避していた。 早朝の冷厳な空気による霧が、壁立千仞の山谷を覆い、幽玄の風情を醸し出している。そんな神秘的で趣深い山間も、ある一部だけは、霞に見え隠れするように、凄惨な光景を露にしていた。 平明の僅かな間に起こった大災害も、山際から陽が顔を出す頃には、ようやく下火となっていた。一夜にして一転、変貌した峰絽関の姿が白日に晒された。大規模な山火事は、燃やせるものを燃やし尽くしたのか、独りでに鎮火した。だが西側の山一帯は、以前よりも更に侘しい禿山と化していた。幽かに燻る煙が、所々から細く立ち昇っている。 山下には、一夜明けて巨大な湖が出現していた。四方山に囲まれた盆地は、一面に水を湛え、薄墨に霞む連山連峰を、ぼんやりと湖面に映し出している。在ったもの全ては水に沈み、残骸が時折流木のごとく流れている。静かに景色を反映する水だけが、ただそこにあった。 自然の猛威を感じさせる風景を、山頂から眺めやりながら、戯孟は嘆息し呟いた。 「まさか、これほどとはな……」 天災地災に見舞われ、あらゆるものが押し流された大地の有り様は、いっそ清清しい。 壮大ともいえる景観に、思わず詩心が擽られる。ひとつこの眺めを詩にしたいものだ、と戯孟は状況を忘れて風流な心地にいたった。 それほどまでに、それは異彩を放つ景色であった。 岬に佇む戯孟の背後には、諸将に加え幾万の軍勢が山の形状に沿うように群を成していた。各所に色鮮やかな軍旗が数々風に翻る。 彼らは、東の山―――以前戯孟と無名が展望に来た山である―――にいた。 30万弱の軍隊のうち、数千の弓兵だけを火攻め部隊として残し、残りの隊は全て安全な川東の山へ避難していたのである。これもすべて無名の指示であった。その彼らはどうしているのかと言うと、氾濫の状況が収まり次第、密かに作らせ用意していた船を放ちこちらに合流するという手筈だ。 すなわち戯孟を含めた山岳上の軍隊は、彼らを待ってここに留まっているわけなのだが――― 「おい、志明よ。俺には何が起こったのかさっぱり分からんのだが」 騎馬する戯孟の後ろから、控えている将軍の一人が馬首を進めてきた。いかにも武官然、猛将然としたその男は戯孟の親戚筋にして幼いころからの親友。李鳳、字を洪覇という。武芸に秀で、剛胆ぶりは国内外に轟き、剣矛に関しては慶でも一、二位を争うほどの腕前である。数ある名将の中でも、戯孟が最も気を許し、最も頼みとする武漢であった。 李鳳は戯孟の横に並び、主でもある親友の横顔に声を投げる。 「一体どういうことなんだ、これは」 「私にもお聞かせ願いたい」 もう一人控えていた将の丁信が後に続く。勿論彼らは何も聞かされていない。ただ唐突に戯孟が指令を出し、有無を言わさず従わされただけである。するとどうしたことか、突然の雨嵐。洪水に山火事。一体何がどうなっているのか、疑問に思わない筈がない。本来であれば策に基づく作戦は予め諸将に知らされ、きっちり役割配分を決めて実行に移すものである。それが何の相談もなしに、しかもとんでもない事態になっている。これで納得しろというほうが無理であった。 説明を求められ、戯孟は遠目のまま口角を上げて応えた。この時戯孟には、彼の男―――無名の考えが大体のところ分かってきていた。 「つまりは、こういうことであろうよ」 戯孟は、話し始めた。 無名は予め手に入れておいた情報で、この辺りはこの時期になると雨季に入り、特に大きな風雨が訪れることを知っていた。そこから敵―――陳雨の立てた策を暴いたのである。 陳雨はまず漪南川の上流に堰を作った。そして慶軍の通ってきた山間の下流に兵を配置しておいて、予測した大雨の襲来に合わせ、障害物を一斉に落として流れを堰き止める。上流で暴発した鉄砲水と、下流から逆流する川水の力を使い、慶陣営を潰す。すなわち水攻め。そのためにわざわざ城から出て西に陣を置き、慶軍に漪南川を背にして陣営を構築させるよう誘導したのだ。もしも関城に籠っていれば、慶軍は平地だけでなく堯陣営があった山の中腹にも陣を張り、慶全軍を水攻めができなくなるからだ。 更に氾濫した漪南川から逃れるために慶兵が山を目指せば、地盤の弱いこの辺りの山のこと、その振動ですぐに落石やら山崩れやらが起きて、山へ登ろうとした兵士達は次々と圧し潰され、激流へ落とされていく。これでほぼ慶の兵力は壊滅状態に陥るという筋書きだった。 無名はこれらを先読みし、逆にこれを利用した。彼は何らかの方法で、この時期、大雨の前に西風が吹くことを知った。これをもって、敵よりも早く火攻めを展開したわけである。しかし風によって炎が広範囲に広がる前に、間髪おかず雨が来てしまう。放っておけばそのまま豪雨によって火は消えてしまっただろう。 ゆえに、油を使った。大豆や荏胡麻等の植物から抽出した油は、灯火や煮炊きの燃料として大量に携えてきていた。 火と油は天敵であると同時に、水と油も天敵同士だ。油に点火した火に水をかければ、炎は消えるどころかより勢いを増す。これは油が水と混じりあわず、水によって弾け散るためである。その原理を利用したのだ。 また戯孟にわざと投石機を作らせたのも偽装である。あれは投石機を作っているように見せかけて、敵に気づかれぬよう少しずつ主力を後方の山々に退却させていたのだった。敵に気づかれぬよう、極力動きを抑えながら。すなわち金蝉脱穀―――兵法三十六計に曰く、「金蝉、殻を脱す」である。 「その形を在し、その勢いを完うれば、友疑わず敵動かず。したがいて止まるは、蠱なり。」と注釈のつくこの策は、陣の原型は保持しつつ、強大な敵に対して威勢を誇示してその進攻する意志を封じ、また友軍にも疑問を抱かせずに密かに主力を別所に移動させ、なおかつ敵に打撃を与えるというものだが、敵に気づかれぬよう表向きはそのままに見せかけ、密かに退却をする際にも用いられる。 これにより、堯軍に気取られぬよう徐々に隊を小分けにして移動させながら、同時に実は投石機を作ると見せかけて集めた材木で、船も作っていた。―――これは李洵が担当した仕事であったが、その時は何のためのものであるかは全く判然としなかった。これでやっと得心がいったというところである。 そして無名は西側の山麓に群がる山林地帯、川の氾濫域から免れるであろう堯陣営前の山道に通じる位置へ弓箭兵を潜ませた。 西風の動きとともにすかさず山道の方へ移動し、雨とともに下方より動揺する堯陣営に向けて油を入れた皮袋を吊るした弩弓を放った。 油の力を得、火炎は勢力を増し、西風によって西の山一帯へと燃え広がってゆく。これで堯兵は逃げ道は分断され、関のある北か逆側の南の山道にしか行けなくなる。 冷静であれば当然城塞へ向かうもの。しかし炎に立ちはだかれ、煙に巻かれた者は、取り乱すあまり冷静な判断力を失い、とりあえず逃げられる道に行こうとする。そのうちの幾勢かは南へ逃げ、そして陳雨が対慶兵として計画したとおりのことがそっくり展開されたわけであった。 本来水と火は、五行の理でいう水剋火―――水は火に勝ち、火は水に負けるものだ。だが無名は理の流れを覆し、水攻めに火攻めで返したのであった。 これで恐らくは堯の兵力はほぼ無きに等しくなった。 戯孟がそう言って締めると、将軍たちはおお、と歓声を上げた。 口々に策の成功を誉めそやす。戯孟は相好を崩してそれを受けていた。 「一体誰の策なのだ、それは」 極自然に行き着くであろう疑問は、李鳳によって言葉にされた。 その問いにだけ、戯孟は一瞬顔を硬くして口篭った。さて、なんと応えるべきか。彼らには無名の存在は知らせていない。これは無名たっての要望であった。戯孟も、先程説明したときには無名の名は伏せ、そこだけはぼかしている。 「全ては殿のお考えにございます」 戯孟の窮地を救ったのは、李洵であった。 自然な間合いで戯孟の後を拾い、李洵は李鳳へ柔らかく微笑みかけた。李鳳と李洵は親戚同士ではないが、同じ李姓であることが親近感を感じさせるのか、比較的個人の付き合いも親しい。 戯孟はそれとなく李洵に目を向けた。だが李洵はあえて気づかぬふりをしている。 ただ李洵の斜め後ろに控えていた智箋だけが、眉を顰めてどこか訝しんでいる顔を李洵に向けている。 ここで無名の名を出すわけには行かないことは、戯孟も理解はしている。いかに李洵の故人であり、同郷で学んだ身とは言えど、全くどこの馬の骨とも分からず得体の知れない無法者を、正規の武官文官を差し置き重用したとなれば、批判や不満の声が挙がらぬとも限らない。秩序を重んじる組織としても示しがつかない。そのことは無名自身もよく理解しているだろう。あの男はものの道理をよく弁えている。だからこそ、無名は戯孟に口止めをしていた。加えていうならば、それが分からぬ戯孟でもなかった。であるから、李洵が言ったことに何も反駁しない。 一方の李洵も、ここはとにかく隠しとおすことが先決であると考えていた。智箋の言いたげな眼差しにも当然気づいている。智箋は勘の鋭い男だ。恐らくこれが戯孟の立てた策でも―――いわんや李洵の献策でもないことに感づいているのだろう。ましてや彼は、李洵が無名を探しに行く際、戯孟に許しを請うあの場にいたのだ。そして結果的に作戦の一端を負った形にもなる。あれから何かがあって、2人が何かを隠していることを、薄々と感じ取っているのであろう。だが当の2人が何も言おうとしないことから、ここであえて暴くのは得策ではないと判断したのか、含みのある目線だけ向けてきて口を噤んでいた。 「そうなのか?」 李鳳が不思議そうに戯孟へ訊いた。戯孟の話し振りが、どちらかといえば他人の策を披露するかのように聞こえたので、どことなく違和感があるようだ。李鳳もそういう点、戯孟の言動に関しては鋭い男だった。 「ああ、まあな」 戯孟も李洵の意図を分かっているから、そう答えざるを得ない。不敵な太い笑みを見せて言い切った。 将軍以下はそれを信じたようだ。口々に褒め称え、賞賛し、手を打った。複雑な気持ちを胸に、戯孟は応じる。それを見ながら李洵は、今宵は酒でも持ち参じて、真実を知るもの同士、語らいながら杯を汲み交わそう、と密かに心に決めた。 |