各隊の状況報告をしに来た配下に李鳳と丁信、そして兵数の確認と再編成のために智箋が呼ばれて行ってしまうと、戯孟は再び景観を眺め、側の李洵にしか聞こえぬほどの呟きを漏らした。 「人が、自然を動かしたか」 ある種の思いを込めそう言う。 「―――いいえ。恐れながら、それは違いましょう」 李洵は静かに否定した。戯孟は李洵を見る。李洵もまた、眼前に広がる景色を眺めていた。朝陽が、その白皙の面を照らしていた。 「人が自然を動かすのではありませぬ。自然とは人の手におえぬもの、人知を超えたものにございます。あれらはあれらの理の通り動くだけ。我らはその力を少しばかり借りたに過ぎませぬ。戦を成さしめるのは人。戦を為すのも人。このたびの勝利も、殿のお力によるものでございます」 「……儂と、お前や智箋、そして―――あやつのな」 戯孟は口端に苦笑を浮かべ、喉の奥で笑った。 「お主の言いたいことは分かっている。戦をするのは人間だ。そして戦によって痛むのもまた人間。天下を安んじ、この大陸全ての者が何の憂いもなく生活できるような国を作ろう。乱れを正し、法を制定し、今度こそ戦乱なき世へと変える。―――できるだろうか」 「そのために我らがおります」 李洵の返答に、戯孟はにやりとばかりに笑み、 「然り。ではこれからも一層こき使わせてもらうぞ。覚悟せよ」 「御意」 李洵は拱手を掲げ、深く頭を垂れた。 同じ時、李鳳が後ろから馬を歩み寄らせ、声を掛けてきた。 「夜襲部隊の弓兵、全員無事帰還し合流したそうだ」 「おう、そうか。今行く」 大きな声で応じ、李洵に目配せをして、手綱を引く。 すると、一人の兵卒が向こうから駆け寄り、きびきびとした動作で戯孟の乗る馬の足許に片膝ついて拱手した。 「戯侯に申し上げます。弩隊3千余、任務を完了し、ここに帰還いたしました」 聞き覚えのある声音に、戯孟ははたと見やる。李洵も同様の反応を示した。 膝をついたその兵卒は、頭巾の下からチラリと目を覗かせ、にやりと笑った。 思わず名を呼びそうになるのを寸前で押し留める。無名が目線で制したからだ。 本来ならば、無名としては現れるつもりはなかった。衆前で戯孟たちに咫尺することは危険だからだ。 だが今は、そんなことに構ってはいられない。それよりも告げなければならないことがあるのだ。 戯孟が言葉を失っていると、催促する視線に当たった。ここで主の言葉がないのは不自然だ。気付くと戯孟は咳払いをし、 「そうか、ご苦労であった。無事戻ってきてくれて何よりだ」 「勿体なきお言葉―――」 無名は神妙に答え、それからふと、山際へ目を向けた。すぐに戻し、 「僭越ながら、この辺りは昨夜の風雨で地盤が脆くなっておりますゆえ、すぐにご移動されるがよろしいかと」 言いながら、不遜な視線で「ここは危険だから早く逃げろ」と急かす。 多少の差はあれどもこの山脈地帯は基本的に岩盤が弱い。さほど被害は少ないとはいえ、こちら側の山もあまり安全ではないようだ。 「そうか、よく申してくれた」 無名の意図を察した戯孟は、すぐさま遠くの李鳳へと大声を放つ。 「おい、洪覇! 兵に命を発し、もっと安全な場所へ移動するぞ」 「これよりもう少し北がよろしいかと」 「北だ!」 小声で放たれた言を付け加える。 「承知」 短く返事が返ってくるやいなや、行動は素早く行われた。帯状の群を成す兵達は、速やかに南へ動いていく。 無名は立ち上がり、短く拱手して身を翻す。戯孟や李洵もそれに付いてゆこうと、馬首を巡らした。 その時だった。丁度細い山道に差し掛かったところである。先を行く李鳳の騎乗する足元が、俄かに崩れた。 ハッと、無名は顔を上げた。 戯孟も、同時に両眼を向ける。 馬が体勢を崩し、高く嘶く。李鳳も騎乗したまま大きくよろめいた。 「洪覇―――!!」 戯孟が叫ぶ。 落ちる。誰もが、恐らく本人も、そう思った。 無名は心中の舌打ち一つとともに眼光を強めた。 崖端の崩れに合わせ、真下へ落ちかける馬。その上に乗る李鳳。その、丁度大きく身体が傾いたときだった。 卒然と、李鳳の身体が崖下から何かに弾かれたように撥ね上がった。 押し上げられるままに馬から離れ、山道の上にドッと落ちる。 馬はそのまま一度岩棚の縁に引っ掛かるものの、そこも土の地盤が崩れ、谷へ転落した。 事の顛末に戯孟は呆然とする。それは、周りで見ていた者たちも同様だった。 落馬した李鳳は部下の兵に起こされ、強かに打った背中を庇いながらも、やはり何が起こったのか良くわからないといった風に怪訝としていた。 慌てて戯孟が駆け寄る。 「大丈夫か、洪覇」 「あ、ああ……」 なんとも曖昧に返事をするものの、李鳳は唖然としている。己が助かったことが余程不思議だったのだろう。 「よくぞ無事だった」 戯孟が言うと、李鳳は依然不思議そうにしながらぼそぼそと呟いた。 「いや……何だかこう、急に下から突風に打ち上げられたような感じがあった」 その言葉に、戯孟ははたと止まる。だが一拍後、 「きっとお前の運気が強かったのだ。とにかく無事で良かった」 馬から降り、今だ半信半疑の李鳳の広い背を力強く叩いた。 すると、緊張が解けたように李洵や、丁信をはじめとする将の面々が頬を緩ませ、口々に身を案じる言葉を浴びせる。「そんなものか」と李鳳も苦笑と安堵をない交ぜにしながら頭を掻いていた。 それを戯孟は薄い笑みとともに見やりつつ、それからふと無名の方に目を向けた。特に意味はなく、何となくだった。 無名は他の者に違わず安堵を浮かべ、様子を見守っていた。その顔にどこか疲労の影が見えるのは徹夜での任務のせいだろうか。 その無名の側に、目立たぬような素振りで李洵が馬を寄せ、何やら話し掛けていた。 その後、全軍を移動させたのち戯孟は辺りを探したが、すでに無名の姿はなく、再び姿を見せることもなかった。 予想通りではあっても、戯孟は少々がっかりした。訊きたいことが山ほどある。 (仕方ない。あとで李洵を遣ることにしよう) 戯孟は己が次にすべきことを為すべく、外套を大きく捌いた。 |