山下の巨大な水溜りを超えるため、慶軍は予め備え隠していた舟を浮かべ対岸の禿山に渡る。下流域で堰き止められた河川は、今もなお落ち着きを見せず、嵩を増して水位をゆるやかに上げているが、舟を出すことに支障があるほどではない。 山は未だに火災の名残を残し、焦げついた異臭を放っていた。彼らは昨夜弩を放った、人工的に整備されたなだらかな傾斜を登り、それまで堯軍の陣営が設営されていた場所で駐屯することにする。そこはちょっとした半円形の岩棚の広場を成しており、どうやら宿営地を目的に人為的に山端を削って作られたものだと分かる。今でこそ炎の後の残骸などでひどいありさまだが、広場の地面は平に均されており、地盤も比較的安定しているようだった。 広場は北へ道―――これも平らに整備されている―――を伸ばし、それは関城へ繋がっていた。おそらく普段ならば関越えする者はこの西の登り口から広場―――踊り場といってもよい―――へ出、そこから道を北に辿って関所へ行くのだろう。 だがさすがに30万もの軍勢を収容しきれるほど山腹に設けられた場は広くないので、戯孟は選抜して編成した1万の精鋭部隊と軍馬のみを舟に乗せて(元々それほどの隻数も造ってはいない)渡り、残りはそのまま東方の山腹で待機させることとなった。 さすが天然の要塞というだけあり、なかなか攻めにくい形状である。そこには緻密に計算された思惑が散りばめられていた。 わざわざ面倒にも関城から離れた所に造られた人工道。これは攻めてくる敵軍が否応でも兵を分け、軍勢を削らなければならない状況にさせるためだろう。もし城塞を攻めたければ、この西面の傾斜からしか行けない。城の真下はほぼ断崖となっており、登ることはおろか攻めることも不可能だからだ。そして傾斜の中腹に設けられた広場は狭い。極めつけ、城へ続く道は更に狭い。必然、実際に攻める兵数は限られてしまう。そう、せいぜいが3万―――それが限界であった。加えるならば、あまり大きな振動を立てると上から石も降ってくる。 だがそれは通常の場合の話だ。いまや城に篭る堯兵の数は千にも満たまい。1万程度でも、充分に勝てる。既に峰絽関の陥落までの時間は、まさしく秒刻みであった。 そのころ無名はといえば、新たに構築された陣営の天幕の中にすっかり居座っていた。 本来ならば軍中でも最底辺のヒラ兵卒、こんなところで油を売っていられる身分ではない。だがもとの一兵卒として己の隊伍へ戻ろうにも、いつの間にか李洵の手配で無名は軍籍から除名されており、編成も既に変えられてしまったために居場所がなかった。いわば宙に浮いた状態になってしまったのである。 (除籍まですることないだろ……あいつめ、さては外堀を埋めて退路を塞ぐ魂胆か) 無名は古き友人の澄ました顔を思い浮かべた。仕官についてはあれほど念を押しておいたのに、全く聞いちゃいない。久しく忘れていたが、そういえば彼は昔からそういう男だった。 (我が道を行くっていうやつだな) この“行く”が一見穏やかで人当たりの柔らかいものゆえに周りは騙されがちだが、実際李鎮文は割に強引な人物だ。我が道は貫き通してなんぼを地で行くという点では戯孟とタメを張る。まさにこの主にしてこの臣ありである。 心中でひとしきり毒づくと、手持ち無沙汰になって、机に積み上げられている冊書の一つでも手に取ってみる。その瞬間、足元が沈んだ。ぐらつく視界に咄嗟に机の縁に手をついた拍子に、積まれていた木簡の束に当たり、いくつかが床に落ちてけたたましい音を立てた。 目前が明滅し、平衡感覚が消える。全身から冷や汗が噴き出た。異常に速い心音とひどい耳鳴りだけが頭の中に響いた。 倦怠感で手足が重い。胃液が上って吐き気がする。無名は奥歯を噛み締めた。気を緩めれば倒れそうになる身体を辛うじて支え、浅くなりがちな呼吸を整えようと試みる。全身が粟立ち、悪寒がするのに熱い。 激しい眩暈に朦朧とする意識の中で、使いすぎたか、と他人事のように思う。 このところ“力”を乱発しすぎた。微熱は少し前から続いていたが、ここへ至り溜まっていたものが一気に弾けたようだった。 生来、頑丈な身体のつくりではなかった。どうやら特異な体質ゆえらしく、“力”の大きさに対し肉体のほうが耐え切れないのだという。こまめに気脈の調整を行わないと定期的に不調がやってくるし、無理をした後は必ずと言っていいほど反動で発熱し寝込んだ。 戦場では“力”を使わないから、これまでの従軍でさしたる問題はなかったのだが、今回ばかりは心身の疲労に加え、先の“力”の行使が駄目押しとなったらしい。咄嗟のことであったから仕方がない。本来なら術や気で道を拓いて負担を軽減するのだが、あの時はそんな暇などなかったから、身の根源から“力”を直に引っ張り出した。 深呼吸を繰り返してから、ゆっくり瞳を開いた。衣が汗を吸ってじっとりしている。心地よいとはいえないその感触を誤魔化すように、額に張りついた前髪を無造作に掻き揚げた。そのまま覚束ない足取りで仮設の牀台へ向かう。 なんとか辿りつくと、糸が切れたように敷物の上へ身を投げ出した。この時ばかりは李洵の手配を心から有り難く思う。情けないことに今は四肢に力が入らない。こんなところで熱を出して寝込んでいる場合ではないというのに。 やれやれとため息をつき、無名は鉛のように重い身体を億劫そうに仰向けた。 半球を描き中心より放射状に伸びる幕舎の天井が視界の中で回っている。片腕を眉間の上に乗せ、深く細く息を吐いた。 その時、幕の表から声がかかった。 「どーぞ」 投げやりに応えれば、古馴染みのすっかり見慣れた姿が入り口から現れる。 そちらにのろのろと首だけを向け、李洵の手にある椀に目を止めた。薬湯だ。 「よく気づいたな」 「昔を思い出してな」 目が回らないよう極力ゆっくりと上体を起こし、湯気を立てるそれを受け取ると、独特の臭気にうへえと顔を歪めた。脾臓や血に効く本草の他に、気に作用するという黄耆や桂皮等も入っている。匂いで吐き気が悪化しそうだったが、気力回復の助けにはなる。 「何とも懐かしいな」 嫌そうに薬湯を呷る姿に、李洵がふと遠い眼差しになって微笑む。慶の重鎮としてではなく、かつて私塾で共に過ごした時代の顔だった。無名が季節折々で寝込むたび、李洵は冷やかし半分でよくこうして見舞いに来てやったものだ。 「どうせこうなることを見越してたわけだろう」 何とか薬湯を流し込んだ無名が口を袖で拭いながら憮然と言う。 そして、つい先刻会った時に交わした会話を思い返した。 時を少し遡り、作戦終了直後。 無名は本隊に合流した後、李洵の天幕を訪れた。 「ご苦労様」 「互いにな」 飄々と労いを口にする無名の顔を見るなり、李洵は神妙な面持ちで言った。 「李鳳殿の件は、助かった。礼を言う」 「さて、何のことかな」 無名は双眸を伏せてとぼけた。それに苦笑を滲ませながらも、李洵は深い嘆息を零した。 「全く、お前には驚かされる」 改めて呆れとも疲れともつかぬ目で、年若い友人を見やる。 「突拍子もないことを考えつくものだ」 「上手く行っただろう?」 「癪だがな」 「ははは」 苦々しげに唸る李洵に、無名は明るく笑う。 「あの風はどういう絡繰りだ?」 「そいつは後でおいおい説明するよ」 肩を竦めて軽く流し、「それより」と李洵を一瞥する。 「“あちら”の首尾は?」 「お前の言った通りに全て手配済みだ。後のことは白暘殿に頼んでいるから問題なかろう」 そこで無名は一瞬止まり、 「―――ああ、智白暘のことか」 「こら、呼び捨てにするな」 得心がいったように言うのを李洵は渋面で嗜める。 「いいじゃないか。どうせ互いに知らぬ者同士だ」 「紅川郡出身の先輩だぞ」 「関係ないさ。俺はそもそも紅川の出じゃないし、私塾も違う」 「礼の話をしているんだ」 「本人のいないところで尽くす礼に意味あるか?」 はあと李洵は深く溜息をついた。この男に口で勝てた試しがない。この傍若無人で、ついでに品行不良なところさえどうにかなれば、言うことはないのだが。 一方無名はといえば、 「智白暘といえばなかなかの切れ者という評判だし、心配はなさそうだな」 などとブツブツ呟いている。 「ところで、あれはどういう意味だ」 「あれ?」 「“如艶蒜”だよ」 ああ、と思い出したように無名は手を叩いた。如艶蒜―――正式には石蒜という、血の如く緋い花である。またの名を曼珠沙華、彼岸花、あるいは灯篭花などとも言う。呼び方は様々あるが、世間ではもっぱら如艶蒜と呼ばれていた。 李洵は、兵の移動と造舟とは別に、堯侯からの貢物と称して胡侯に金銀財宝を贈ってほしいと無名から依頼を受けていた。その意図も不明だが、中でも一際異様だったのは、品目に如艶蒜を加え、書簡の文末に『日必是落入暗』という一言を入れるという指示だった。 「張斯の筆跡を真似ることは難しくはないにしても、いささか妙な要望だ」 李洵の問いに、無名は悪戯を企む子供のような含み笑いをする。 「それもいずれ分かるよ」 相変わらず種明かしをしようとしない相手に、李洵は長嘆息する。全くやってられん、という台詞が表情に如実に現われている。 「まあ果報は寝て待て、てね」 無名は片手をヒラヒラ振りながら幕の入り口へ踵を返した。陣中に戻るのかと気づいた李洵は、その背へ告げた。 「ああそういえば、お前の名は卒名籍から外させてもらったゆえ、あしからず」 その言葉に去りかけた足がピタリと止まる。 「はぁっ!?」 先ほどの飄々ぶりとは一転、勢いよく李洵を振り返って詰め寄る。 「おいおい、どういうことだよ」 「どうもこうも、そのままの意味だが?」 「なに勝手なことしてくれんだ。今すぐ戻せ」 「あいにく再編成は済んでしまったから、戻せる場所はないぞ」 「この野郎……」 口惜しげに唸る無名に、李洵は会心の笑顔を浮かべて「諦めろ」と諭す。先ほどの意趣返しができたようで溜飲がさがった。 「今までの働いてきた分の報酬どうしてくれんだよ」 募兵として兵役に加わっていた以上、当然これまでの奉仕に対する代価がある。だが、報酬を貰う前に除名されてしまえばその分がぱあになってしまう。そもそもが金目当てではないにしろ、ただ働きをする気は毛頭無かった。無名とて食い扶持がなければ生きていけない。 「殿に泣きついてみることだな」 涼やかな声でしれっと答える同窓の友人を、無名は恨みがましく睨めつける。さてはそれが狙いか……と忌々しげに呟いた。どうせ泣きつけば、それなりの条件を要求されるに決まっている。 「とりあえず除名ついでに一幕用意させたから、当面はそちらを使うといい」 「くっそ」 無名は苦々しい表情を浮かべ、なおも文句を言い募ろうとしたが、不意にぴくりと何かに反応して口を噤んだ。 そして怪訝な顔をした李洵へ拱手の姿勢をとるや、やたら声高に言った。 「それでは李令君、自分はこれにて」 「は? え? あ、ああ……」 唐突な豹変に戸惑い、李洵は思わず目を瞬いた。誰か来たのかと思って入り口に視線を巡らせど人影はない。なのに急に李洵の役職である尚書令に因んだ通称を口にしたりして、どうしたというのだろう。 疑問に思いつつも、無名の強い目線に有無を封じられ、とりあえず曖昧に頷いておく。 それを確認し、無名はひとつ礼を取るとサッと裾を翻して駆け去った。 李洵は怪訝に眉を顰めその背を見送る。無名のとった行動の意味が分からず呆けていたが、謎は程なくして解けた。 「鎮文殿」 「うわ!?」 いきなり横合いから声がかかって、李洵は思わず驚きの悲鳴を放った。 慌てて振り返れば、いつの間にそこに現れたのか、智箋が佇んでいた。 (冲淳とは別の意味で神出鬼没な男だ……) 激しく動悸する胸を抑えながら、こっそりとそう胸中に漏らす。 智箋という男は別段外見に問題があるわけではないのだが、醸しだす雰囲気のせいなのかどうにもいまいち影が薄い。というより、視界に入っているときはやたら存在感を放つのに、一旦視界から外れてしまうと途端にその存在感が希薄になる。いっそ細作にでもなれそうだ。 だから智箋が近くに寄って来ても、なかなか気づかないことが多い。時折わざと気配を消してるのではないかと疑うことすらある。そのせいで、いきなり振って湧いたかのような印象になるのだ。かなり心臓に悪い。 「は、白暘殿ですか……驚かさないで下さいよ」 引き攣った表情でそれだけ言えば、智箋はもうそんな反応には慣れたのか、至極淡々と受け流した。 「すみませんね―――ところで今の者は?」 言って、智箋はつい今無名が去って行った方向へついと顔を向けた。どうやらこちらに来ている途中で、今の遣り取りの一部を目撃していたらしい。 李洵は内心どきりとしながらも、持ち前の作り笑いで繕う。 「ああ、斥候隊の諸事を報告してきた者です」 「こんなところで、しかも鎮文殿だけにですか?」 「念のため、堯軍の様子におかしなところや特に気がついたところがなかったか、個人的に訊いていたのですよ。人目のある場所では敵方の 「それで、何か分かったことは?」 「いえ、特には」 「然様ですか」 冷や汗交じりの苦しい返答に、智箋はつまらなそうに鼻を鳴らす。李洵の言葉を信じたのか、それとも勘繰っているのかいまいち謎である。 どうでもよさげに智箋は再び李洵に視線を戻すと、再び口を開いた。 「で、説明していただきましょうか」 「は?」 李洵は目を丸くする。智箋は眼光を鋭くした。 「とぼけないでください。今回の件ですよ」 裾を払って、年のさほど変わらない同僚に詰め寄る。 風が吹き、二人の袍が大きく浚われた。 「それは、どのことでしょう」 乱れた袖口を摘んで身に寄せながら、李洵は小首を傾げ、不思議そうな声音を出す。 「貴殿と殿が、私の知らぬところで何をしていたのか―――よもや気づかぬ私とでもお思いか」 静かだが、確かな声調で智箋は押し迫る。李洵はそれでも断固とした態度で以って対した。 「申し訳ないが、仰っている意味が分かりません」 「隠しだてなさるお心算か。此度の策、あれが殿の考えられたものではないことぐらい私にも分かります。私に何の相談もなしというのも妙なこと。一体お二人で何を隠しておられる」 「さて……私には何のことやら」 困ったように首を傾げる。その態度で、李洵が知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりなのは明白だった。 智箋も李洵の頑なな性は知っている。彼が言わぬと決めたのであれば、どれだけ問い詰めてみたところで決して口を割らぬだろう。だから智箋もそれ以上追究することはやめた。今ここでしつこく押し問答していても埒が明かない。 だが智箋にしてみれば腑に落ちぬことは腑に落ちぬ。そして理に適わぬ隠し立てを嫌う男でもあった。 智箋は数拍李洵の顔をじっと睨み据えたあと、一時休戦を宣言するように両の瞼を下した。 「まあ、いいでしょう―――今は」 今は、をことさら強調して言う。 「ですが全てが終った後には、必ず聞かせて頂きますよ。よろしいですな」 李洵の胸元に指を突きつけ、半眼でそれだけを言い残してから、彼は憤然と歩み去っていった。 その背が視界より消えるのを確認して、李洵はようやくホッと胸を撫で下ろしつつも、内心で汗をかく。 智箋が遅かれ早かれ疑問を持つのは予想していたことだ。さすがに彼相手に下手な嘘は通じない。本来ならば色々策を講じておくべきであったが、状況が状況だけに諸事に忙殺されて言い訳を練っている暇がなかった。 これは光陵に帰ってからが大変そうだ―――と早くもその情景を想像し、李洵は憂鬱気な嘆息を漏らしたのだった。 |