―――というようなやりとりを思い返しつつ、李洵は遠い目になった。

「白暘殿への言い訳を考えるのに頭が痛い」
「ざまあみろ」

 心底憂鬱そうな李洵へ無名は先程の仕返しとばかりに揶揄した。身体を起こし続けているのは辛いらしく、横になったままだが。
 「ほとんどお前のせいなんだがな」と睨めば、「そのおかげで助かったんだろ」と飄々と返された。

「尤も、下手に誤魔化して不信感が芽生えそうなら話せばいいさ。無理に隠し立てするほどでもない。全てが終わった後のところまでは俺も拘らないよ」

 智箋の功績を思えば、彼には十分知る権利がある。
 その青白い顔色を見下ろし、李洵はふと前から抱えていた疑問を口にした。

「お前、どうして我らに手を貸す気になったのだ」

 李洵が知る刑哿という男は、争い事に関しては中立を保ち、一方に肩入れする性格ではなかった。
 仮に戯孟の器を認めたのだとしても、傭兵ならば正式な主従関係ではないし、必要以上に味方する義理もないはずだ。にも関わらず多少の無茶も顧みずに李洵たちに助力している。
 無名は天井を見上げたまま、しばらく黙り込んでから、口を開いた。

「鎮文がいたからかな」

 再会して以来、無名は李洵を昔のように呼び捨てにはしなかった。それが、今は敬称をつけない。旧友としての会話という心なのだろう。

「世の士大夫の憧れと尊敬を一身に集めているあんたが惚れ込んだ相手なら、昔の誼で少しくらいいいかと思って」

 戯れのような答えを、持ち上げられた側である李洵はむしろ呆れ顔で見返した。

「それだけではあるまい」
「さすがに誤魔化されてはくれないか」

 嘘ではないんだけどな、と笑いながら無名は目を瞑る。

「あとはまあ、個人的な興味みたいなもん」

 そう告げる脳裏に、ある情景が蘇る。
 あれは確か、三つ目の城を落とした時のことだった。
 先を目指し行軍する慶軍は、大火に見舞われる村に遭遇した。敗走する堯兵が後からくる敵に兵糧を補充させまいとして家々を打ち壊し火を放ったのだった。もちろん、そこに暮らす村人など顧みずに。人道としては最低であるが、戦術としては極めて合理的であり、しばしばこうしたことは行われる。
 戯孟としては村を無視して通り過ぎることもできたはずだ。食糧が手に入らなければ用はないのだから。
 ところが予想に反し、彼は俄かに陣頭へ至り、前軍の騎兵歩兵を消火活動と救助活動に駆り立てた。そして自らも馬を下り、熱を受けやすい甲冑を脱ぎ捨てるや、騒ぎに乗じた暗殺を警戒して護衛を引き連れつつ、人命救助に奔走した。瓦礫の下から老人を引き出し、泣き続ける幼子を抱え上げ、全身汗と煤だらけになりながら、くまなく指示を飛ばす。村にはいたるところに、火付けの際に村人と争って重傷を負った堯兵が倒れていたが、戯孟は村人だけでなく彼らの救助も厳命した。

「全てを詳らかにした上で村の者に処断させる。それまでは一人として差別せず助けよ」

 髷も乱れ、顔を煤煙に真っ黒にして放つその声はどこまでも本気だった。
 たまたま前軍側に属していた無名も、救助活動組としてそこにおり、死傷者を手分けして運びながら、その光景を目にしていた。
 戯孟はその言を違えることなく、鎮火が済み負傷者の処置を終えた頃、同じく手当てされた堯兵らを並ばせ、村人に処断を尋ねた。もちろん満場一致で死刑だった。「八つ裂きだ」「嬲り殺してやる」「苦しみの末に死ね」そう村人が口々に罵倒を浴びせる中、戯孟は配下に命じ、騒ぐ彼らの目の前で堯兵の雁首を一刀の下に落とさせた。
 あっさり斬首で終わらせた戯孟に、村人から非難の眼差しが注がれた。しかし戯孟は馬上から一喝した。

「こやつらとて上から命じられたにすぎん。たとえその心、その行いに悪逆非道があったとしても、組織の一員として命令に忠実であるのは正しきことだ」

 村人達はいずれも納得のいかぬ顔であったが、救われた手前、大っぴらに不満を言う者はなかった。形はどうであれ仇に死を与えたのだからそれでよいとする向きもあった。
 一連の出来事を隊伍の列からぼんやりと眺めていた無名は、不思議なものだと思った。
 堯兵に対し何より憤っていたのは他ならぬ戯孟自身であろうに。救助に東奔西走する間、その顔はずっと怒りに満ちていた。今も馬上にあって、冷酷かつ冷静に村人を諭しているが、背には揺らめく憤怒が見える。義憤とも違う。ただただ強い激情。
 だが戯孟はそれを抑え込み、ひた隠し、淡々と事を解決に進めている。
 無名が戯孟という人物に興味を抱いたのはこの時からだった。
 その時の記憶と所感を述べると、李洵もまた当時を思い起こし顎を撫でた。

「無論、人心掌握の策としてあえてそのように振る舞うこともあるが、あの時は確かに少し違ったな。殿は時折、損得抜きに感情で動かれることがある。しかし、それはお前が肩入れする理由にはなるまい」
「え、まだ言う?」
「私を見くびってもらっては困る。お前があの村に特別な思い入れがあり、殿の行いに義を感じたというのなら別だが」

 ごもっとも、と無名は舌を巻いた。李洵の指摘したとおり、決定的なきっかけがあるにはあるが―――
 唇に指を当て、旧き学友の顔をニヤリと見上げた。

「それは秘密」




 釈然としない面持ちで出ていく李洵を目で追いながら、無名は先程李洵からされた質問を胸中で繰り返す。
 無名の心を動かしたもの。それはかの村の出来事があった同じ日の夜にあった。
 火消しや怪我人の手当て等に時間を費やしてしまった慶軍は、行軍を一旦止めそこで一夜を明かすことにした。
 夜が更けた頃、無名は陣をこっそり抜け出した。村外れの窪地に流れる川で体の汚れを落とすためだ。古馴染みの医者から、体調を良好に保つために極力身を清潔にするよう言われていた。とはいえ、冷たい水に浸かれば風邪(ふうじゃ)に憑かれかねないので、せいぜい濡らした手ぬぐいで身体を拭う程度だ。本当は衣も洗いたかったが、服の汚れが落ちていると目立つため、肌着のみを洗濯した。
 強く水気を絞った後、ある程度まで自然乾燥させてから身に着け、戻ろうとした時だった。ふと坂上の道沿いに人の気配を感じ、咄嗟に草陰に身を隠した。
 漏れ聞こえてきた声で、それが戯孟と李洵だと判り、少々ドキッとした。

「どうしてまた、この村にお留りになろうと?」

 李洵はさして不思議でもなさそうながら、そう尋ねた。端から答えなど分かっていそうな声音だったが、戯孟は律義に答えた。

「人道的に、というのは詭弁か。たかが小さな村一つ、別段焼け滅びようとも構わなかったのだ。むしろ速さを思うならこのようなところで道草を食っている場合ではないしな」
「そう思われるならば何故」
「自分でも分からんのだ」

 と、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「気づけばそうしていた。特に理由はない」

 それから少し声を潜めて「すまぬな」と謝った。

「何をおっしゃいます」
「本来なら増やすべき兵糧から、逆に無理やり捻出させてしまった」

 戯孟は蓄えを全て失った村に、当面の食料を分け与えたのであった。

「儂の我が儘で、お主には無用な負担をかけた」

 李洵は何を今更とばかりに嘆息する。

「もう慣れましたよ。殿の無茶振りは今に始まったことではないですし」
「む……苦労をかける」

 やや気まずそうに戯孟はそしらぬ方へ視線を逸らす。

「お気になされませぬよう。私は殿の無理難題を現にするためにいるのですから」
「儂は臣下に恵まれたな」
「殿の人望の為せるわざです」

 戯孟は面映ゆそうに顎をしごいている。

「儂は孫胥の奴ほど仁徳に優れているとも思えんが。朝廷では梟雄よ奸臣よと忌み嫌われておるし」

 李洵は含み笑いをした。

「喬侯など善の皮を被った狼ですよ。狩場の鹿しか目に入っていない。天下の平定を行う傍ら、腐敗した韓の柱を支え続ける殿には到底及びません。口さがない者達の妄言など捨て置けばよろしい。狭き世にのみ生きる彼らには、殿の見ている景色は見えますまい」
「お主、なかなか言うようになったな」

 若干ぎょっとした風に戯孟は頬を引きつらせた。その口さがない連中からの崇敬を集めているのは他ならぬ李洵自身であるというのに。
 しかし当の本人は極めて億劫そうだった。

「あの者達が見ているのは所詮、私の背後にある『清流派の名門李家』です。偶像を持てはやしているに過ぎませぬ。私自身の本質ではございません」

 それだけではないと思うがのう、と戯孟は再び顎髭を撫でつける。

「殿の本質もまた外からでは測りかねるものでしょう。私とて殿のご心中を全て察することはかないません。ですが、そのなさることには意味があるのだと思っております」

 今回の件も、と付け加える。

「ですから殿はご自身が信じ、為すべきと思われることを為されるだけでよいのです。それだけで臣はついて参ります。私どもは殿を支え輔けるためにおるのですから」

 穏やかに諭され、主たる男も少し安堵した調子で「然様か」と応じた。

「お主はいつも儂の欲しい言葉をくれるな」

 その声の響きには、先ほどまでちらついていた焔の揺らぎはなりを潜めていた。
 「さて、夜風に当たって息抜きもできたことだし、戻るか」「御意」というやりとりとともに気配は遠ざかる。しかし無名はしばらくじっと動かずに川の煌めきを見下ろしていた。




 あの時感じたことを、無名は李洵に言うつもりはなかった。図らずも盗み聞きしていたのが気まずいということもあるが、何より李洵の心に戯孟への不信の種を植えかねないことを恐れた。
 今はいい。しかしその種がいつか、何かで深い対立をすることになった時に芽吹かないとも限らない。戯孟もまた李洵を心から信頼し、尊重している。何も不用意に不穏の種を蒔く必要はない。
 戯孟の奥底には「揺らぎ」がある。ともすれば破壊と破滅をもたらしかねない、危険な闇を孕んだ揺らぎ。それを知ることは、口ではああ言っても畢竟生粋の清流体質な李洵には毒となりかねない。
 しかし、無名の心を何より揺さぶったのは、他でもないその揺らぎだった。それこそが、普段は戒めている技と異能の力を使うほどにまで、無名を突き動かした。
 ここで終わらせるにはあまりに惜しい。彼らが見晴かす覇道の果てをもう少し見届けたい。それが吉と出るか凶と出るかは分からないとしても。
 牀台に仰臥したまま、無名は眠るように瞑目した。
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