「ええい、くそ。この事態をどうする気だ!」 峰絽関城内のある一室。その中を忙しなく歩き回りながら、干卷は焦りと憤りを綯い交ぜに怒鳴った。 それを陳雨は床に座したまま冷ややかに見つめる。 この時を以って尭軍はすでにその兵数400ほどとなっていた。 「こうなったのも、そもそもはお主の策のせいだぞ! なんとかしろ!」 明らかな八つ当たりの言い草に、陳雨の視線は更に冷めたものとなる。 己に何をする度胸もないくせに、状況が悪くなれば他を責める。しかも策の不始末を責めている相手へ、更に如何にかしろと策を求める。どうにも救いようのない男である。 「そうですね。今回は敵に一杯食わされました。私も少々彼らを甘く見すぎていたようです」 陳雨は床上に目線を落とし静かに言った。内容は殊勝だが、言う声音は淡白でひどく無感情である。あまりの冷やかさに、于卷の動きがギクリと止まった。我を失いうっかり獅子の尾を踏んでしまったかと、一気に熱が冷めたようにすうと顔色が青くなる。 赤くなったり青くなったり、あまりに分かりやすすぎる面相の変化に陳雨は心中で失笑しながら、 「かくなる上は篭城し、援軍を待つほかありません。幸い兵糧の貯蓄はまだかなりあります」 「援軍はどれぐらいで着くのだ」 「慶軍がこの地に着いてその日の内に早馬を出しましたから、早ければあと四日以内には」 「保つのか?」 「保たせるのです」 陳雨は双眸を鋭く細めた。 「ここは堅城です。しかもこの地形は、攻めてくる敵にはかなりの制約を強いられるでしょう。完全に防御に徹していれば、四日程度保たすことは可能です」 だが、と于卷はどもりながら口を開く。 「援軍が来るまでに慶軍がここまで攻め込んできたらどうする」 「いざとなれば後門から礼州へ逃げ、辨礼城で再起を図ればよろしい」 辨礼城というのは、峰絽関を抜けた最も近くに在する礼州郡県の城である。 陳雨は続ける。 「兵が多いからといって、すぐに負けるとは限りません。大軍の弱点は、兵の多さに頼って油断が生じるところです。逆に我々は少勢であるが故に、皆死に物狂いで戦いに臨む。上手く兵の士気を落とさず、敵の油断を突けば、勝機はあります」 その策については既に講じてあります―――と陳雨は言った。 于卷の室を辞した後、陳雨は己に与えられた部屋に戻り、壁際にある牀台の上へと腰掛けた。 膝に肘をつき、組んだ両手の上に額を乗せる。疲れたような重い溜息をついた。瞑目する眉間には、頭痛にでも耐えるかのように険しく深い皺が影を落としている。 しん、と静まり返る部屋の中で、陳雨はただ動かずに、そうしていた。 すると。 「軍師殿―――」 どこからともなく、声が低く響いた。 陳雨が微かに身じろぐ。顔を上げぬまま、一言呟いた。 「徐尗か」 名に反応するように、部屋の隅、一角の闇が動く。現れたのはひとりの男であった。痩せこけた蓬蓬垢面の風体。陰鬱な気を肩に背に負いながら、しかし眼光だけは鋭く強い。 昨夜無名と山林にて闘った、あの細作であった。 徐尗と呼ばれた男は部屋の隅その場で片膝をつく。その右目には今、帯状の木綿布のが無造作に巻かれており、白地に痛々しい赤が薄っすらと滲んでいる。 「軍師殿、まずはご無事で何よりでした」 伏頭して低く述べる。 「ほうほうの体、といったところだがな」 自嘲気味に笑い、陳雨は続けた。 「それで―――あの大火の時お前が姿を見せなかったこと、そしてその傷から察するに、何か掴んできたのだろう?」 「はい」 徐尗は感情を感じさせぬ声で答えた。 「此度のこと、裏にて動いていたのは、ひとりの慶兵にございます」 「何?」 そこではじめて陳雨の顔が上がった。暗中に控える徐尗を見る。 「その者は一体何者なんだ」 「存じませんが、随分と若い男のようでした。誰かの差し金で動いているのか、己の意思なのかは分かりません。ですが一慶兵として、戯孟のために動いていることは間違いありません。予想外に腕が立ち、不覚にもそのまま取り逃がしてしまいましたが……」 「お前がそれほどの傷を負うほどだからな」 徐尗は血の滲む包帯にわずかに触れ、 「お恥ずかしい限りでございます」 そっと、陳雨を見上げる。 「そうか……」 陳雨はぼんやりと中空を見つめ、独りごとのように小さく呟いた。 陳雨を翻弄し、堯軍をここまで追い詰めた男。おそらく戯孟に助言を与えたのも、またその男だろう。 陳雨は、見も知らぬその男を思い描いた。それは何故か、昨晩に見たあの若い兵卒の姿をしていた。脳裏にあの瞳が刻まれている。 己の内の中心の更に奥深くに、静かな炎が灯るのを感じた。 |