夜更けて。山腹に位置する慶軍陣営、その一郭にある天幕で、戯孟は(しゃく)を仰いでいた。
 側には李洵がいる。2人は李洵の携えてきた酒を互いに酌しながら、静かに語り合っていた。智箋はいない。これはあくまで私事であり、軍事戦略について論じ合う場ではない。大分疲労のたまっているであろう智箋を呼んで煩わせることはなかろうと、李洵が言ったためであった。
 しかしそれ以外にも、あえて呼べなかった理由がもうひとつあったが、それは言わなくても戯孟には分かっていた。

「しかし、峰絽関陥落まであと僅かか……」

 戯孟は酒気の含んだ吐息を、ほっとついた。
 牀台に腰掛ける戯孟から一段下がり、床の円座に座す李洵が、主の言葉に無言で応える。やや腰を浮かせ、空になった主の杯へ酒精を注ぎ込んだ。
 爵に並々と注がれた酒の水面の揺らめきに、燭台の明かりがきらめく。
 何ともなしに杯を揺らしてそれをぼんやりと眺め、戯孟は再び嘆息した。

「やっとここまで来たな」
「遠征も、まだようやく序盤を終えたというところでしょうか」

 豪快に飲む戯孟とは対照的に、李洵は慎ましく青銅の酒杯を嘗めながら静かに同調した。
 戯孟率いる慶軍総隊のほかに、戯孟により委任を受けた武将たちの率いる部隊も、着実に堯の領地を攻略してきていた。このまま打ち合わせた通りに行軍し続ければ、上手い具合に堯の府城の置かれている柳州を取り囲むような陣形が完成するだろう。
 戯孟は宙を仰ぎ、遠くを見つめるように目を眇めた。

「峰絽関を陥したのち、昂まった士気のまま礼州へなだれ込む。辧礼、小坪(しょうはい)曉駿(ぎょうしゅん)を制し、まずは千心。それから賀陽へと攻め込み、司馬景(しばけい)樂廱(がくゆう)の隊と合流する。それから序州(じょしゅう)を固め、長江を上って一気に寿陽へ間を詰める」

 どこか夢見心地に一人ごちるのを、李洵は静かに聞いていた。聞きながら、脳裏に思い描く。今並べられた地名を攻略し、少しずつ堯を追い詰めながら包囲していく慶軍。そして、戦場で堂々たる勝利を手に歓声を受ける戯孟の姿と、その隣に控える勇猛なる武将たち。
 そうして堯を陥した次は―――

「峰絽関を陥したら、ひとまず光陵に人を遣り、金湘江(きんしょうこう)沿岸の貯蓄庫から研州へ穀物を送らせよう」

 現実に引き戻されたかのように、戯孟は宙から目を下ろし再び杯を見つめた。李洵も同様に、頭の中から夢想を拭い去る。遠くのことを考えるのもいいが、今は目前のことにも目を向けねば。
 戯孟の言う意味は、不作のため貧困に窮する研州への援助であった。峰絽関陥落によって礼州との交流を制限されれば、それまで受けていた援助が不十分なものとなる。であるから代わりに国庫から支給しようと戯孟は提案しているのであった。現状、皇帝を要し臨時の都を有する慶領であるからこそ使える人心掌握の一手でもあった。

「確かお前が前々より行っていた灌漑と屯田の成果で、あの金湘江辺りは今年は大豊作であったのだろう。金湘江ならば研州にも近い。どうだろうか」
「よいかと思われます」
「光陵を発ってから、どれほど経つ?」

 そういえば、という感じで、戯孟は突然そんなことを訊いてきた。李洵は少しばかり逡巡したあと、

「大体……半年ほどになりますね」
「年内には……終わらぬだろうな」
「さすがにそれは難しいかと」

 今は秋口である。なんと言っても攻めているのは、怒涛の戦乱を勝ち抜いてきた一大勢力だ。そうそう容易くは獲れまい。

「やはり思いのほか時間がかかるな」
「仕方ありません。それだけ得るものも大きいということです」
「だがあまり時を掛けては、胡や祁に後ろを獲られかねん」

 戯孟は眉間を厳しくする。どうやらそれが心配であったらしい。確かに主が―――形式上は統一大国の将軍という立場であるが―――長いこと城を空しくするのはよくない。戯孟には領内だけでなく韓帝国の執務というものもあるのだ。実質上戯孟を中心に政が動いている以上、彼が長期間その席を空けることは、引いては国政の滞りに繋がりかねない。
 李洵は目を落として酒を飲みつつ、頷いた。

「歳の末には財政の決算や裁決を下さねばならぬ案件が山積みですしね。光都に残してきた伯舒殿達だけではさすがに手が回らぬでしょう。それに冬になれば食料、行路ともども障碍が生じます。その前に殿は一度都にお戻りになるべきかと」
「そう、そこでなんだが……」

 と、戯孟は椅子に座ったまま身を乗り出す。視線は李洵に向けたまま、上体を折るようにして声を押し殺す。

「その際には、もちろん尚書令であるお前も戻らねばならんことになる。というよりも、帝の秘書役であるお前がいなければ、制可を下せぬ案件があるからだということなんだが―――すると、都にいる儂等の変わりに遠征軍を率い、指揮する者が必要となってくる」
「李鳳将軍にお任せするがよろしいでしょう」
「それはそうなんだが、奴を補佐する参謀官を誰にするかという」
劉立竺(りゅうりつじく)殿などよろしいのでは。確か一昨年の喬との戦で巧みな奇計を用い、あの喬の名だたる謀官たちを翻弄したという功績がございます。慎重派というよりは行け行け押せ押せって感じでしかもちょっとヤラシイ戦法を使う彼なら、案外遠征に向いているかもしれませんよ」
「いや、それは儂も考えているんだが、そうではなく」
「それなら楊子廉(ようしれん)殿とか。彼もなかなか侮れませんよねぇ。あ、ちなみに私はお断り申し上げます」
「いや、だからそうじゃない―――って、え?」

 そこではたと戯孟が止まる。李洵ではない声の存在にやっと気づく。実は先程から李洵は全く声を発していないのだが、戯孟は別の方を見ていたがために気づくのに遅れた。そんな戯孟の肩越しに、李洵は半ば呆れるような眼差しを向けていた。
 慌てて戯孟は声が聞こえてきていた方、つまり背後を振り返った。

―――ち」
「“無名”です。閣下と令君におかれましては今宵もご機嫌麗しく」

 思わず字を言いかけた李洵を遮り、無名はにこやかに告げた。

「無名か」

 あまりにもの驚きにさしもの戯孟も開いた口が塞がらない。ようよう声を発したときは、何やら妙にギグシャクとした発音になってしまった。
 無名は相変わらずの戎服の姿で、何故か片手には盃を持ち、戯孟の真後ろに立っていた。

「お前、一体何処から……」
「ちゃんと表から入りましたよ」

 おどけた風に、垂れ幕の下がった入り口を指差す無名。しかし戯孟は入り口側を向いているのにも拘らず、無名が入ってきたことには全く気付かなかった。あまつさえ背後に立たれたことにも。そんな気配など微塵も感じていない。李洵も同様だ。
 全くこの男は油断も隙もない。
 戯孟はと釈然としない思いを抱きながらも、この男ならばそれもまた然りか、と心中で漏らし、改めて無名を見上げた。

「まあよい。して、お前は何故ここに?」
「いえね、鎮文殿にお呼ばれしたのもので。ほら、こうして盃も持って」

 と言って粗末な土器(かわらけ)を持った片手を掲げ、もう一方で指して示して見せた。

「何? 儂はそんなこと一言も―――
「いえ、殿を驚かそうと思ってあえて黙っていたのですが……申し訳ありません」

 弁解を求めて視線を投げる戯孟に、李洵は呆れのあまり脱力して項垂れながら謝罪した。
 李洵のさり気なく茶目を利かせた、ささやかながらの心遣いはあえなく水泡に帰した。

「おお、そうなのか」

 戯孟も特に怒るとか言うよりも、驚きのほうが勝っているのか、いまいちよく分かっていない様子でとりあえずそう言っておいた。
 一方混乱の原因たる闖入者は、悠々と李洵の左隣に座り込むと何の断りもなく盃に酒を注ぎこむ。

「もう少しまともな入室の仕方があるだろう」

 小声で恨みがましく苦言を漏らす友人へ、無名は人を食ったような笑みを浮かべ、あからさまにおどけてみせた。

「相変わらずお堅いな鎮文殿は。あまり眉間に皺寄せてると禿げるぞ」
「……」
「っと、やばやば」

 俄かに黙り込んだ李洵の様子に無名は慌てて首を竦める。
 氷よりも冷ややかな眼差しと雰囲気が漂う。少し冗談が過ぎたようだ。

(昔から鎮文は怒ると怖いんだよな)

 そろそろふざけるのを止めにしなければ、この先もっと恐ろしいことになりそうだ。
 無名は今更ながら居住まいを正す。
 そして此処に李洵の豹変ぶりに内心ちょっと怯える男がもう一人。何とか話題を変え場を和まそうと、戯孟は何事かを言いかけ、ふと無名の顔に視線を止めた。

「無名。お前少し顔色が優れぬように見えるが」

 と言えば、無名はにこやかに笑って、

「いいえ? きっと灯りのせいでしょう」

 と言った。しかしその言を受けた李洵は少し気がかりそうに隣を窺う。
 ふむ、そうか?と戯孟は小首を傾げ、しかし特に取り沙汰するほどでもないと判断したのか、すぐに別の話題を口にする。

「そういえば無名。先程のは一体何処からお前だったのだ?」
「『李鳳殿にお任せするがよろしいでしょう』あたりからですね」

 悪びれもせずけろりとした様の無名を、李洵は渋い顔をして横見た。

「お前は随分と我が陣営に詳しいな」

 無名は己の耳を指し示し、

「なぁに。情報っていうのは集まるところには集まるものさ」

 ニヤニヤしながら言う。無名が主に情報収集に使う場所というのは、城下町の酒場や市。色んな場所から来る、色んな情報網を持った人間が集うところには、それだけ色々な噂話が転がっている。
 実は、と続ける。

「軍中に知り合いもいるしな」

 と、戯孟には聞こえない程度に小さく呟く。
 隣にいる李洵はそれを耳にし、唇を歪めた。
 無名は長いこと各地を転転としながら放浪生活を続けているが、どうもその際にあちらこちらで英俊たちとも裏で手を結んでいるらしい。
 おそらく他人の情報網から情報を得るだけではなく、そういった経緯で独自の情報網も持っているのだろうし、今を時めく英俊の幾人かとも顔馴染なのであろう。自軍の者達から内部事情が漏れていると考えれば、こういうところ抜かりはないものだと呆れを越して感心してしまう。

「あと妓楼も、かなりの穴場」

 思い出したように付け加えられた無名の言葉に、それまでなおざりに爵を弄んでいた戯孟が一転好奇心を剥き出しにして勢いよく身を乗り出す。

「ほうほう、それはまた」
「殿。情報収集にかこつけて花街へ繰り出そうなんて考えておられませんよね」

 爛々と目を輝かせ話を聞こうとした戯孟を、李洵の冷たい一瞥が一刀両断する。戯孟はチッと恨めしそうに李洵を睨めつけ、身を引いた。まるで子供みたいだな、と無名はその光景を眺める。と、そちらへも矛先が向かった。

「無名。お前も余計なことを言うでない」
「へいへい」

 無名は肩を竦めて中空を仰ぐ。反省の色が更々ないのは明らかだ。
 その様子を傍から眺め、今度は戯孟がまじまじと無名を見つめた。視線に気付いた無名が顔を下げ、怪訝に首を傾げる。

「? どうかなされましたか」
「いや―――

 戯孟はやや口篭り、

「これがあの―――風をも操った者と同一人物かと思うと、何やら不思議な心地でな」
「別に操ったわけじゃありませんよ」

 大仰な表現に、無名は眉を僅かに寄せて目を眇め、苦笑じみた声音を放つ。
 返ってきた否定に、そうそれだ、と戯孟は杯を持つ手で無名を指す。

「お前、何故あそこで西風が吹くと知っておったのだ?」
「ああ、そのことですか」

 無名は自杯を傾け、一口嘗めてから、あっさり種を明かした。

「長いことあちらこちらを旅していますと、色々なことを()るものでしてね。例えば土地柄によっては時折、ある時期に一時だけ普段の風向きとは異なる強風が吹く、ということがあるとか。遥か遠く―――砂漠の地より吹く風がね」

 東の大陸には数々の砂漠が点在している。特に西―――西域と呼ばれるところには巨大な砂漠地帯が広がっていた。
 そこより時折、内陸に向かって―――西から東へ、一陣の風が吹くことがある。定時期の気流の変化―――条風(きせつふう)である。
 それに、と無名は続ける。

「あの伝説が鍵になりました」
「伝説?」

 そういえば―――と戯孟は記憶を手繰る。
 確か前に無名が峰絽関の伝承の話をしたことがあった。その伝承の中に、事実が隠されていると。結局その時は何のことなのか聞きそびれてしまって、そのままになっていたが。

「物語に出てくる神々とは皆、ここの土地柄に当ててそう呼んだものです。物語の中で仙女を助けたことのなっている火師と風師―――火師の起こした炎が、風師の起こした風により山へ広がったという部分ですが」

 無名は笑う。

「ここで言う風というのが恐らくあの条風でしょう。実際に過去に起きた山火事の話なんですよ。この近辺にかつて山火が出て、たまたまその時期に吹いた大風がそれを助長し、大災害となった。その出来事を後世への警鐘とするために、地元の民が物語に作り変え、子ども等に語り聞かせてきた―――と、こういった次第で。ちなみに地元の者にも確認して裏付けは取れてます」

 ここで言う地元の者とは、もちろんあの堯の斥候顔欣のことである。
 彼は果たして生き残れただろうか、と無名は目を伏せる。互いに命の獲り合いをする兵士。謝罪はしないが、無事は祈りたい。

「成る程」

 戯孟はふうむ、と唸った。単なる伝説と思いきや、そのような裏があったとは。
 無名は、まあきっと大気の流れの関係なのでしょうがねなどとぼやいていた。
 二人が思い及ばなかったからといって、別に何も無名だけが特別読みが深いというわけではない。たまたま、伝説や伝承といったものは往々にして事実を元に脚色して作られているものだと、長い放浪で知っていただけだ。

「だが無名よ」
「はい?」

 無名は眸を、名を呼ばれた方へ向ける。
 戯孟は未だ渋い顔を浮かべていた。ぐいっと爵の中身を飲み干してから、低く問う。

「まだいまいちしっくりこないのだが。決定的な根拠と言うには、それはあまりにも弱くはないか?」
「最もでございます」

 然も有りなん―――無名は鷹揚と頷く。

「それに条風とは、吹く時をそうも正確に特定できるものなのか」
「いいえ。大体の場合、砂漠風の吹く時期は大まかなもので、細かくは一定しておりません」
「だがお前は誤ることなくそれを予期してみせた。何故だ」

 そこで無名は「うーん」と一旦迷うように目線を泳がせながらも、

「強いて言うと、『感じた』から?」
「感じた?」
「はい。ああ、これは来るなぁ、て」

 無名は空になった戯孟の杯に気付き、「おや、酒がもうございませんね」と言って、腰を浮かせた。
 飄々と酌をするその表情を戯孟はじっと探る。ふざけているわけではないらしい。

「それだけか?」
「ええ、それだけです」
「……さっぱり分からん」

 眉間を苦悶げに寄せ呻く。それが果たして確固たる根拠になりえるのか、ますますもって怪しい。
 李洵に補足を求めたが、諦めた風に首を振られた。
 だが無名はこの話題を打ち切るように、「それはまぁ置いておいて」と別の事柄を口にした。

「関城はいつ攻撃なさるかお決めになりましたか?」
「あ? ああ、そりゃ明日にでも攻城戦は開始するがな」

 出鼻を挫かれた気分を抱きつつ、戯孟は答える。言外に、何故その様な当たり前のことを、と言う。
 もうすでに峰絽関は陥落寸前。ここで弱った敵に隙を与えず一気に攻め落とすべきであることは、言葉にせずとも明らかだ。特に時が重大な要である戯孟たちには、この一刻たりとて無駄にはできない。
 だが無名は、戯孟の考えていることに真正面から対抗した。

「そうでしょうね―――ですが、攻撃はしばらくお留まりを」
「何?」

 戯孟はあからさまに眉を顰めた。だが態勢は無意識に眼前の男の考えに耳を傾ける姿勢となっている。いつのまにか無名の言う意見を、自然に重くみなすようになっていた。

「どういうわけだ」

 声を僅かに落として問えば、

「あちらには依然、陳雨がおります。彼も音に聞こえた鬼謀の士。恐らくまだ打つ手を考えているはずです。なれば、ここで勝利を納めたとしても後々厄介な存在となりましょう。ですから今、この内に排除しておきます」
「殺すのか?」
「いいえ」

 無名は目を伏せ首を振る。

「陳雨は若手ながら、名士や隠逸の間で非常に評価が好い。その価値を顧みずみだりに殺しなどすれば、閣下に対する名声を落とすだけです。そうなれば有能な人材を募る上で弊害となる」
「ではどうやって除くのだ」
「簡単なことです。陳雨は胡の者。ですから、堯と胡を離反させてしまえばよろしい」
(こう)()つわけか」
「左様でございます」

 無名は深く頷く。
 『交を伐つ』とは敵国とその同盟国を様々な手段を用いて、互いに離反させること。即ち離間の計である。

「実は既に手は打ってあるのです」

 無名はにやりと唇を吊り上げ、李洵と目配せし合う。
 そうなのか?、と戯孟が2人に向かって身を乗り出せば、ええ、と無名は自信有り気に答える。
 戯孟は好奇心を隠せぬ口調で、

「何をしたのだ」
「まあ、ゆっくり待っていて下さい。―――いずれ、分かりますよ」

 無名はまた意味深に微笑し、悠然と構えてそう言った。


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