奇妙なことが起こった。いや、起こっているというべきか。
 城門の真上の垣に立ち表を展望しながら、陳雨は瞳に戸惑いと困惑を宿らせていた。
 あの日一夜が明けて、てっきり慶軍が攻めて来ると思いきや、当の慶軍は陣を展開したままで動こうとしなかった。それどころか、全く攻めて来る様子がない。大軍を拡げて、ただそこにいるだけである。
 この状態からすでに、四日が経とうとしていた。

 ―――何故。

 どういうことだ、と心中で何度目かになる問いを陳雨は繰り返した。あの日以来、慶軍は何の反応も見せてこない。まるでそちらの方が篭城しているかのように、じっと沈黙を保っている。
 まさか長期戦に持ち込み、多勢の圧力を掛けてこちらの士気を削ごうと魂胆ではないだろう。
 はっきり言ってしまえばそんな作戦は今更である。于卷にはああ言ったが、実際あの時は数日も保たせられるか怪しいものだった。
 それだけあの嵐で被った害は大きく、兵の士気はかなり落ちていた。あれだけの自然の猛威を見せ付けられたのだから、当然といえば当然であろう。
 しかしそれでも、陳雨は完全には諦めなかった。攻城戦に備え、従来の迎撃用兵器に改良を加え、攻撃力や殺傷力を上げた。また女牆などを含めた守御器も、能率を上げるために様々な工夫を凝らした。
 これに元来の天然の要塞としての堅固さが要素として加われば、ある程度の可能性は期待できると陳雨は踏み、決戦に臨もうとした。
 が、意気込む陳雨の予想に反して、慶軍はぱたりと攻撃の手を止めた。これにはさすがの陳雨も困った。
 一体何を企んでいるのか、さっぱり判らない。

(これでは、前と立場が逆だな)

 皮肉なことに苦笑が漏れた。
 だが、この状況はこちらとしても好都合である。下手に兵士達を減らさずに済む。
 半分はあの騒動で失われたが、それでも兵糧の蓄えは充分にあるし、食料という点で先に音をあげるのは恐らく向こうの方だろう。どのような策略を用意してあるのかは想像もつかないが、どうやら敵がしばらく攻めて来るつもりがないことは確かだった。

(早ければ、もうすぐにでも援軍が臨坡口の刄頭城(じんとうじょう)に到着する。そうすればこちらと連絡を取り、敵をこちらにひきつけている間に山を迂回し、気付かれぬよう背後へ回ってもらう。そこから一気に挟み撃ちに持っていく)

 これが陳雨の考えた作戦であった。
 臨坡口は、ここより東側に位置する郡である。峰絽関を取り囲んで、波のように畝る山脈がある。丁度その、緩やかな曲線を描く刃形の先端。そこにあった。刄頭城はその臨坡口に在する県城のひとつだ。そこより山並みにそって南下し、慶の背を突き、前後で挟撃する形を作ろうというのであった。
 ところが陳雨の思惑とは裏腹に、水面下では別の動きが、既に事を起こし始めていた。




 陳雨のいる堯領から遥か南東に、胡の中心地洛臺(らくたい)はある。
 その政務を行う宮殿ではいま、遠くより訪れた使節団と運ばれてきた荷の到着に、にぎわっていた。

「遠路遥々この洛臺までよくぞ参られた。心より歓迎する」

 大広間の最奥に座す若き胡侯呂伯は、目前に並べられた絢爛豪華な宝物と使者達を見やり、鷹揚に声を掛けた。
 使者も深々と頭を下げ、口上をする。

「は。有り難きお言葉にございます。我らが主も、今後とも呂胡侯との末長き交友と、ますますのご繁栄を願っておられます」

 それに呂伯は機嫌よく頷き、

「張堯侯は、かつて亡き父が同じ志のもと共に戦った盟友。私も色々と仰ぐべきところの多いお方だ。若輩者ながら、旧交を温め、幇助し合うことに異を唱えるはずもない」
「勿体のうございます。―――つきましては我が主より呂胡侯へ、盟友の証として、心ばかりの品をお贈り致したく存じます。どうぞお納めくださいませ」
「それはそれは、お気遣いに御礼申し上げる」

 呂伯は頷き返し、そして段の下に控えている幕僚に目配せをした。真白な鬚を持つ老臣は、目語を受けてひとつ頷くと、先程から両手に持っていた木簡を拡げた。

「目録」

 前置きをし、簡に記された品目を順に読み上げる。金銀に始まり、玉や翡翠、錦織の反物、装飾具、磁器などの高価なものが続く。
 が、途中まで流れるように読み上げていた声が、ある部分でふと止まった。
 疑問に思った呂伯が老臣を見やれば、彼は木簡に目を落としたまま困惑気味に目を瞬いていた。それからちらちらと呂伯の方を窺い、困惑気味な顔を浮かべる。どうやら読もうか読むまいか躊躇している様子だ。

「どうした。早く続きを読み上げよ」

 やや強い調子で呂伯が促すと、老臣は何度か唇を開閉させた。使者の前であり、また後に呂伯も改めて自ら目を通す目録であれば、一項目たりとも誤魔化しはできない。躊躇いがちに、震える声で言った。

「にょ、如艶蒜香……以上にございます」

 最後の名称を聞いた途端、呂伯の表情が俄かに強張った。一見してわかるほど、明らかな変化であった。

「殿……」

 側に控えていた家臣のひとりが物言いたげにそっと声を掛けてくるのに対し、呂伯は手をすっと出し、制した。分かっている、と無言で表す。だがその表情は引き攣ったまま、昏い。幕僚達は不安げな表情で見守っていた。
 一方使者はというと、突然の呂伯の変化と、それに伴い流れ始めた奇妙な雰囲気に疑問を抱きつつ、あえて気付かぬ振りをして次の動作に移る。

「これに我が主より胡侯へ書状をお預かりしております」

 言上して前へ進み、側に控える臣下に渡す。臣下が進み寄り差し出せば、呂伯は未だ硬い顔のまま、ああ、と低く応え、帛書を受け取る。
 少しの間見つめて後、ゆっくりとした動作で開いた。真白い絹地に黒墨が滲んでいる。流れ連なる文字を、同じように視線を流して読む。
 その目が最後の段に差し掛かかると、ぴたりと止まった。何かを凝視する呂伯の顔がみるみる紅くなる。手が小刻みに震え出し、そして突如、立ち上がって手にしていた文書を擲った。
 何を、と幕僚や使者が目を剥いた途端、その口から静かな怒気が零れ落ちる。

「そういうつもりか」

 言うや否や、腰に帯びた剣を抜き放ち、正面でうろたえる使者に向かい、打ち下ろそうとした。だが寸前で、並び立つ幕僚達が駆け寄り口々に叫ぶ。

「殿、なりませぬ!!」
「どうかお留まりを!!」

 必死に制止の声を上げ、使者を背に庇う形で呂伯の前に立ち塞がった。

「そこをどけ。そっ首を張斯に送り帰してくれる」
「ひぃっ!!」

 いつにない憤怒に顔を染め、烈火の如き気迫で呂伯が剣を振り上げれば、使者達は情けなく声を上げ逃げ腰になった。

「それはなりません、殿! どうかお鎮まりを!!」

 殺気を纏い抜き身の刃を突き付ける主に、老臣のひとりが拱手をし、緊迫した表情で声を張り上げた。

「陳雨殿の命を危険に晒すおつもりですか!?」

 その名に、呂伯はハッとして歯を強く噛み締めた。熱泥のように身体中を渦巻く激情を全力で押さえ込む。その苦労か、それとも興奮のあまりの熱か、こめかみに汗が滲んだ。
 ようやく荒ぶる炎が収まってきたのか、何度か深い呼吸を繰り返し、呂伯は震える喉の奥から低い声を絞り出した。

「……いいだろう。公嬰へ書簡を。張斯への返信はそれからだ」

 それから、努めて冷静な調子でこう言った。

「胡はこれより先、堯との一切の関係を断ち切る」

 堯からの使者とされる男は、青ざめた表情でそれを聞いていた。
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