五日が過ぎ、七日が来ても、峰絽関に援軍が来る気配は全くなかった。
 一週間が過ぎても、全く影形すら見えぬ事態に、陳雨は次第に焦りだした。

(伝令を発してから、遅くとも七日以内には着いてもおかしくないはず)

 苛立ちが募る。本来ならば援軍の要請が有り次第、直ちに張斯が手配する手筈になっていた。だが、その張斯から全く音沙汰がない。
 更に不気味なのは、七日も経つのに慶軍がぴくりとも動かないことであった。

(何を考えている?)

 ここまでくると、こうも静かなのが逆に恐ろしくなってくる。まるで何かを待っているような―――その様は眠る獅子のような不気味さを漂わせ、えも知れぬ不安を胸にさざめかせる。
 于卷はというと、慶軍が攻撃してこないことに疑問を感じつつも、単純に今の状態に安堵していた。これで援軍さえ来ればと毎日繰り返している。 
 張斯が峰絽関を見捨てたとは考えにくい。この峰絽関は堯にとっても失くすことができない要衝である。では、何か他に来られない理由があるのか。

(もしや……)

 その予想が的中したことを知ったのは、膠着状態が始まってから実に十日を数えた頃であった。
 突然の早馬が峰絽関に飛び込んできた。発信者は張斯。
 大慌てで于卷が応対に飛び出していくのに、陳雨もついて行く。
 緊急の事態なのは、伝令の表情を見れば明らかだった。伝令が携えてきた書状を受け取り、于卷が読む。瞬間、その強面が固まった。

「……『南に喬の進軍あり。勢众(せいぎん)苛烈にして霆撃留まるところを知らず。これを迎え撃つも、未だ後退するなし。援軍を遣わさんと欲せどこれ能わず』」

 読み上げる声が震えている。
 陳雨は心中で歯噛みする。やはり喬か、と。
 慶が喬と盟約を結んだのは知っていた。

(その手で来たか)

 喬は南から、そして慶は東から、堯に侵攻している。これは挟み撃ちを狙った同時攻撃だ。
 文面からすると、どうやら堯は苦戦しているらしい。それほどまでに、喬の猛攻が凄まじいのだろう。
 これでは援軍は望めそうにもない。たとえ喬軍を食い止められても受ける被害は甚大であろう。とてもではないがこちらに回せる手勢があるとは思えない。
 まさか慶軍はこれを待っていたのであろうか。いや、それはない。そうであれば、ここに留まっている理由はない。むしろさっさと陥として行軍し、喬と共に進撃したほうが得策に決まっている。では何だ。

(どうする)

 陳雨は思案した。これでは当初の計画は遂行できない。慶軍もいつ動くかも分からない。むしろ今のうちのここを棄てるしか選択肢は残されていないようにも思えた。

(否、かくなる上は)

 胡侯に軍を動かしてもらう。
 胡は先の内乱で荒れている。本来、ここで再び兵を動かすのは得策ではない。だが何も援軍でなくて良いのだ。功名ある将に少数精鋭の兵を率いらせ、主が留守の慶を背後からつついてもらうだけでいい。さすれば戯孟は軍を退かざるを得なくなる。
 ここで慶を潰すということは胡にとって今後重い意味合いを持つ。多少の無理を押しても、損より得るもののほうが大きい。肉を切らせて骨を絶つしかあるまい。
 陳雨は決断するや否や、己に与えられた室に戻り、大急ぎで書状を認めて早馬を出した。
 伝令はその日の内に出発し、(えき)から置を経て、胡の州府に入った。
 その三日後、再び峰絽関城に早馬が舞い込んだ。

(早いすぎる)

 いくらなんでも三日でここと洛臺を往復するのは、一日で千里を走ると謳われる汗血馬でもないかぎり不可能である。なれば陳雨の要請への返信ではなく、入れ違いに入った伝書であろう。何であろうと考えていると、馳者は陳雨の顔を見るや否や、駆け寄って跪き書を差し出した。

「呂伯様より陳雨様へ急函にございます!」
「殿から?」

 息絶え絶えながらも声を張り上げる伝令に、陳雨は眉を顰めた。

(急函―――もしや何かあられたのか)

 不安に胸を騒がせながら、努めて落ち着きを保ち、帛書を開く。上質の絹に綴られた筆跡()は確かに見慣れた主のものだった。
 だがそれは今、書き手の内面の心の揺れを表すように乱れていた。
 只事ならぬ気配に、陳雨は身を緊張させて文面を追う。その瞳が、徐々に見開かれていった。
 書の内容はおおむねこうだった。「張斯より盟友の証と称した侮辱を受けた。よって同盟を破棄し、以後は一切関わらぬ所存である。我が方の大切な智将をいつまでも置いておくわけにはいかない。疾く帰還せよ」。締めくくりには『書到急急如命』―――「この書が届いたら、急ぎ命令の如くせよ」と記されてあった。
 強制帰還命令である。

「な―――なんという……」

 眩暈がした。帛を握る手に汗が滲む。書には記されていないが、恐らく臣の誰かが馳者に仔細を託しているだろうと思い尋ねると、果たして馳者は頷き事の次第を語った。
 陳雨の顔色がみるみる青くなる。

「よもや、それで同盟破棄などと?」
「受けとった(てがみ)にも辱めるような内容が記されていたそうで、呂伯様は酷くお怒りに……」
「そのようなこと慶の計略に決まっているではないか」

 戸惑いながら伝令が言うのに、陳雨は吐き捨てた。

浮図(ふつ)の話をどこから仕入れたかは知らぬが、いかにも戯孟の考えそうなことだ」

 忌々しげに吐き捨て、強い眼差しで伝令を見据える。

「急ぎ戻って殿に伝えよ。敵の罠に嵌ってはなりません、冷静に判断めされよと」
「そ、それが」

 と、伝令は口篭る。おずおずと陳雨を見上げ、しどろもどろに告げた。

「他の幕臣方々皆口を揃えてそう進言いたしたものの、全くお聞き入れられず……」

 語尾がどんどん弱まる。伝令は困り果てた顔で俯き、声を喉の奥から振り絞るように告げた。

「私にも、陳軍師を必ず連れて帰るように、と……」
―――

 陳雨は言葉を失った。  ―――ここまでか。
 胸中で己の声がおぼろに響く。それは深く、どこまでも深く木霊した。
 ―――これで我らは、殿は、戯孟を排除する絶好の機を完全に逃してしまった。
 全身から力が抜けるのを感じた。諦めよりも深く、失望に近いものが身体の芯を襲う。それは主に対しての感情ではなかったが、それでも落胆であることには変わりなかった。呂伯とて、敬虔な信者である以前に一勢力を率いる長。若いとはいえ聡い彼ならば、無論、怒り心頭の中にも敵の策という可能性はよぎったであろう。だが、呂伯にも建前と立場があった。城内に浮図の僧を住まわせている手前、彼らの不興を買うような仕草はできない。
 陳雨は口を閉ざし、目を固く瞑った。頭痛にでも堪えるように、軽く皺寄せた眉間を指で抑える。
 こうなってはもはや遣る方ない。もしかすると、これも抗えぬ時の流れというものなのかもしれぬ。慶が、強大勢力となるという。
 いや、と脳裏で別の声が挙がる。
 天は巡る。星は巡る。機運もまた、必ず巡ってくる。
 その時こそ。その時こそはきっと。
 じっと閉じていた瞼をふっと上げ、陳雨は目の前に片膝つく伝令へ、静かに告げた。

「相承知した。主命に従おう。すぐに仕度を」

 短く命じてから天井を見上げ、細く長く息を吐いた。 
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