「見つけたぞ」

 まだ湿っぽさを残す岩地を踏みしめ、戯孟は前に座る人影へ近づいた。
 無名は岩の上に腰掛け、峰絽関を一望している。
 その隣に立ち、同じように日暮れに沈みゆく景色を眺めやる。

「よくぞお分かりに」

 一瞥もせず、無名は戯孟へ言った。

「鎮文から聞いてな。お主は昔から高い所を好むとも言っていた」 「癖みたいなものでして。ホラ、煙とナントカは高いところに昇りたがるって言うでしょ。まあ私は天才ですけどね」
「自分で言うか」

 呆れた口調にハハハと明るく笑う。実際には澄んだ大気を取り込んで体の気脈を整えるためなのだが、それは口にしないようにする。
 二人がいるのは陣営の後山を登ったところであった。陣営の真上にあるこの高台は、無名があの夜に火矢を放ったあの岬だ。

「しかし総大将ともあろう御方が、あまり単身でウロウロされるのは感心しませんね。鎮文殿達が心労で倒れますよ」
「儂とて時には息抜きがしたいものなのだ。それに今は単身ではあるまい」

 ふふんと不敵に笑む戯孟。
 無名は然様で、肩を竦める。仮に刺客に襲われたとして、無名が守るとは限らないのに、能天気なことだと胸中でごちる。それともそのおおらかさこそが大器というものだろうか。

「その一瞬の油断が命取りになることもあるのですよ。まぁ……そのお気持ち、分からんでもありませんが」

 ここの風は気持ちがよいですからねぇと言いながら、うーんとひとつ伸びをした。

「そういえばまだ答えていない問いがあったな」
「はて、問いとは?」
「風を感じたと申した、あの真意をまだ聞いておらぬ」

 ああ、と無名は髪を掻く。覚えていたのかといささか面倒くさそうにする。
 別に隠し立てするほどのことでもないが、説明するのが正直億劫でもあった。

「真意も何もそのままの意味ですが、『感じた』が分かりにくければ『ピンときた』と言い換えましょうか」

 ますます分からん、と眉宇を寄せる戯孟。

「分かるんですよ、何となく」

 無名は顎に手をやり、悩むように軽く眉を寄せた。だからこればかりは説明するのは困難なのだ。無名にとってみれば、何故二本の足で立って歩けるのかと言われているのと同義だった。歩けるから歩ける。本能的にそれができる。同じことだ。分かるから分かる。それに理由など無い。
 もともと至極感覚的なものであり、言葉には現しにくいことなのだが、できるかぎり適切な言葉を選ぶ。

「こう、匂いみたいなものでね。砂漠風には独特の前兆があるんです。長く放浪しているとそういうのが自然と身につくんですよ。いわば経験則ってやつです」

 やはり釈然といかぬという顔の戯孟に、無名はちょっと苦笑してみせた。

「ほら、船乗りは能く波と潮の目を読むと言うし、獣なども天変地異を直前に察知して逃げると申すでしょう? あれと似たようなものと思って頂ければ」

 無名にとっては呼吸をするのと同じくらい当たり前で自然なことだから、特別なことだとは思っていない。

「とはいえ誰にでもできる芸当ではあるまい」
「そうでもありませんよ。私の場合は漁村の生まれであったのと放浪生活によるものですが、砂漠の民ならば同等のことはできるかと」
「はて、お主は流民の出と鎮文が申していたが」

 無名は少し首を傾げて、どう補足したものか思案した。これは確かに李洵にも話したことはなかった気がする。これもまた特に隠し立てているのではないが、といって全てを話せるものでもない。

「少々入り組んだ事情がありまして。仔細は省きますが、私には二つの家があり、三人の師がいるんです。家はとうになく、師について以来は流民として放浪している次第です。生まれたのは山海(さんがい)に囲まれた村でしたから、漁のために風向きや天候を読むのは物心つく前から身近なことでした」

 詳細は言わぬと前置きした以上、それに関する答えは得られぬだろうと察し、戯孟は追究を飲み込む。代わりに黙考した。
 合理的でないものは嫌いだ。割り切れないものも好きではない。古臭い伝承や迷信など糞食らえだし、仙術や妖術の類などはさらさら信ずる気にもなれない。だが。
 ―――得れば万騎の将に値し、天下への覇道を成す。これを使う器量があるならば、あるいは天地をも味方につけたことになる。
(面白いじゃないか)

 使わせてくれるのであれば使いこなしてやろう。たとえ自然であろうと、鬼や仙人であろうと、その先に天下があるならば。
 無名は相変わらず暮れなずむ大地へ目を向けている。辺り一帯が同じ色に染まり、落陽に煌々と照らされ、輪郭が眩しい色に象られていた。その他の部分は、対照的に深い翳りを帯びる。
 途端、細波が退くように、すうと感情の波が収まり心が凪ぐ。その余韻を感じつつ、戯孟は同じ方向を見た。我が身もまた同じように夕闇に染まっているのだと認識すると、途端に形容しがたい感覚が去来する。まさに黄昏時。其も吾も暗い陰影に沈む。心にも闇がじわりと忍び込む。不思議と胸が騒ぐのだ。ざわざわと。これは不安なのか―――いや、高揚しているのか。
 暗がりに浮かぶ険しい山の連なりと、ちらちらと光を反射しながら流れる河。天地の境界が消え、まるで己が宇宙のただなかにいるような錯覚に陥る。
 だが戯孟の胸に来するのは、壮大な自然に対する畏怖や虚無ではなく、それらへの対抗心だ。目を眇め、遥か彼方を見晴かす。
 広い大地。広大な大地―――天下四海。
 国と、五つに分かたれている大地。これを一つに統べる。自分こそがその大業を為し得る。そのために戦っていた。中津原あるいは華原と呼ばれる大陸の中心。かつてから数々の雄たちによって覇が争われた地。その狩場の中で、争いあいながら、天下への覇道をどこまでも駆ける。
 それは一つの快感だった。壮大な夢。華原を制し、四海を制して、その果てにこの広大な大陸を、天下をこの手に獲る。
 だがそれ以上に戯孟を天下統一に駆り立てて止まないのは―――

「国の痛み……」

 不意に横でぽつりと上がった声に、どきりとする。己の夢想に浸っていた戯孟はその声に弾かれたように、横の無名を見た。

「人の叫び」

 続けて無名は呟く。口元にはやはり薄い笑み。独り言のような呟きに、戯孟は我知らず返す言葉を失う。

「何だと?」

 怪訝な表情で無名を見つめた。言葉に詰まる要因が分からなかった。だが何か―――何かが、心の琴線に触れた。
 数拍おき、無名は少し目を眇めて首を振った。曖昧な笑み。

「いいえ?」

 それから戯孟の方を向いた。

「道は遠うございますな」

 その言葉の意は。
 一呼吸置いてから、戯孟も同じように、唇の片端を上げた。

「ああ、そうだな」

 無名の指しているものが何かは確とは分からない。天下への覇道のことか、それともこの遠征のことかもしれない。だが、それはどちらでもよかった。何となく戯孟には無名の言わんとしていることが分かったから。
 道―――それは、己が今歩んでいるもの、そして己の目指すもの。
 ただ戯孟は気づいていない。先程の痞えの正体。無名の言葉こそが、己の心の最も核心部に触れているものだということに。
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