その情報が戯孟の許にもたらされたのは、月がまだ頂きに達していない宵のことだった。 いつかのように三人で酒を囲んでいるところへ、何の前触れもなくそれは舞い込んだ。 「今しがた内間より知らせがあった。陳雨が城を発ったそうだ」 報告を受け、男へ労いの言葉を掛けて下がらせると、戯孟は天幕を潜り中にいた男二人に開口一番そう告げた。 李洵は目を丸くし、無名はとうに予期していたことのようにそうですかとだけ応えた。 「お主の仕業であろう? 一体どのような手を使ったのだ」 戯孟は歩み寄り、無名に問う。心の中で、最近自分はすっかり尋ねてばかりだなと苦笑交じりに思った。 無名は円座に胡座を掻き、酒を悠々と飲んでいる。戯孟が先程まで腰掛けていた向かい側の椅子に着くのを見計らってから、ようよう口を開いた。 「人間にとって大義も人道も責任も、理性さえも蒙ませてしまうものとは何だと思いますか」 直接は答えず、薄く笑って問う。 意図のわからない唐突な質問に瞬きながらも、 「ふむ……」 尋ねられた戯孟はしばらく逡巡し―――目をキラリと光らせた。 「それはずばり、恋情だな」 幕中の空気が瞬時に凍ったが、発言した当人ばかりがどうだと踏ん反りかえっている。 咳払いで気を取り直す李洵とは対照的に、無名は弾かれたように笑って額を叩いた。 「こりゃ失敬。私ともあろう者がすっかり失念しておりました。さっすが閣下」 「そうであろうそうであろう」 戯孟はもっと言うがよいとばかりに髭を撫でながら悦に入っている。 李洵ば皺寄せた眉間を揉みつつ溜息をついた。 「殿、戯れも程ほどに」 「相も変わらず冗談の通じぬ奴だな。それだから『憂いの令君』とか呼ばれるんだぞ」 「え、なに鎮文、そんな渾名ついてんの? ウケる」 つい昔の口調に戻った無名が吹きだしそうなのを堪えてニヤニヤする。 「そうそうこやつ、以前には弔問客に間違われたことがあってな」 「……殿、それ以上申されればこちらにも考えがございますが?」 「すまん」 背筋がひやりとするほど冷たい声音を吐いた寵臣に、戯孟は即答で居住まいを改めた。 それから肩を竦めて、 「お主はどうも頭が堅くていかん」 余計なお世話です、と李洵は憮然として呟き、今度は無名へ渋い目を向けた。 「お前もだ、無名」 「悪い悪い、つい」 口では謝るものの、笑い冷めやらぬ様子に、さすがに李洵は苦々しい心中もさることながら、主の御前であることを慮り、眉を顰めて厳しく諌めた。 「もういいだろう。さっさと話の続きをせんか」 「へいへい」 無名は僅かな余韻とともにひとつ息を吐くと、顔を仰いで再び先ほどの問いを口にした。 「では改めて。恋情のほかに、人の心を強く支配するものといえば何か……」 無名は笑みを深め、言った。 「信仰です」 戯孟は、目を瞬き、正面の無名を見つめた。 「何かを強く信じるというのは、人の価値観を丸ごと塗り変えてしまうほど強い力を持ちます。それが狂信の域ともなればなおさら。閣下の言った恋情もそういう意味では同じですね。恋は盲目とも申しますから」 盲目。盲信。冷静な判断力と理性を奪い去るほどの情動。 そこで一旦言葉を切り、ひとつ息を吸ってから、 「その信仰が形を成し体系化されたものが、すなわち宗教です」 目を僅かに眇めた。 |