諸将とは異なり、一般の兵卒は階級ごとに複数人でまとまって一幕を使う。死傷者や投降者による変動はあるものの、基本的にあまり顔ぶれに変わりはない。就寝はもちろん雑魚寝だ。男ばっかりでむさいし暑苦しいし臭いしで、いいことはない。女人がこの惨状を見たら悲鳴をあげて卒倒するか、軽蔑と嫌悪の眼差しを向けてくることだろう。

 ウーミンが中に入ってみれば、殆どの兵卒が疲労の色濃い表情をしていた。顔色は青黒く、頬がこけている。戦は体力を使う上に、こちらとら長旅である。どの顔にもやつれた雰囲気が漂っていた。重くなった身体を横たえ早々に寝る者も多い。
 兵士の年齢制限は通常23歳から56歳までと決められているが、現実にはより多く兵数を得るために年齢の下限を下げたり、兵役を終えても退役させてもらえない者が出てきたりする。
 だからウーミンのような適齢だけではなく、明らかにまだ10代だと思われる少年もいるし、白髪頭の老人もいる(ちなみに女の従軍は、城砦を包囲されたときの防衛隊以外では原則禁じられているので居ない)。特に体力の衰えが来はじめている者にとってこの過酷な進軍は辛いだろう。

 基本的に徴兵は兵戸制の下に行われる。兵戸制とは、世襲的に兵士を出すことを義務づけられた家から徴兵することだ。兵士とその家族は兵戸あるいは士家という軍用の戸籍に編入され、民戸、すなわち農民の戸籍とは区別される。
 兵戸の家では、兵役についている者が死んだり、または老齢で役目が果たせなくなると、その子弟が次に兵となり、さらにその者が任から外れるとそのまた子弟が兵になる、という形で兵役を継承していく。
 民戸からの徴集すると、兵数を稼ぐ上では有効ではあっても、生産業に携わる民を軍に割くわけだから、必然的に国全体の生産力の低下に繋がる。それではやはり国が困ることになるということで、解決策として編み出されたこの兵戸制は、かなり画期的で効率が良かった。
 平時は他の農民と同じように農耕に従事し、有事となれば得物を鍬から剣に持ち替える。農作業というものはかなりの力を要するから、心身が鍛えられるという意味でも一石二鳥だ。
 農耕をするといっても、民戸の農民と異なり、平常は屯田兵として田を耕す。この田でできたものは主に兵糧用として蓄えられた。
 民戸よりも二倍の仕事をこなす兵戸は負担も大きいが、その分収入や納税は優遇されている。兵役を徭税、すなわち租庸調の庸税と考えるなら、それも納得のゆくところだ。

 この兵戸制の導入はかねてから提案されていたものだったが、当時の韓朝廷はすでに腐敗が進んでおり、世は動乱で不安定な状態であったから、制度として実施されたのは実権を握って領民を整備した戯孟によってであった。
 一方、兵戸による徴兵とは別枠で、しばしばよく行われるのが募集による募兵である。彼らは食糧や帛(絹織物)、金を報酬として貰うことを目的に応募するのだ。これは出身を問わずかなりの緩い条件でできる。特に騎馬術に優れた遊牧民族などは積極的に迎え入れられた。彼らは馬を駆りながらの戦闘に誰よりも秀でているからだ。
 ただ募兵は、兵の補充という利点はあるが、所詮は利害関係なので、軍や主君に対する忠誠心が薄いという欠点もあることにはあった。
 ちなみにウーミンもこのクチだが、その実、彼は金や絹などといったものはどうでもよかった。
 彼はまた違う目的でこの募兵を受けたのだから。
 
 ウーミンは隅の方に適当な隙間を見つけて寝転がった。その拍子に隣りにいた男にぶつかり睨まれたが、へらへらと笑顔で流す。
 地面には薄っぺらい筵が敷かれているだけである。ごつごつとした地面の固い感触は当然快適とは言い難く、おかげで眠る度に身体のあちこちがぎしぎしと痛んだ。まあしかし贅沢は言っていられまい。雨風をしのげる屋根があるだけマシか―――ウーミンは仰向けで幕の天井をぼんやりと眺めながら、しみじみと思った。
 しばらくして、外で号令のような声が聞こえた。
 それからドォンと太鼓の音が尾を引く。
 就寝命令だ。兵たちは灯を消し、次々に床につく。ウーミンも右隣の仲間に背を向けて横向きになり、目を閉じた。
 皆よほど疲れていると見え、程なくしてあちらこちらで寝息が聞こえはじめて来た。時には地面を響かすようないびきもあがったが、その騒音に起きる者はいない。ここでできるだけ睡眠による疲労回復をしておかないと、次の日が辛いからだ。

 そうして二刻(2時間)ほど経った頃だろうか。
 すっかり穏やかな寝息を立てていたかのように見えたウーミンの瞼が、不意にうっすらと開いた。現れた瞳には夢の残り香も、または微睡みの欠片も見受けられない。
 壁を向いたまま、神経を研ぎ澄ませて、背後の気配を窺う。消灯は二更(午後10時)だから大体現在の時刻は三更(午前0時ごろ)を回っているだろう。

 一般的に人は乙夜、時にして亥の刻(午後9時~午後11時)に床に入り、丙夜丑の上刻(午前1時~午前2時)には熟睡していると言われる。目が覚めるのは己夜卯の上刻(午前5時~午前6時)頃。これは昼型の人間における周期なのだが、昼間に戦をしている兵においても変わらない。
 ひとは熟睡時には寝息が長短不規則になるという。規則正しい呼吸をしていると寝たふりの可能性がある。また呼吸が不規則な時は、浅い眠りに見えてなかなか覚醒しない。

 ―――頃合だな。

 静かに息を吸い、頭の中でざっと状況を確認する。
 潜入の成功率は時機に左右される。決まった時刻があるわけではないが、基本的には人が騒いでいる時などの隙をつくか、もしくは相手の生活の調子(リズム)が変わる隙。そして熟睡時である。
 ウーミンはそっと身を起こして、辺りを見渡した。人は寝入っても一定時間ごとに目を覚ますと言われ、睡眠によっても浅い深いがあるので注意しなければならない。
 全員がすっかり寝ついているのを確認すると、ウーミンは音を立てないようにそっと寝床から抜け出て立ち上がった。手足の先に意識を集中させて気が溜まるのを待ち、長時間硬い地面に横になっていた全身に巡らせる。じわりとした温かさがゆっくりと広がる。

(さてと、行動開始といくか)

 幕を壁伝いに辿り、男達の頭や足を踏まぬように注意深く跨いで、入り口から外へ滑り出た。
 皆が寝静まっているため、昼に比べ外はひどく静かであった。大気の温度も僅かに低い。どこまでも闇に染まる空には細かな星々が瞬いている。辺りは幽かに仄蒼い。
 ウーミンは番をしている兵に見つからぬよう身を低くして、走り出した。まずは先に寄る所があった。




 蒼闇の中を獣のごとく音もなく駆け抜けてゆく。止まることも躊躇うこともない。
 暗がりにぼんやりと木柵の影が浮かび上がる。柴営(さいえい)と呼ばれる陣営の囲いである。高さは大体二丈(約5m)といったところだろうか。
 ウーミンは走りながら腰元から小刀を二本取り出し、柵へ向かって素早く投げた。
 二刀は上と下それぞれ斜めに幅を取り、軽い音を立てて木肌に突き刺さった。刃が月明かりを青々と反射する。
 それめがけて一足飛びに跳躍した。柵に垂直に突出する小刀の柄に軽く爪先が触れたと思えば、斜め上にあるもう一方の小刀に移り、更に高く跳ぶ。空中でひらりと宙返りし、木柵を軽々と越え着地を決めると、再び走り出した。
 柵には土塁が築かれており、その周りには塹壕が掘られている。更に塁壁の周囲には敵の接近を阻むために蒺藜(まきびし)や鹿角が撒かれていた。それらを巧みに避けながら、陣営地から離れる。
 そのまま夕燕城めがけ真直ぐは進まず柵伝いに右方面へと大きく迂回した。闇夜の中、遠くに浮かび上がって見える城壁は、横に長く伸びている。一直線に行っては向こうの見張りに気づかれてしまう恐れがあり、同時に自陣の牙門近くに設置された楼閣の見張り兵の目もある。
 見晴かす先には敵城がある。城壁は長い。それを迂回して行くとなると、かなりの距離と時間がかかる。だがウーミンは一度も速度を緩めることなく駆けた。仙術の一つに一日で八里を走る神行法という秘術があるというが、それもかくやと言わんばかりの俊足は一向に衰えを見せず一定の速度を保っていた。

 半刻弱ほどで、どうにか城壁の下までたどり着いた。西側の城壁だ。慶が陣を展開しているのは南側であるから、相当な距離を走ってきたことになる。さすがに少し乱れた気息を整える。顎に伝った汗を腕で拭った。
 ウーミンは城壁に身を寄せた。版築の壁面に背を当てて張り付き、影に身を潜める。月はまだ東側に留まっている。三日月なのでさして明るいわけではないが、光源がある分、目のいい者に見つからないとも限らない。西側の城壁には人一人隠れられるぐらいの陰影は出来ていた。
 顔を振り仰いで上を見る。
 通常、城壁の上には見張りの衛兵が配属されている。時折一定間隔で城壁の垣際に設置されている篝火にチラチラと過ぎる影がそれだろう。巡回して監視をしているようだ。
 ウーミンは少しの間、壁に凭れたまま目を閉じた。何度か深く呼吸をし、疾走後の余韻が鎮まるのを待つ。そうして息を整え、心を落ち着かせると、目を開いて、担いでいたものを取った。負荷の消えた肩を軽く回す。
 とぐろを巻くのは恐ろしく長く頑丈な太縄。かなりの重量があり、縄の先に大きな銅製の鉤爪がついている。攻城の際に城壁を登るために利用される道具である。陣営内の武器用天幕から拝借してきたものだ。もちろん後でこっそり返しておかなければ管理係にバレる。鉤縄ひとつと言えど管理は厳格だ。

 ウーミンは再び上を仰ぐ。兵は依然、城壁の上を廻っている。
 鉤爪を先にして持ち、円を描くように縄を回しはじめた。徐々に加速させ遠心力をつける。耳元で鋭く風を切る音がした。
 狙うのは篝火の明かりの影響で陰を作る垣。距離があるため、目安は感覚でいくしかない。
 一番近くの篝火に見廻りの影が過ぎったあたりを狙い、思い切り天高く放り上げる。
 縄は遠心力にそって、放られた方向に勢いよく飛んでいく。
 街を守る城壁は人間が簡単に登り上がれるほど低くはない。頂上は空に続く闇の中に黒々とした影をもって聳えていた。それでも振り上げた鉤は、頂に達するに十分な威力を持っていた。
 鉤はウーミンの狙い通り、女牆(じょしょう)の凹凸部まで伸び上がる。が、あと少しのところで鉤が上手くはまらず、カツンと小さな音を立てて跳ね返り落ちてきた。ウーミンはげっと顔を顰める。
 思わぬ不手際で音が立ってしまった。感づかれたかと懸念したが、しばらく待っても衛兵が気にして寄ってくる様子はなかった。耳を澄ましても、警戒を呼び掛ける声も聞こえず、相変わらずの速度で巡回している。ウーミンはほっと胸を撫で下ろす。まあ失敗も成功のうちと己に言い聞かせた。
 そして、重力にしたがって落ちてきた鋭い鉤爪を危うげなく素手で受け止め、ウーミンは再び縄を回す。もう一度、頃合を見計らって腕を振り上げた。
 縄は細かく蛇行しながら上へ上へと伸びる。掌に城壁の頂上の凹みにしっかりと引っ掛かった感触が返ってきた。
 縄を引っ張り外れないのを確認すると、ウーミンは一息ついてから手に平に布を巻き、縄をしっかり握った。城壁の微細な段差に足をかけするすると登り始める。動作にも足取りにも危うげなところない。

 幾時もかけず頂点近くへ登りついた。だが見張りの目があるのですぐには上がり込めない。女墻の影に身を潜ませ、隙間からそっと目を覗かせて様子を覗う。衛兵は四人。念のため気配を探るが、この辺りを担当するのはこれで全員のようだ。予想してたほど多くはない。それぞれが矛を持ち、規則的に練り歩いている。
 右から丁度一人が近づいてくる。ウーミンは頭を下げ、通り過ぎるのを待った。衛兵は前を向いたまま、潜むウーミンに気がつくことなくその頭上を通過し、遠ざかる。
 ウーミンは懐に手を突っ込むと掌に収まる大きさの石を取り出した。登る前に拾ってきておいていたものである。
 衛兵の後姿が見えたところで、城内にむけてその石を思い切り投じた。石は緩やかな弧を描き、遠くへと勢いよく飛ぶ。
 夜の、特に静かな城では小さな音でも何倍も大きく反響して聞こえる。大きく投じた石が遠くで、かん、からからと鳴った。

「誰だ!」

 四人の衛兵が同時に同方向へ身を翻す。口々に声を上げ、音のした方へ走っていった。バタバタと忙しない音が遠ざかって行く。
 その隙にウーミンは一息に乗り上げ、素早い身のこなしで城壁の上を横切って行く。何か気配を感じたらしい衛兵の一人が振り向いたが、そこにはただ月明かりに冷たく照らされる石垣と、先に広がる暗闇があるばかりで、特に異変もなく静まり返っている。衛兵は矢張り気のせいかと首をかしげ、仲間を追って駆けて行った。
 ウーミンはといえば、城壁上に造られた楼館の柱の影に身を滑り込ませていた。兵が行ったのを確認し、首を戻してホッと息をつく。
 再びそっと顔をのぞかせ、人の気配がないことを確かめると、足音を立てずに駆け出した。
 時折止まっては手近な物影に隠れて辺りを覗う。それを繰り返して、悠々と夕燕城内へ潜入した。
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