夜半にいきなり主幕へ飛んできた甲兵の報告に、戯孟は急ぎ着替えると物見の方まで走った。背後にはやはり報告を聞いた李洵と、同じく文官で参謀のひとりである智箋(ちせん)が付いてきている。
 物見兵は戯孟が近付くと慌てて跪き拱手した。戯孟は軽く労いの言葉をかけると、目を細めて向こう景色を仰ぎ見た。
 空が燃えている。闇の中、そこだけが不自然に明るい。
 遠くに聳え立つ敵城はまるで影絵のように黒く浮き立っていた。その切り取られたような輪郭から、炎の緋い舌先がゆらゆらと見える。
 夕燕城はその名の通り夕色に染まり燃え上がっていた。風に乗って微かに人々の阿鼻叫喚の声なども流れてくる。一体あの中で何が起こっているのか。

「失火でしょうか……」

 後ろから智箋が囁いた。眉根を僅かに寄せた厳しい表情で燃える城を見据える。

「どうであろうな……何があった」

 戯孟は目を外さないまま唸った。後半は物見兵への問いかけである。訊かれた兵は狼狽しながらも必死に言葉を紡いだ。

「は。そ、それが、自分にもよく判らないのですが、突然城の東門から火の手が上がりまして……それから、兵軍の怒号や突撃するような物音も。そうしているうちにも火はどんどんと広がり、今のように」
「内乱でしょうか」

 見たままを語る兵の話に、今度は李洵が戯孟へと顔を向け尋ねる。
 戯孟は依然判らぬ、と言ったが、城を見る顔は険しい。何が起こったかは皆目見当がつかないが、何やら起きているらしい。はっきりしているのは、今が好機だということだ。

「全軍、出撃準備だ」

 目をしかと開き、戯孟は鋭く命じた。怒鳴りつけられるように命を受けた物見兵は、ビクッと肩を跳ね上げると、

「ハッ!!」

 慌てて立ち上がり、礼をして一目散に駆け出した。それを横目で見送り、智箋が戯孟の隣りまで歩み寄る。主と同じ様に煌々と燃え上がる城に視線をやりながら、念のために訊いておく。

「罠という事は……」
「いや、それは考えられぬ」

 戯孟は首を横に振った。再び敵城を仰ぐ。
 戯孟自身も一瞬その可能性を考えたが、わざわざ火を放ってこちらを誘い込む意味が考えられぬし、万が一奇計を張っていたとしても、それにしてはあまりにも火の勢いが強すぎる。城壁の中には一般の民衆もいるのだ。いくらなんでも彼らの衣食住を引き換えに大仰な罠を仕掛けるとは考え難い。あまりにも代償が大きすぎる。錬乂とて県令だ。余程の人非人ならともかく、無為に己の民を犠牲にはしまい。これは不意の事故と考えた方が自然だ。
 戯孟はここに機を見た。この混乱に乗じて攻め込めば必ず勝てる―――そう判断したのである。

「行くぞ。我等も出陣だ」

 戯孟は城壁から目を外し、準備をすべく己の幕へと踵を返した。二人の参謀はその背に拱手して、後に従った。




 叩き起こされた兵たちは、迅速なる行動で出陣の準備をし、相手に迎撃の隙を与えぬほどの素早さで一気に攻め込んだ。慶軍襲来で混乱の上に更に混乱した堯軍は、まともに反撃する態勢もとれず総崩れとなり、あっさりと慶の手に下った。
 かくして慶軍は、怒涛の勢いで見事堯軍の隙を突き、大々的な勝利を収めたのだった。
 錬乂と数人の武将は帰順を拒否し斬首に処せられ、残った武将と兵卒達は新たに慶軍下に編成された。底を突きかけていた慶軍の兵糧は、夕燕城に蓄えられていた多量の食糧を加え、当面の難を逃れた。事は万事円満に終わったのだった。

 ただ一つ不可解なのは、一体あの時に堯軍内で何が起こったかということだった。
 どの兵に聞いても、口をそろえて謀反があったと言う。しかし首謀者が誰なのか、誰の計画と指示の下にそれが行われたのか、仔細を知る者が一人もいない。慶軍が南側の城壁を突破して襲撃した時には、すでに大量の兵が死傷していたため、その中で首謀者たちも戦死したとも考えられるが、全く知る者がいないと言うのもどこか不気味である。
 一向に判然としない。内通者がいたのだとはいうが、戯孟の許は勿論、配下の諸将達の所にもそう言った情報は入ってないし、そもそも内通者の存在ばかりか内乱を指示した覚えさえない。
 結局どの話もいまいち要領を得ないが、堯軍が同士討ちをしたらしいのは確かである。
 内部で不満を持つ何者かが謀を以って引き起こしたのだろうと戯孟たちは結論づけた。ただ少し引っかかったのは、何故か冑をつけていない兵がちらほらといたことだが―――大して気に留めるほどでもないと判断され、それ以後論議されることはなかった。
 こうしてこの謎の火災事件は幾多の疑問を残しながらも、ひとまずは幕を閉じたのだった。
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