そう言ったのはウーミンだった。先ほどと変わらぬ体勢のまま、ちびちびと酒を嘗めている。
 声を発したのが予想もしなかった人物だったことに、無精鬚の男を含めた何人かが驚きと意外さで目を丸くする。
 何を根拠にそう言うのか。味方の足を引っ張り、運だけで生きてきたような間抜けな奴が。そう言わんばかりである。
 しかし自信ありげな表情を浮かべるウーミンに、中年男は尋ねる。

「妙に言い切るな」

 なにやら難しい政治の話になりそうだ。他の者達はそう感じ取ると、すぐさま興味を失ったように自分たちの会話を再開した。込み入った話は聞いたところでよく理解できないし、知ったところで自分達には関係ない。所詮一生覗くこともできず手も届かぬ雲の上の話。今はそんな、ある意味現実的なことよりも、ただ今ある酒を楽しみたいのだった。
 そんな仲間達を尻目に、二人の問答は続く。

「恐れる理由がないからさ」

 ウーミンはあっさりとそう言った。瞼を伏せ、やや顔を俯かせて酒盃に口をつけている。その唇は相変わらず笑んだ形のままである。目は盃に並と注がれた、濁ごった液体の揺らめきを見つめていた。
 わけがわからずにますます眉を寄せる男に、ウーミンは瞳だけを動かし、上目遣いに視線を合わせる。その眸には、いつもの彼とは違う、冴えた光があった。

「理由がないってぇ?」

 上手く回らない舌で、疑わしげに言う男。

「だってよぉ。祁とかはどうすんだ?」
「祁は進軍しないさ。というか挙兵自体ないだろうな」

 ウーミンは軽い口調で言い、盃を仰いだ。
 あまりにも断定的な物言いに、男の眉がより訝しげに顰められる。

「皇甫圭は優柔不断のくせして無駄に疑り深い男だから、きっと色々いらん深読みとかして迷ったあげく、結局は攻撃に踏み出せない」

 何ということもなしにウーミンは答えた。
 男は瞠目する。顔は赤いままだが、頭のほうは酔いが覚めたようで、今度ははっきりした態度でウーミンのほうに身を乗り出してくる。

「じゃあ胡は? 喬だって黙っちゃいねぇだろ」
「胡には今はそんな余裕ないさ。先だって太陽道の残党による暴動に続いて大豪族の反乱があったばかりだ。鎮圧には成功したが、大分痛手を食らったからな。しかもその反乱に触発されて、他の豪族だの山賊だの蜂起も小規模に頻発している状態らしい。内情も統制しきれてないのに、遠征なんかしてたら混乱を助長するだけだ。それに金の問題もある」
「金?」
「戦ってのは兵糧も馬鹿にならんし金のやたらとかかる一大事だからな。胡地は慶ほどは安定した税収がないから、なかなかそう自在にはできやしないのさ。むしろ今は国内に目を向ける時だ。あそこの呂伯は外事よりも寧ろ内政が得意分野だと聞くから、しばらくはそっちに注力して土台固めをするだろう。あとは喬だが―――まあ狡賢い戯志明のことだ、どうせ同盟とか持ちかけてんだろ」

 曲りなりにも己の属する軍の主を呼び捨てである。

「同盟?」

 何やらつい今しがた恐れしらずの発言が耳を過ぎった気がするが、敢えてそれは聞き流して訊き返す男に、ウーミンは頷く。

「ああ。大方、得た土地を山分けしようとか何とか言って餌をぶら下げてんだろうよ。なにしろ喬は領地が狭く民の数も少ない。こうなると資金源となる税収も豊富ではないし、作物の取れ高にも限度がある。ただでさえ土壌に恵まれない貧乏領だ、土地といったら喉から手が出るほど欲しいだろうさ。孫胥は人徳家ぶってるが、実のところはかなりの野心家だ。半分ずつ山分けすれば慶との差は縮まらないが、胡地に匹敵するぐらいの広さにはなるだろう。すると胡が黙っちゃいない。呂伯は臆病だからな」

 思わぬ単語を聞き、中年男は目をぱちくりと瞬かせた。

「臆病? んなタマかよあれが。臆病者小心者なんてこのご時世じゃ生きていけねぇぜ」

 ウーミンは逆さ、と言って目を伏せた。

「臆病だからこそ生き残れるんだよ。敵に対する警戒心が強く、獲物を狙う視線に敏感で、やられる前にやってやれと思うんだ。だから先手を打つ決断も早い。所謂自己防衛力が極めて強いんだな。内政に優れているというのもそういったことに因るんだろう。不安の要素は芽のうちどころか種のうちに掘り出して安心したいって性質だ」

 男はすっかり気を抜かれ唖然としている。盃を運ぶ手も途中で止まっていた。
 ウーミンは立てた片膝に酒盃を持つ手を置いたまま、もう一方の腕を後ろについて緩く体勢を崩した。
 軽く息をつき、のんびりとした口ぶりで続ける。

「言ったように孫胥は野心家だ。今まで弱小だった他勢力が急に自分らと同規模となって、しかも勢いもある。臆病な呂伯に警戒するなというほうが無理だろう。もちろん喬だって新しい領地を併合したばかりではまだ安定もしていないし、民心を掴む必要があるだろうから、しばらくは足場固めに力を入れなきゃいけなくなる。呂伯が先手を打つべく動くなら、そこだろうな。孫胥との戦いに割ける余力があるようなら叩くだろうし、無理なら対慶同盟あたりを持ちかけるだろう」
「それなら、結局は慶の不利になるオチじゃねえか?」
「喬と胡が同盟を結んだら、慶は祁と手を結ぶ心算なんだろうさ。祁侯は胡侯を侮っているし、対等な関係を築くには矜持が邪魔をする。それくらいなら慶と手を結ぶ方がマシだってな。まあ喬はそういった一連の慶の思惑を見透かしているかもしれないが―――どうせいつかは戦わねばならない相手。少なくとも喬には今のところ断るべき不利益はない。どうせ喬は勢力図がどうなろうと勝つ気満々でいるんだろう。最後には慶対喬の図式に持っていく構想じゃないかとさえ思うね、俺は」

 言って、思う。

(何せあそこには超自信家の自称天才軍師がいるしな)

 ウーミンは閉じていた瞼を僅かに開く。一瞬閃いた鋭い光は、だが瞬きとともに消えた。
 まあ、大体こんなもんなんじゃないか?と締めながら、しかしウーミンは心の中で付け加える。
 予想不可能なことが起こらない限りは、と。

「だ、だが他の勢力同士が同盟していたら……? 喬が裏切るとか」
「喬侯は曲りなりにも徳を“売り”にしている。それに惹かれて集まってきた人々で形成されているから、裏切るなんて人心の離れそうな手は打たないだろう。祁と他勢力の同盟はまず考えられないな。やっぱりどっちつかずで優柔不断な皇甫圭がなかなか首を縦にふらんだろさ。残るは胡と堯だが……こればかりはなんともいえないな」

 ウーミンは言葉を濁した。そう、これが『予測のつかないこと』なのだ。
 現時点で、胡が堯と同盟しても、胡には大した利が得られない。彼らの間には、これという差し迫った利害問題がないのだ。仮に慶が喬に持ち掛けたように、領地山分けを提案したとしても、目下のところ領内の平定に奔走している胡にとってこれ以上領地を増やすのは得策ではないはず。強力な動機にはならない。あえて言うなら、慶という敵勢力が一つ消えるという程度だ。
 だが、同盟すれば独力で戦うよりも負担が軽くなるとはいえ、負担は負担に違いないはずだ。そこまでして慶を倒そうとするだろうか。それとも他に何かがあるのだろうか。

「……俺だったら何もしないで見守るけどな。あわよくば共倒れで漁夫の利狙えるし」
「お、おい」

 さらりと放たれた言葉の内容に、男がうろたえる。下手をすれば不敬罪にも問われかねない発言である。『上』の耳にでも入ったら大変だ。
 男は思わず入り口の外を振り返る。
 一方、当のウーミンは気にした風もなくあっけらかんと続けた。

「ま、これはあくまで憶測だ憶測。もっと頭のいいやつが、俺らには考えも及ばない賢い考えを持ってるんだろうよ。さぁ、折角の夜なんだから、こんなきな臭い話はおいて、飲もうじゃないか」

 一転ぱっと表情を明るくして、半分空になっていた男の盃に酒を注ぐ。その瞳にはもう先ほどのような理知の光はなく、いつもの抜けていて飄々とした一兵卒に戻っていた。
 男はホッとした様子で「そ、そうだな」と応じ、すっかり止まっていた手の中の盃を動かす。何杯目かですぐにまた酔い始め、先ほどの話は頭から綺麗に薄れていった。
 しかしウーミンは、男の盃に酒精を注ぎこみながら別のことを考えていた。
 今日の戦いである。
 どこか腑に落ちない。なぜ于卷はわざわざ自ら負けるような行動をとったのだろうか。何か裏があると思うのだが、どうにもそれが読めない。
 于卷自身の考えか。いや、噂を聞く限りではあの男は細かい策を巡らすような性格ではない。別の誰か、献策している者がいるはずだ。しかも一見無謀のように見えるが、実は緻密な計算を隠しているような。
 堯の高名な軍師といえば趙叡(ちょうえい)高允(こういん)あたりだか。
 いや、彼らは堯の州都寿陽で張斯の相談役になっているはずだ。その他も知りうる限りでは別の城に派遣されている。とはいえ、重要な関であれば誰かしら確かな智嚢を置くと思うのだが、もしそれが新参者であればウーミンにも見当がつかない。あるいは、内部以外で助力を乞うたか。

 いずれにせよ裏で糸を引いている人物については情報がない以上、後回しすることにする。分かればその人物の性格や癖などから鑑みて、立て得る策を読むこともできるのだが、分からないなら分からないで、戦況の動し方などから推測することもできる。
 一体何を考えているのか。何がしたいのか。何を狙っているのか―――
 こちらを油断させる狙いにしてはいささか策が雑すぎる。心理作戦ではなく、もっと物理的なものということか。物理というなら、今ここにある環境ということになるが。
 ウーミンはふと顔を上げた。今何かが引っ掛かった。

(地名―――いや、『伝説』か?)

 西側山腹に陣を構えた敵。東側に慶陣。連なる岩山。地形。落石。川に沿って敷かれた陣営。篭城しない堯軍。  もしや、と思い至る。

(確かめてみるか―――

 ウーミンは盃を口に当てながら目を眇め、心の中でひっそりと呟いた。
BACK MENU NEXT