夜が更けてから大分刻が経っていた。
 二更はとうに過ぎ、そろそろ三更になろうかという時刻である。
 険峻たる山谷に囲まれた峰路関はどこか重々しく沈黙し、ひっそりと古の趣を湛えている。戦場となっている荒野は、昼間の喧騒が嘘のようにしんと静まり返り、いっそ不気味なほど寂寥としていた。
 そんな中、西を流れる河の近辺だけが、ささやかに活気づいて明るかった。
 常ならばたかだか緒戦の勝利程度でいちいち酒宴などは開かないものだ。
 だが夕燕城から約一ヶ月、峰路関まで休みなく行軍して来たため、今夜は兵達の労苦をねぎらい、また明日の戦いに備えて士気を挙げるため、特別に酒が振る舞われた。これはある意味では夜襲の懸念がなくかつ翌日の勝算があるからこそできることでもある。
 これに兵達は大いに喜び、振舞われた酒を遠慮なく味わって、それぞれに盛り上がっていた。

 宴はまだ終わる気配を見せておらず、慶陣営は多数の男たちの声でにぎわっている。
 ウーミンは頃合を見計らって宴幕からこっそり抜け出すと、あたりを見回してから人目につかぬよう身を低く下げ、陣営の外れまで走った。
 外は一面の暗闇である。天幕の間近くでこそ灯りが絶やされることなく点されているため昼のように明るいが、一旦幕の群から離れてしまうと、後はもう山間の暗黒が広がるのみだ。
 気配を巧みに消し、闇に身を溶け込ませる。衛兵牙門兵を含め、その存在に気づく者はいない。
 此度の慶陣営は河を背にしている。河岸には背丈の高い細い草が無数に生息しており、めぐらした陣営の木柵の南側一辺がそこに接していた。
 野戦の陣営を構える上で重要となるのは、飲料用の水源と、馬の餌や燃料にするための草、同じく燃料用や資材となる木の確保である。そういう意味でこの場所はその条件のうちの二点を満たしていた。付近に台地か丘陵があればなお望ましかっただろう。これもまた兵法に、基本的に低地は防御力に乏しく、水浸しになる可能性があるので適さないとされているからだ。
 だがそんなに都合よく好条件が揃うほど現実は甘くない。代わりとして慶軍は、陣営建設の際に掘り出した塹壕の土を積み上げて一部の土台を小高くした。環境が適合しないのならば、適合する環境を人為的に作るのもまた戦である。

 ウーミンは南の柵脇までくると、高さを確認した。前のように小刀を使ってもよいのだが、今回は出先で入用になるかもしれないため温存しておきたい。
 仕方ないとばかりに嘆息し、少し間を空けてから助走した。柵に向かって突進し、あわや衝突するという直前で足を上げ、勢いのままに直立の木面を斜めの軌跡で駆けあがった。先端まで至って爪先で蹴り、軽やかな身のこなしで柵ごと塹壕までも越える。多少物音は立ったかもしれないが、幸い宴会の音にまぎれて気に留めるほどにはならなかっただろう。

(軽功は気を消耗するからな。後々のために節約しないと)

 心の中でごちながら、肩ほどの高さのの草むらに身を沈め、周囲に敵方の偵察等がいないか確認する。
 そのまま深呼吸を繰り返した。輪郭が溶け、闇との境界が曖昧になる―――そんな感覚をゆっくりと体中に行き渡らせてから、草むらからそっと忍び出た。陣営の望楼を確認する。中にいる兵は退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、ぼんやりしている。
 楼閣の上にいる物見の兵に気づかれぬように周囲へ細心の注意を払いつつ、ウーミンは闇へ向けて地を蹴った。
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