峰絽関は四方を山に囲まれており、兵法でいうところの天井、すなわち四方を聳える壁に囲まれ井戸のようになった地形だ。
 南側は山峡澗になっており、慶軍はそこから進軍して来た。関自体は北側の山の中間に位置しており、山を越えた更に北が研州である。通常、山上に陣を据える場合、敵方の陣容を一望できるという利点がある反面、水源の確保が難点となることがあるが、関の真横には漪南川が滝となって流れ落ちているため、堯軍が水に困ることはない。これが峰絽関を難攻不落の城砦にせしめている環境要件でもある。
 于卷率いる堯軍陣営は関を出た先、東側の山肌に陣を構えている。その真下は他のところに比べると緩やかな傾斜になっていた。恐らく関所への通路として人工的に作られたものなのだろう。つまり堯陣に攻め込む、もしくは関に行くには、東側に設けられたその坂を登るしかない。そこ以外はほぼ地面に垂直の絶壁となっており、軍馬が登ることはとてもできなかった。

 それらの急な傾斜地帯は、麓に鬱蒼と葉を茂らした樹々が広がっていた。森というほどではないが、山裾に沿って帯状になっている。一旦その山林内に入ってしまえば、外からはそう簡単には見つからないだろう。
 ウーミンは方角で言えば北西へ―――堯陣営の真下に流れる緩い斜面ではなく、南に外れた箇所を目指した。遠目にも夜闇に黒抜きされた林の輪郭がぼんやりと浮かんでいるのが見える。
 真夜中の林は、不気味に静まり返っている。好き好んで近づく者はそういないだろう。
 木々の合間に存在する筒闇は、何かそこにうごめくものの気配を感じるような錯覚を与える。時折風に揺れる枝々が、まるで別の生き物のように見えることもあるかもしれない。またはさやさやという葉擦れの音が、此の世ならぬ生きものの声に聞こえることも。

 その中、ウーミンは危うげない足取りで迷いなく奥へと進んでいった。
 崖となった山の下まで来ると、立ち止まって上方を見上げた。首を戻し、少しの間逡巡する。
 それから再び上を見上げ、両手を胸の前で軽くこすり合わせると、軽く地を蹴って跳躍した。
 傍らにあった樹の枝を掴み、その枝を軸にくるりと身体を回して枝の上に乗り上げる。これを繰り返して上方へと移動した。
 枝が細くなり体重を支えられるギリギリのところまで上ってから目を凝らせば、闇の中にごつごつとした岩肌が浮かび上がる。
 今夜は朔の日。新月の夜であり、あたりを照らすのは弱弱しい星の光だけ。かえって好都合だった。光源がより少ない方が闇に紛れることができる。
 人が暗闇を恐れながらもどこか不思議な安堵を覚えるのも、或いは己の身が他人の目から隠されるからなのかもしれぬ。そんなことを取りとめもなく思うウーミンの瞳には、目指す目標地点がはっきりと捉えられている。朔夜でも目は利くので動くのに大した支障はなかった。

 ウーミンは枝の上に直立すると、袖口から一振りの剣を取り出した。
 細身の短剣。鞘にも何にも包まれていない、抜き身の刃である。夕燕城の一件で、陣営から忍び出る際に用いたうちの一振りだった。
 一見女性などが見に忍ばす護身用程度の短剣だが、その強度は比較にならない。薄刃の頼りない見てくれに反して、かなり信用できる一物だ。
 短剣を右手に下げ持ち、膝を伸縮させて己が今立っている枝を揺らした。その振動に葉葉が鳴り、うち何枚かがハラハラと下に舞い落ちる。
 ある程度揺れの幅が広まったところを見計らって枝を強く蹴り、それをバネ代わりにして、「よっ」という掛け声とともに高く飛んだ。

 岩肌と、その樹との間にはそれなりの広さがあった。が、ウーミンはそれすらを軽々と飛び越え、岩肌へ短剣を両手で思い切り突き刺した。
 ガッという強い音に続いて、ギギィーッと耳障りな響きが立つ。軽功で体重を軽減しているとはいえ、さすがに短剣一本では完全に支えきるのは難しかったのか、重力に引きずられ刃が岩壁に深い溝を刻む。だが必要なのは、一時だけ体重を支える時間だ。
 ウーミンは落下速度が緩む一瞬で、即座に短剣から左手を離し、適当な出っ張りを探って掴んだ。
 とりあえずそこで一息をつき、今度は足先で取っ掛かりを探す。
 そうして足場を確保した後、突き刺していた短剣を引き抜いて、更に上方へ突き立てる。柄を握りなおし、右手一本で身体を引っ張り上げて、同時に足で更なる足場を確保する。命綱なしながら慣れた仕草で身軽に岩肌を登り始めた。
 ほどなくして岩棚となっている崖の上に辿り着く。
 この辺りの山は自然の為せるわざか、山肌に階段状に崖ができている。幅は大の男でも5人は余裕があるくらいに広い。
 ここからでも敵陣がかなりよく見ることができた。あともう三段ほど上の岩棚まで行ければ、陣営と同じ目線になるだろう。
 ウーミンは軽く肩をまわす。このまま上を目指しても体力的に支障はなさそうだったが、ひとまず己の立つ場所を素早く観察した。眼下には先ほどの林が鬱蒼と影を伸ばしているのが見える。目測で四引強は登ったと思われた。
 あらかた現在位置を確認し終えると、ウーミンはおもむろに聳え立つ岩山に掌を触れた。ごつごつした手触りが返ってくる。まだ寒い時期ではないが、岩肌の表面はひんやりとしていた。今度は拳にした手甲で叩く。こんこんと触診をする医者のような手つきで岸壁に触れ、そして次に耳を当ててみたりする。更には地面に四つん這いになって、落し物でも探すように這い回り、またもや何かを聴こうとするかのように地に耳を当てる。
 やがて気が済んだのか立ち上がると、今度は駆け足で崖道を南に辿り始めた。―――堯軍陣営側へと。

 静寂と暗闇が、辺りを包んでいた。
 多くの生物が活動を休止しているせいかひどく静かである。そのくせどこかその静寂が耳につく感覚を覚えるのは、夜になって活動する生物がいるせいか―――それとも、目には見えない何かの声音なのか。
 闇が重くのしかかってくる。濃密な夜の匂いを感じる。時折夜露を含んだ緑の芳香が鼻をくすぐる。
 ふと、遠くで獣の咆哮が聞こえた。顔だけ振り返る。野犬か、狼だろうか。もしかしたら山野を渡る風の音かもしれない。
 視覚が封じられている分、他の感覚が通常より鋭敏になっている。そして視覚が使えない分、それらの感覚だけが頼りである。だがそうすることで、逆に目を使うよりも不思議と物事がよく視えてくることもある。物事の本質を、明確に視ることができる。
 人間の感覚の大幅を支配するのは視覚であるという。それだけ普段人間が目に頼りすぎているのであり、そして目に見えることに惑わされているということなのだろう。視覚を使わずに、他の感覚で物事の本質を見極める―――それを『心眼』と表現したのは誰だったのだろうか。

 そんなことに思いを馳せながら、ひたすらに感覚だけを研ぎ澄ます。この暗さの中で頼れるのは自分の感覚だけ。視覚以外の、聴覚、触覚、嗅覚―――そして直感。今まで積み重ねてきた経験に基づく知覚だけで、すべてを判断する。
 夜の山道はそこここに危険が潜む。一歩先は暗闇のため、いつどこに何が待っているかわからない。いくら夜目が利くとはいえど、限界というものがある。
 それでも確かな足取りで進んだ。走りながら常に何かを調べるように岩肌に掌を当てる。時に立ち止まっては地面の状態も見た。
 そんなことを繰り返しやっているうちにある場所へ到達して、不意にウーミンは足を止めた。上を仰ぐ。視界には依然として漆黒の闇が広がっているだけで、他は何も見えない。
 だが、彼はそこに何かを視た。
 おもむろに右手で拳を作ると、気合を込めて岩壁に強く打ちつけた。岩が大胆に欠け、大きな円を描くように凹み、罅割れが網目をなして放射状に走る。
 遠く上方で、微かに音がした。
 その音は消えることなく、むしろ徐々に大きくなっていく。
 ウーミンはゆっくりとその場を後退する。顔は上を見つめたままだ。
 カランカランと夜闇に輪唱し、反響しながら次第に近づいてくる音。
 それはこちらへ向かっていた。
 そして迫り来る音の正体が、目に捉えられるほどの位置に現れた瞬間―――

 大きな振動と音が己の立つ位置まで伝わってきた。跳んでくる破片を避けるため翳していた腕を下ろし、ウーミンはあららと眼を瞬いた。
 岩道上にバラバラに散らばったそれ。かろうじて今だ塊の形を残してはいるが、回りに砕け散った破片の程から、元の大きさよりは大分小さくなっていることが分かる。
 しばし見つめてから、なるほどこういうことかと顎を撫でた。
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