翌朝は曇り空だった。灰色の雲がどんよりと厚く重なり、太陽の光を通さない。
 そんな重苦しい空気が、地上にまで圧迫感を与えていた。
 起床の太鼓が鳴り、兵たちはぞろぞろと幕内から出て来る。皆まだ完全に顔色から疲労が抜けきってはいなかったが、それでもある程度寝て体力が回復したのか、きびきびとした動作とやる気に漲っていた。
 戦闘準備に入る。鼓声が鳴り響くと、兵卒達はそれぞれに鎧や武器を装着しだした。戦場では、(はた)や太鼓の音等が合図または指示である。この戦鼓の連打一通で、歩兵や騎兵は装備着用を始める決まりだ。
 二度目の鼓音が鳴った。戦鼓の再通を聞くや、騎兵は馬に乗り、歩兵は決められた配置につく。
 そして三通目が鳴ると、部隊は決められた順に出発し、幡(指揮のための旗)の示す指示に従って移動し、幡の後方に集結した。
 更に続く急鼓の音を聞いて陣を整え、ここで布陣は完了する。
 諸部曲の指揮官が、大声で兵曹掾を呼ぶ。自分の指揮下の兵の展開を確認し、報告するよう命を下した。
 これが『歩戦令』と呼ばれる規定による、布陣までの手順であった。布陣の手順に従わない者は斬られる。厳しい定めの元に、すべての兵が管理統括されるのだ。

 軍は大きく分けて歩兵隊と騎兵隊に分かれている。
 字の示す通り、歩兵は矛や弓弩を手に徒歩で進撃し、騎兵は馬に乗り馬上で攻撃する兵である。
 歩兵はその多くが韓族だが、騎兵に関しては、乗馬の状態で武器を繰るという高等技術を要すために、殆どが高位の官か夷狄戎と呼ばれる韓帝国外の遊牧の民に一任された。
 彼ら遊牧民は、しばしば境界線を越えて韓を襲うなど朝廷の悩みの種であり、韓族は彼らを蛮族と呼んで蔑む。しかしそれを差し置いても、非常に優れた騎馬技術を持つ民族でもあった。何せ騎馬が生活の一部だ。子供ですら馬具や防具もないまま軽々と馬を駆り、狩猟や騎射を行うのである。
 そのため韓の軍はたびたび彼らの襲撃に悩まされ、その騎馬術に手を焼いていた。

 しかしたとえ同じように騎馬の訓練を施しても、個々の才はさておき、平均技能は遊牧民に到底適わない。手綱なしで弓を引き、走駆しながら馬から馬へと乗り換え、迅く自在に動く彼等の騎馬戦法は神業といってもよかった。
 ゆえに、韓は敵対から手懐ける策に切り替えた。彼らの騎馬戦法は敵に回せば恐ろしいものだが、味方につければこれほど心強いものはない。
 そうした政策のもと、何とか支配下においた部族のうちから、騎兵隊として軍に編入していた。

 特に戯孟率いる慶軍の騎兵隊はその精鋭さで名高い。彼はこの遠征に昨年降伏させた北方の狄蚩異(しい)を主力騎兵として加えている。
 戯孟は彼らを投降させた際、その騎馬技術へ敬意を表して、それまでの呼称を駛威しい)と改め、捕らえた頭領の娑猷単于しゃゆうぜんうを解放した。すると娑猷単于は戯孟こそ天下の覇者と称え、氏族牧民を率いて慶に帰順することを誓ったという。
 このような戯孟の器の大きさが求心力となり、兵卒達の崇敬と忠誠を集めている。そしてそれによって生まれる結束の固さが、慶軍の強さの所以でもあった。人の和。戦を為すに最も大切な要素の一つである。




 そんな慶軍の、陣展開する30万の一部にウーミンはいた。
 彼が属するのは歩兵隊である。歩兵隊は更に細かい区分があり、5人1組で形成されている。この5人1組を伍となし、伍が2組集まって什となる。什が5組集まって属となし、属が2組集まって伯。そして伯が2組集まって曲となる。
 つまり人数で言えば伍5人、什10人、属50人、伯100人、曲200人となり、それぞれに頭として伍長、什長、属長、曲長がおかれる。
 これが隊形の最小単位の塊であり、この曲でやっと1部隊となるのである。
 また、その1部隊の中でも隊列の形を決める基となるのが五伍(伍が五列)の方陣であった。
 この五伍25人の区を動かして横列形や縦列形、行軍形などといった諸々の隊形を作るのだ。兵は戦場で決められた合図に従い、陣形を自在に変えていく。

 さらに伍ではそれぞれ役割分担がある。一番前の1人が弓弩、次の2人が矛、後ろの2人が戟を持つ。最前の弓弩が“(ふせ)ぎ”と呼ばれる牽制役で、真ん中の殳矛(しゅぼこ)が“(まも)り”という応戦役、戈戟(かげき)を持つ後方が“(たす)け”という援護役を担っている。
 この弓弩1、矛2、戟2の5人が縦一列に並び、同じような列が10組横へ連なれば、最前の横1列10人が弓弩兵隊、次の23列計20人が矛兵隊、後ろの45列計20人が戟兵隊となる。総勢50人。これが属の隊形である。
 そして禦、守、助の三段構えで、敵へ当たっていくわけである。
 戦法によって多少変化したり工夫されたりもするが、この体制が基本形だった。
 そしてこれらの隊形の切り替えなどが素早く的確に行えるか否かは、日頃の練兵や指揮系統の整備、用兵を行う将の手腕にかかっている。

 などと名目上では決まっていても、現実に白兵戦となると相手もこちらも勝つこと生きることに必死で、大なり小なり入り乱れてしまう。大枠の陣形は堅持されるが、細部ではそうはいかない。死んだり負傷したりすれば当然穴が空くので、常に隊形を守ってくのは至難の業だ。
 だが逆に言えば、多少乱れてくれた方がウーミンには丁度よい。そうであるからこそ、誰にも見咎められずいろいろ細工できるというもの。

 ウーミンは隊列の丁度左端中間にいた。属の中間部にあたる隊伍の矛組である。ただウーミンはいつでも矛を戦闘の初っ端に失くすので、あまり矛兵の意味はないが。
 眠たそうに目をこすり、欠伸を隠そうともしない。上官に見つかればただでは済まない。
 それに気づいた兵卒の一人が、ウーミンの脇を肘で小突きつつ声をかける。

「よ、ウーミン。昨日はどうしたんだ? なんか途中からいなかったが」

 ウーミンはいまだ夢の中みたいな眼を向け、ぼんやりと答える。

「ああ……あんまよく覚えてないんだけど、どうもオレ酔っ払って外に出た挙句そこらへんで寝ちゃってたらしいんだ。朝起こされてみてびっくりさ。おかげで大目玉食らっちまったよ」

 小首をかしげ頭を掻くウーミンの額には、見事なタンコブができていた。
 そんなウーミンに爆笑しながら一言、お前ってほんと馬鹿だよなあと放ち、兵卒は慌てたようにさっと自分の配置に戻って“気をつけ”をした。横を上官が通り過ぎる。
 そんな仲間を見やりながら、ウーミンは密かに苦笑いした。軽く額の腫れに触れる。実はこれ、昨日飛び降りた際に着地に失敗してできたものだったりする。まあそれが方便に信憑味を増す役に立ってくれるのだから、不幸中の幸いとでもいおうか。
 実際のところ、ウーミンはほんのついさっき―――起床を告げる太鼓の鳴る直前に、ようやく戻ってきたところだった。
 結局あの後、まっすぐ陣営には戻らずにあちこち駆けずり回っていたのだが、『準備』に思いのほか時間を要してしまい、気づいたら暁を迎えていたという次第だ。おかげで一睡もしていない。先ほどから連発している欠伸や寝ぼけ眼はそのためだ。

(硝石や石膏なんて久々だからな。探すのにも扱うのにも手間取っちまったわ)

 僅かに黒く煤けた己の右手をちらりと見やって、うーんと唸ってみる。
 が、いつまでもそんなことはしていられない。号令が掛けられ、兵卒たちが一斉に屹立の体制を取る。
 戦が、始まるのだ。




 鬨の声が、山谷に響き渡る。
 何十万という人間と馬が駆けて行く足音と振動が、地表を揺るがしていた。
 昨日の戦いであっさりと退いた于卷の軍は、その数が10万から7万に減少していた。50万を相手に、それでも半数以上がなんとか残っているのだから健闘したものである。逆に、慶軍が思ったよりもてこずっているのは、その地形にもあった。
 さすが天然の要塞と言うだけあって、関自体だけではなく山野全体が攻めにくい。その上地の利は向こうにある。堯の兵士達はここでの戦いに慣れているが、こちらは未経験なものだからなかなか思うように進まない。足場が悪く、馬の機動力が発揮できない悪所も少なくなかった。
 だがそれにつけても多勢である。徐々にだが、慶軍が堯軍を押しはじめていた。
 空が赤くなる頃には、すでに勝敗の結果は見えそうだ。ここまでは昨日と同じ展開である。もう少しすれば于卷軍が後退を始めるだろう。

(そろそろだな)

 ウーミンは遠くで土埃を上げる前線を見やり、目を眇めた。そろそろ敵が退却の態勢を見せはじめる。その前にやらねば。
 目の前に立ちふさがる敵を適当に流しつつ、目測をつけて上手い具合に攻撃を受けたふりをし、倒れこんだ。土埃や兵たちの足林に隠れながら屈むようにして移動し、隙を見て素早く戦闘の場から離れる。
 命が惜しくなって戦場を逃げ出す逃亡兵というのはさほど珍しくはない。しかし隊伍などにおいては命令に背いたり陣形を乱したり、または逃げようとしたりする兵は、隊伍の最後尾で監視する伍長などに問答無用で処罰される。これも『歩戦令』に定められており、従わぬ者は軍律違反として即刻手打ちに遭うわけである。
 だが一旦自分の隊伍が目の届く位置から離れてしまえばこちらのものだ。その上ほとんどの兵が己のことだけで手いっぱいで周りを見ていない。
 身を低くして誰にも不審がられずに場を横切ってゆく。途中襲ってくる敵兵もいたが、上手く脇をすり抜けた。
 至ったのは荒野の端の草むら。戦場となっているこの平野には、ゆるやかな起伏に従って叢や数本の樹の群生が点在している。これもまた陣形を邪魔し野戦を困難にしている要因でもあるが、それは両軍双方に言えることでもあった。むしろ少数の堯軍にやや利するか。かといっていちいち切り倒すわけにもいかない。

 ウーミンはそこへ飛び込むと、人目につかぬよう近くの樹へ登り、枝から別の樹の枝へと飛び移る。樹が途切れれば、次の集林地点まで素早く渡る。目的地に進むにつれ、土煙の立つ前線が間近に迫ってきた。
 鬱蒼と生茂る樹に登ったウーミンは首をめぐらし、あらかじめ印をつけていた幹を見つけると、そちらに移動する。なかなかに立派な樹だった。木葉も豊かに茂っており、内側の枝や幹などは、外からは隠れて見えないほどだった。
 誰にも姿が見られぬよう枝影の間に身体を深く沈める。そして顔を上げた。太い幹が上に伸び、途中から突き出ている無数の枝が網状に広がって、茂った葉が樹を覆っている。空は曇り空なので木漏れ日とは行かないまでも、葉の間からちらちらと白い光が見えた。
 しかし、その樹にはほかの樹とはすこし異なるところがあった。
 よくよく目を凝らすと、枝分かれした股の部分に、何やら丸い塊がくっついている。片手に収まるほどの球状の物体。しかし木の実ではない。明らかな人工物だ。
 麻布が巻かれたそれらは、一部から黒い紐のようなものが一本出ており、枝に数個ずつまとめて縄で括り付けられていた。

 ウーミンは一つ一つ慎重な手つきでそれを取っていく。急場で作業したため球形は大小さまざまでいびつだが、いずれも硬くずしりとした密な重みがある。
 まずはいくつかを懐に入れ、片手に一つ持つ。後は残して一旦一つ下の枝に降り、幹を背にして隠れた。
 この枝が一番安定した足場であり、なおかつ行動しやすい。
 足の下では激しい争いが繰り広げられており、様々な音が行き交っていた。
 それをちらりと一瞥し、手に持つものに目を落とす。上手くいってくれよと念じ、にやりと笑んで、玉から伸びる黒い紐に向かっておもむろにふっと息を吹きかけた。
 途端、紐の先に乾いた音を立て火が点った。
 それを、身をねじって幹の影からそっと放り投げる。
 玉は緩やかな曲線を描いて、ぽとりと地面に落ちた。慣性に従ってころころと転がり、止った先は慶軍の武将が乗っている馬の足元。武将は飛んできた異物に気づかない。
 そして―――
 轟音と熱と光が放たれた。
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