その夜は、前夜とは打って変わって酒盛りに夢中になる堯軍の陣営があった。
 陽気に笑いに包まれている。軍の酒宴は、どこも似たり寄ったりである。今日の戦いの余韻に浸り、命があることを感謝する。敵か味方かというだけで、どちらも同じ人間なのだ。
 そう、同じ人間―――
 楽しげに明るむ堯の陣営の中に、一人だけいるはずのない人間がいた。ウーミンである。
 なんと彼は慶軍の退却に従わずに、混乱に乗じてそこら辺に倒れていた堯兵の鎧を剥いで身につけると、堯軍の陣営にこっそりと入り込んだのであった。
 もちろん堯軍が点呼をしている間は適当な場所で身を潜ませていたが、宴になってから忍び出てきた。
 なにしろ相手は同じ人種。髪と目と肌の色が違うという遥か西国の人間や、特徴ある異民族でもあるまいし、同じ韓人同士で出身などなかなか判別はつかない。
 それでも通常は警戒をしようものだが、

「俺だよ~。もう忘れたのか? ひどいなぁ」

 当の本人は無防備を晒してすっかり溶け込んでいた。
 どうせ兵同士も10万もいる味方全員の顔を覚えているわけではない。おまけにほとんどの兵は酒を飲んでほろ酔い気分なわけだから、巧みに誤魔化すことなど苦はなかった。
 だがウーミンは別に酒をたかりに来たわけではない。そもそも“勝ちを祝う酒宴”自体、五分五分の読みだったのだ。
 一連の出来事は堯陣営の智嚢にも当然伝わっているだろう。それも堯側の策略という風聞も含めて。上層部はこれが自分達の策でないことを痛いほどよく承知している。だがここで否定してしまえば、士兵に余計な動揺を与えかねず、「慶軍には何やら恐ろしい兵器があるらしい」という恐怖心をいたずらに植えつけることになる。かといって否定も肯定もしなければ、兵達の中で「結局あれは何だったのだ、実は堯ではなく慶の策だったのでは」と疑心が芽生え、やはりよろしくない。となると手は一つ、肯定するしかない。全兵に手っ取り早く「堯の策略勝ち」を印象づけるには、演説をするか祝宴をするか、あるいはその両方だ。

 堯もこれが慶側の罠であり、酒に酔い油断したところに夜襲をかけられる可能性は警戒したはずだ。それでも酒宴に踏み切ったのは、ひとえに前線に現れた戯孟が関係しているだろう。総大将自ら前線で出て退却の指揮を執った―――もし仮に全てが慶側の仕込みであり、慶兵の動揺も演技だったとするなら、前線に出てくる将は戯孟でなくても十分に役割を発揮できるはずだ。何もわざわざ要らぬ危険を冒す必要はない。
 すなわち、あの爆発は慶にとっても料外のことであり、夜襲の可能性は低いと堯の参謀は判断したのだろう。であればなおのこと、この騒ぎは全て堯の意図するところだということを“内外”、つまり自軍だけでなく慶軍にも示したいはず。慶兵の士気を挫き、警戒心で動きを鈍らせる効果が期待できるからだ。すると選択肢は自ずと酒宴に行きつく。
 この作戦の肝は戯孟を前線に引っ張りだすことだったが、彼の性格なら十中八九出てくるだろうとウーミンは読んでいた。

(酒宴を選んだということは、あれが慶の策ではないこと、そして自軍の士気を高め敵軍の士気を損ないうる好機と見なしたということだ。堯軍の頭脳はなかなかの智者と見える。並みの軍師であればそこまで遠望できず、むしろ大事をとって演説程度に留めただろうに。俺的にはその方がかえって困るから今回は助かったが)

 宴があれば入り込みやすいと思っての細工であったが、無ければ無いで別の策も考えていた。読みが的中して何よりであるし、ついでに敵軍の知力も測れて一挙両得だ。
 怪しまれないように適当な幕に入り、酔っ払って我を失っている数人に目をつけ、彼らと知り合いであるというありもしない事実を作っておく。
 しばらく人々の会話を観察し、大人しく人の好さそうな者に狙いを定め、

「よう、元気か?」

 と言って酒を進め、

「おう、上々だぜ」
「そうか、それはよかった」

 と言いつつ更に酒を勧めながら世間話をし、

「つーか、おめぇ誰だ?」

 と訊かれたらすかさず、

「おいおい、何言ってんだよ。俺のこと忘れたのか?」

 といかにも傷ついた顔をする。
 強気な者であればともかく、気弱な者は大概は「いや、ああ、そういえば」とか言い繕う。
 更に念押しで

「前に一緒に語り合った仲じゃないか」

 とかなんとか適当なことを加える。
 前って何時だとか思うが、相手は酔っているものだからあまりそういうところは気にせず、なんとなくそんな気になってくる。

「ああ、そういえばそうだったな。覚えてる覚えてる」

 ここで工作完了。あとは適当に雑談をして早々にそこを立ち去る。結局名乗りはしない。
 こんなことを数回繰り返しておいて、ある程度したところで本題に入る。
 ウーミンは同じ手口で知り合いを装って近づいたある男に、世間話ついでのようにさりげなくきり出した。

「にしても今日のはすごかったなぁ」
「あ?」

 言葉の意味がつかめず、男が訊き返す。

「慶軍だよ慶軍。潮が引くように逃げ帰っちまったじゃないか」
「ああ、そうだなぁ。ありゃなんだったんだろうなぁ」

 間延びした調子で相槌を打ってくる。その男の杯に酒を注ぎいれてやって、

「于将軍もすごい作戦を考えたもんだなぁ。尊敬しちゃうよ」

 感極まったように言う。すると男は間髪いれずに言ってきた。

「ちげぇよ。ありゃ将軍の作戦なんかじゃねぇさ、多分」

 あぐらをかいた膝に杯を持ったほうの肘をつき、投げやりな風情で吐き捨てる。
 ウーミンの瞳に光が閃いた。

「え、違うのか?」
「おめぇ、あの将軍があんなこと思いつくと思うかぁ?」
「うーんどうだろ。ほらオレ頭悪いから」

 男は仕様がないと言った風に大仰に溜息をついた。酒をなめつつ、説明する。

「あれは、アイツの考えさぁ」
「アイツ?」

 干卷以外の誰かを指しているらしい。男はまどろっこしそうに空を手で掻いた。

「あいつだよあいつ。ほらなんつったか……ああ、そうだ陳……陳雨? とかなんとか」
「陳雨―――?」

 鸚鵡返しに呟くウーミンの目が一瞬だけ鋭く細まった。

「そうだ陳雨とか言う奴……って、お前知らないの?」

 男の顔が訝しげにゆがめられる。ウーミンは男に不信感を芽生えさせないようすかさず誤魔化しを口にした。

「いや。あいつ、信用できるのかなぁって思ってさ」
「だよなー? ほんと、どうかしてるぜ于将軍も。あんな得体の知れない奴の言うこと聞くなんてさ。どこの馬の骨ともわからねえのに」

 ウーミンの言葉に口が軽くなっている男は頷き、ここぞとばかりに言い募る。どうもその名を口にするのは本来禁忌なようで、声は抑え気味だ。
 しかしウーミンはそれを聞いていなかった。自分の思考の海に沈んでいく。

 陳雨―――

 それは近頃、風聞でよく聞く名だった。
 字を公嬰と言い、確か年の頃はウーミンとさほど変わらないはずだ。歴戦の将からすれば青二才と言ってもいいだろう。ウーミンも人のことは言えないが、だからこそ年齢と才覚が必ずしも比例しないことをよく知っている。
 陳雨は煌川に並び世に名高い胡領廉靜(れんせい)郡の人という話だが、近年呂伯の麾下に加わり頭角を現してきたという期待の若手だった。しかも、ウーミンは実際に会ったことはないが、相当な美形で、文武に通じ、楽の名手でもあり、まさに才色兼備が服を歩いているような人物と聞く。口さがない者たちからは若僧よ生意気よと陰口も叩かれているとのことだが、その男の能力の確かさは見識ある士大夫らの情報網においてはすでに当たり前となっていた。

(まさか、ここで本当に胡が出てこようとはな……一体何が目的だ?)

 ウーミンは胸中で言ちると、今だに不平を並べている男を見る。
 他言無用な機密を知っているのであれば、それなりの階級なのだろう。幹部級や将軍級は天幕が異なるはずだから、中級の長あたりといったところか。

「っていうかさ、陳雨って結局何のためにここにいるんだろうな」
「ああ? さぁな。俺ゃあ知らねーよ」
「そうか……」

 他にも何か知っているかもしれないと踏んだのだが、生憎当てが外れたようだ。この男からはこれ以上聞き出せそうにもない。
 ウーミンは適当なところで見切りをつけると、ごく自然な形で別れを言う。男はそれにああ、と言って手を振ると、盃を呷った。
 天幕を出たウーミンが最後に寄ったのは、顔欣(がんきん)という男のもとだった。
 堯軍の斥候をしていて、なおかつここの地形や気象に詳しい男だと、これまで幕から幕へ渡り歩く中で情報を得ていた。
 居ると聞いた幕に入り、近くにいた兵に尋ねる。赤ら顔の兵卒が指した指の先には、頭に白いものが目立ち始めている初老の男が盃を片手に座っていた。
 男達はどうやら大分酒が入っているらしく目が虚ろだった。ここでもしばらく様子を見てから、ウーミンはこれなら行けるなと唇を舐めた。
 数人と談話中の顔欣の背中に、酔っ払いの振りをして持たれかかる。

「厳初さ~ん」
「な、なんだぁお前??」

 突然背中にのしかかってきた馴れ馴れしい青年に、顔欣は怒りと困惑のない交ぜになった顔を向けた。

「酷い、オレのこと忘れたんですか」

 厳初というのは予め聞いていた顔欣の字である。

「忘れたなんも、初対面だと思うが」

 顔欣は迷惑顔でそう言われ、おやと思う。どうやらこの男は酒に飲まれてもすぐに切り替えができる口のようだ。
 これはなかなか手強そうだな。ウーミンはそう感じると、次手を打った。
 不意に俯く。

「どうした。飲みすぎか?」

 俄かに様子がおかしくなった妙な青年に男達が不審そうな表情を浮かべた。と―――
 唐突に、泣き出した。声を上げて、とまではいかないが、それなりに激しい感じで嗚咽する。
 これにはさすがの顔欣もびっくりした。どうしたものかと慌てて口を開く。

「お、おい。何だよ泣き上戸か?」

 とにかく肩に手を掛け揺すってみる。が、ウーミンは一向に泣き止む気配がない。さっきまで談笑していた仲間の視線が何故かちくちくと痛い。一体俺が何をしたと、顔欣は顔を顰めた。そうは思っても目の前の事態は変わらない。うううう、と呻くような泣き声は、啜り泣きに変わっていた。
 仕方ないと思ったのか、顔欣は色々と話し掛けてみる。

「おい、こら。お前男だろ? 男がめそめそ泣くんじゃねぇや。みっともねぇ」

 顔欣としても、自分でも慰めてんだかけなしてんだか分からなくなってくる。酔いの回った頭じゃ現状を冷静に分析することもできず、適当な言葉も思い浮かばない。

「おいってば」

 何度かの呼びかけで、やっとウーミンは反応を返した。

「言ったのに……」
「え? な、何を?」

 とりあえず会話ができたことに顔欣は心底ホッとしたものの、しかしそこからの内容が理解できずに、いよいよ困惑する。

「俺、この間移動中に落とし物したって話したじゃないですか。厳初さん、ここらに詳しいから、地形とか道とか後で教えてくれるって」
「あ、ああ……そうだったっけか?」

 なんとも言えずあやふやに答える顔欣。と、また俯いて泣き出したので慌てて大声で言い直した。

「ああそうだった! 思い出したよ、確かそうだったな!」

 すると、今度はウーミンはじとりとした眼で睨んだ。

「何を失くしたつったか覚えてますか?」
「え、ああ、ええ……」

 再び俯きかけたウーミンに、顔欣はやけくそで叫んだ。

「俺ももう歳なんだよぉ、もっかい教えてくれ!!」

 最早顔欣のほうが泣き出しそうな勢いだった。
 その様子を嘘泣きの下から見て、ちょっとウーミンは憐れになり謝罪した。無論、心の中でだが。
 こうしてウーミンはまんまとこの山野の地形、そして気象を根掘り葉掘り聞き出したのだった。
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