その頃、同じ堯軍陣営のある一幕では、薄暗闇の中で密かに軍議が行われていた。将軍である于卷のために張られた専用の天幕は起居と執務のため、牀台(しんだい)と大きめの(つくえ)が用意されている。
 その幕舎の中に今、二人の人間がいた。一人は口周りに鬚を蓄えた、いかにも武人然とした筋骨隆々の男。甲冑を身に着けたまま牀に腰をかけ、先程から落ち着かない仕草をしていた。この幕の主にして峰絽関防衛総大将の于卷である。
 一方もう一人は秀麗な白皙の面を厳しくし、柳眉を寄せている。こちらは佇んだままで于卷を静かに見据えていた。
 陳雨、字は公嬰。その人だった。
 二人の姿を、燭台に灯された明かりが照らす。火の揺れに合わせて、影が布の壁や地面に伸び縮みを繰り返している。気まずい沈黙が漂っていた。
 陳雨は気難しげに歪めた表情を崩さないまま、先ほど言った言葉をもう一度反復すべく、口を開いた。

「あれは我が策ではありませぬ」

 きっぱりと、そう告げる。于卷を射抜く眼光は鋭い。
 于卷の肩がぴくっと揺れる。傍目からも動揺しているのが分かった。

「だ、だがそれではあれは慶の計略だと申すのか?」
「現時点では判じかねます」

 素っ気ない声に、于卷の顔が上がり陳雨を見た。その顔面には明らかに困惑の色が浮かんでいる。
 陳雨は二呼吸ほど置き、目を伏せて嘆息した。

「退却の際、堯の罠だと叫ぶ慶兵の声を、我が方の何人かが耳にしたそうです。話によれば、戯孟の姿も前線付近にあったとか。戯孟は慎重な男です。余程の理由がない限り、前線に出ることはない。仮にこれが彼の策であるならば、本人は後方に構え適当な将を遣らせればよいものを、総大将自らがあえて危を冒して出てきたのは、彼らにとってもあれが慮外のことであったためです。百歩譲ってあれが慶の策だとしても、何の意味もありません。むしろこちらに利する結果となった」
「だ、だからわしはお前の作戦なんだろうと……」
「違います」
「じゃあ一体何者の……」

 ますます語尾が弱くなっていく于卷に、陳雨は再度ため息をついた。まったく図体ばかりでかくて情けない。普段は温厚なはずの瞳は、今無機質に冷たく光り、暗にそう言っていた。
 于卷の方は于卷の方で、どうもこの陳雨という男が苦手で仕方なかった。堯と胡の密約により胡から派遣された凄腕の軍師というが、若手だと聞いていて侮っていたら、これが予想以上の切れ者だった。
 確かに頭の回転は頗るいい。今回の全ての作戦を考えたのも彼であり、ほぼその計略通りに進んでいた。
 だが、今まで武力一辺倒でやってきた于卷にはどうも肌が合わない人間らしかった。

「分かりません。しかし―――
「し、しかし?」

 于卷が反復して先を促す。
 陳雨は遠く―――幕布の向こうの遥か遠くを見晴かすように、目を細めた。

「あるいは何者かが、我等の預かり知らぬところで動いているのかもと。喬か、慶か……」
「胡は、あり得ないのか?」
「私がここにいることは極秘です。慶はおろか、胡侯幕下でさえ知る者はほんの一握り。まあそれも知れ渡るのは時間の問題……将軍が軍中に私の存在を言わなければ、もう少し長く隠しおおせられたでしょうが」

 うっと于卷が首を竦める。陳雨が到着したその日、彼のことを軽んじていた于卷は、陳雨の一番最初の申しつけを忘れ、うっかり彼の名を軍中で口にしてしまったのである。
 幸い、間諜の有無を確認した後であったので、慶に漏れる心配はなかったが、おかげで兵たちに厳重な戒口令を敷いたりなどと対処をせねばならず、初日から陳雨は于卷の尻拭いに余計な手間をかけさせられる羽目になった。
 思えば、あの時から今の関係が決まっていたのかもしれない。

―――とにかく今はこの戦に胡が関わっていること自体、他の誰にも知られていないのです。大体にして胡の誰かがわざわざ私に黙ってそんなことする理由もない」
「確かにそうだが」

 于卷はいまいち冴えない声で応える。
 と、ふと思いついたように問う。

「そういえば、作戦の方はどうなっている」

 話題が変わったことで、陳雨はすこし顔の緊張を緩めた。

「準備は整いました。あとは天の時を待つのみ」
「そうか」

 それを聞いて于卷はホッとした様子で黙り込む。その姿を一瞥し、また陳雨は遠くへ目をやった。瞳の色が思慮に深まる。

(あの爆発……)

 陳雨の頭には一つの可能性が浮かんでいた。誰かが単独、もしくは数人の(まとまり)で、暗躍しているというものだ。
 何となくではあるが、この酒宴自体が恣意的に誘導されたもののように思えてならなかったからだ。かといって酒宴を中止しするには、その後の兵の反応が気がかりで、天秤にかけるにはやや危うすぎた。
 万に一つ、これが何者かの意図した流れだとすれば、恐らくは酒宴に乗じて行動に出るはず。その可能性に思い至ったからこそ、陳雨はすでに全軍に命令を発していた。一人でも怪しい者や見慣れぬ者を見つけたらすぐに捕らえるようにと。
 だがあまり期待はしていなかった。怪しい者ならともかく、見慣れぬ者といっても、所属部隊が異なれば互いにほとんど面識のない者同士なのだ。ただ、斥候の類ならば厄介だが、少なくとも奇襲は防げる。10万の陣営を攪乱するには相応の人数が必要だろうし、陳雨が敷いた警戒態勢の中で見咎められずに行動はできまい。
 陳雨は于卷の前を辞し外に出た。暗雲に閉ざされた夜空を仰ぎ心中で問う。

 ―――果たして何者が何の目的で?

 答える者はいない。
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