一方、野戦場を隔てた慶陣営でも似たような会話がなされていた。
 主幕の内で、椅子に座る戯孟の前に李洵と智箋が立ち並んでいる。三者三様に顔を曇らせていた。

「本当にあれは堯の罠だったのか?」

 議題はもちろんそれだった。
 智箋が拱手して建言する。

「堯の罠にしては、少しばかり違和感がありますな」
「確かにな」
「最大点は、あの暴発による死者がいないこと。異変のあったところ一帯を調べさせましたが、どの死体も致命傷はいずれも刃によるもの。負傷者を集めても、軽いやけど程度でしたし……音と煙で耳と眼が使い物にならなくなった者もいましたが、大夫(いしゃ)の話では一時的なもので休めばすぐに元に戻るとのことです」
「つまり、これといった実害は受けておらぬ、ということだな」
「そうです」

 戯孟は顎に手をやり鬚を扱いた。考え込む時の癖だ。

「いかに勢いがある兵器でも、害がなければ大した脅威ではありません。一度は退却させることはできても二度目は使えますまい。わざわざ堯があの位置に陣を敷いている意味にも繋がりません」

 智箋はそこで一旦切り、鋭利な瞳を伏せて言った。

「無論依然として堯の計略という線は捨てきれませんが、(こちら)でも(あちら)でもない第三者が単独または複数で動いている可能性は視野に入れるべきかと。目的は不明ですが」
「ふむ」

 鼻を鳴らし、戯孟は黙り込む。こんなに謎に満ちた戦いは初めてだった。智箋の意見は妥当な線だろう。だが戯孟は念のためにもう一人の重臣にも意見を訊く。

「どうだ、鎮文。お前はどう思う」

 李洵の方に顔を向ける。が、李洵は全く反応を示さない。珍しく上の空といった風情だった。
 常にないことだ。李洵は恐ろしく生真面目で礼節を重んじる性である。目前でなされる会話を無視することなどこれまで一度もなかった。だが今回は例外のようだ。余程気になることがあるらしい。
 戯孟は智箋と顔を見合わせる。智箋も同僚のいつにないただならぬ状態を訝しんでいた。ぼうとしている李洵の顔を覗き込む。

「鎮文殿?」

 腕を軽く叩かれ、ようやく李洵がハッと我に返った。目を瞬かせ、不思議そうな顔の主と同僚を見る。

「鎮文、どうかしたのか?」
「ご気分でもすぐれないので?」

 二人同時に言われ、李洵は己が上の空であったらしいことに気づき、慌てて謝罪した。

「申し訳ありません、少々考え事を」
「お前がそこまで没頭するなど珍しいな」

 揶揄する戯孟に、李洵は申し訳ございません、と謝罪を繰り返した。

「よい。お前も疲れておるのだろう。今夜はなるべく早く切り上げて休もう。では、明日の作戦についてだが」

 話が変わり、新たに顔を引き締めて取り掛かる二人を遠くに感じながら、李洵は再び思考の海に沈み込んだ。




 煌川で共に学んだ、ひとりの少年。
 色の薄い瞳と髪が特徴的な、明朗快活な子だった。年下だったが、まるで同い年の友人のように付き合っていた。彼は年に似合わず見識が広く、鋭い観察眼を見せては、しばしば李洵を驚かせた。性格は全く反対なのに、気がつけばよくつるんでいたものだ。不思議と馬が合ったのだろう。
 少年は身が軽く、特に見晴らしのよい木の上を好んでいた。お前は頭はいいくせに高いところに登るのだなと言えば、「ひどい言い草だな」と傷ついた振りをしてみせつつ、屈託なく笑ったものだった。
 頭脳だけでなく、腕っぷしも彼に比肩する者ははいなかった。生来壮健頑強なつくりでないくせに、並外れて強かったのだ。あの細い身体のどこからそんな力が出るのか、喧嘩で負けることはなかった。反面で、床に臥せることも多かったけれども。

 何故彼を思い出すのか。思い当たることはある。今日偶然ちらりと見た後ろ姿だ。
 戎服を纏った兵卒。斜め後方から、しかも一瞬だけだった。それなのに人間(ひとま)に垣間見た背に記憶の少年の影が重なったのだ。

 少年は気紛れだった。どことなく掴みどころのない性格で、一所に留まることはなく、いつもあちらこちらをフラフラしていた。煌川に来る前は武術の師について各地を旅していたのだと語っていた。親はと訊くと、遠いところと笑った。
 やがて李洵は都に行くことが決まった。孝廉に推挙されて辞退したのは、その翌年だったか。それから後、戯孟に仕えるようになった時は、而立に手が届こうとしている年齢だった。
 主君から優秀な人材が欲しいと言われ、ふと思い立って煌川に足を向けた。多忙な中に無理やり時間を作っての帰郷だった。幾人かの知人を誘うということもあったが、一番の目的はかの少年に会うことだった。彼には衆を率い君を導く器があると、李洵はずっと()ていた。
 この長い時を経て、彼が今どう成長したのか。変わらずあのままの人柄であったら、その才に更なる磨きをかけていたら、何としてでも説得して推挙するつもりだった。
 しかし、久々に帰ってみれば、少年はそこにはいなかった。人づてに、とうに旅に出たのだと聞いた。李洵が都に行ってから間もなくのことだったという。何の知らせもなかった。
 少年はふらりと現れて、またふらりと出て行ったのだ。
 それこそ、砂漠に流離うと言われる風の民のように。

 『人の出会いは縁だよ、鎮文。縁があれば、たとえ遠く離れても再び出会うことができる』

 年にそぐわぬ大人びた調子で、口癖のように言っていた言葉が蘇る。
 彼はよく一人でいた。皆と騒ぐのも楽しいけれど、一人でいて外から皆を眺めるのも好きなのだと言っていた。
 そしてまた、よく人を視ていた。誰かの細やかな変化に、いち早く気づくのも彼だった。仲違いして軋轢が深くなりつつあった二人を、気づかないところでさりげなくとりなして、仲直りさせたこともあった。
 当人達はそこに導かれたことに気づかない。周囲の人間も気づいていない。しかし李洵は気がついていた。
 そしてまた、彼は知識が豊富だった。あれを“火の薬”と呼んでいただろうか。話に興味を示した李洵へ、一度だけだが、調合したものに火を放つところを見せてくれた。あの時は音と火花と煙に、文字通り魂消たものだ。
 組み合わせ次第では天に大花を咲かせることもできるのだと彼は笑って言った。
 若輩の身ながら才知に富み、蒲柳の性ながら武勇に長け、たたびとならざる異彩を飄然と放っていた少年。
 そんな彼を、心の片隅で、実は人間ではなく人のふりをした神仙の類なのではないかと戯れに思ったこともあった。それほどまでに少年は他の者とは一線を画していたから。余人には思いもつかぬ大事を―――それが善事か悪事かに関わらず―――成しえる。そう思わせる存在だった。そしてもう一つ、そう思わせるだけのある要素を、李洵は知っていた。

 まさか―――

 李洵は天を仰いだ。




 慶陣営に戻ってきてから、ウーミンは集めてきた情報を再び整理し直した。
 まず分かったのは陳雨の関与だ。目的は今のところ分からない。ともかく胡は堯に手を貸すことにしたのだろう。少なくとも、慶を敵に回しても構わないという心算なのは間違いない。一体裏でどういった契約が交わされているかは想像が及ばないが、慶は両勢力を敵にまわしたも同然ということだろう。
 ならば慶も相応の対応をとればよいだけだが、現時点で胡の介入を知るのはウーミン一人のみである。
 幸いなのは、胡はそれでも軍までは出してこないであろうということだ。代わりに軍師を貸し与えた。優れた軍師は一人で兵馬千騎にも匹敵する。こちらはなんとか抑えるしかないだろう。厄介ではあるが、牽制する相手が一人な分楽でもある。
 そして手に入れた情報のもう一つは地形だ。顔欣から引き出した情報を、自分の足で実際調べてきた地形に重ね合わせ、再度思案する。地形に関しては単に自身の出した判断との答え合わせ程度だったが、中でも特に重要だったのが落石だ。
 恐らく喬の計略にはこれが欠かせぬ要素となっているはず―――もし陳雨の立てた作戦が考えるとおりだとすれば。
 裏づけるために知っておくべき情報があった。それを顔欣から訊き出すことが最大の目的だった。

(あとは、あれだが……)

 ウーミンは空を見上げた。相変わらず厚い雲の膜が空を覆っており、今夜は星ひとつ見えない。そして徐々に濃くなる『匂い』。
 自然の空気が変わっている。風の波紋とも言うべき調子が、不穏な動きをみせている。それを五官全てで感じ、ウーミンは眉を顰めた。

(そろそろ来るな)

 湿った気を乗せる風が、重たく吹いた。


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