緒戦から三日目の朝。相変わらずの曇り空である。明るく輝く太陽の光を浴びない日が続くと生物として必要な精気が養えず、気力がジリ貧になっていく。
 兵達はどんよりと重い空を見上げ、鬱々とした溜め息を吐く。こんな空ばかりでは気が滅入ってくる。
 しかし気分の降下は、何も曇り空のせいばかりではない。士気を萎えさせているのは、大気中に色濃くなった水の気のせいだと、ウーミンは感じていた。必要以上の水気は、体内の気の流れを乱し調子を狂わせる。
 あと一日もすればひと降り来るだろう。雨気が近付いてくるのが肌で分かる。空を振り仰げば、遥か遠く西の方に雨を運ぶ龍神の気配を感じた。

 ―――刻限が近い。

 ウーミンは心中で鳴る警鐘を感じながら、茫洋と西の空を眺めた。
 静かに佇んでいると、ふと吹いた微かな風が頬をなで、巾の垂を揺らした。
 やがて重い雨気をかき分け、吹いてきたささやかな微颸(びし)
 灰の空を映していた双眸が、不意に大きく開かれた。その瞳の奥に、輝きが宿る。
 ウーミンは堯陣営の方を振り返った。なにやら建物らしき骨組みが見える。この情報も、昨日のうちに仕入れていた。今日は早めに決着がつくはずだ。

 ―――上手くいけば、一足早く仕掛けられるかもしれない。

 ウーミンはそう判じると、いそいそと身支度を始めた。




 三度目の対戦。怒号の大合唱が渓谷に反響するのは、何度も見た光景だ。
 ウーミンは変わらず敵を適当に受け流しては逃げ、たまに仲間の足を引っ張りつつ逃げ、死んだふりをしては逃げていた。
 敵はすでに4万強程度に減少していた。対するこちらは死者数を省いてもまだ30万弱。約7倍である。投降兵もいるとはいえ、元々の練兵精度が違う。もはや勝ち目は見えているようなものだった。
 だが堯は諦めない。一夜のうちに陣営の少し下に楼閣のようなものをつくり、そこから雨あられとばかりに矢を降り注いだ。
 これにはさすがの慶とて一筋縄ではいかない。うかうかと敵陣に近づけないのだ。兵の量が多ければ多いほど、矢の当たる確率は高くなり力を削がれる。
 参謀の建言もあり、戯孟は日が高いうちから退却を余儀なくされた。




 幕に戻ると、参謀二人がすでに待ち構えていた。
 戯孟が入ってくると同時に頭を垂れ拱手する。

「樹を切り投石機をつくる」

 開口一番、戯孟はそう提案した。石を遠くまで飛ばすことのできる投石機により楼閣を打ち砕くというのだ。さすれば無暗に近づかずとも楼閣は崩れ去り、かつ、振ってくる巨石に敵はひとたまりもなくなる。そこを突けばいい。
 実は戯孟という男は大変な発明好きで、もし英雄にならなければ詩家か工者になりたかったなどと漏らすほどだった。よく一人陰で作図設計などをしては模型を組み立てて各武将に披露していたりする。こういうところ、常の英雄然とした印象と落差のある愛嬌と魅力がある。李洵らは戯孟のそうした人間臭さに惹かれ、主と仰いでいるのだから、それが戯孟を英雄たらしめる所以でもあるのだろう。得な性分だ。
 とりあえず創意工夫は戯孟の趣味であり得意分野だ。好きはものの上手なれとでもいうのか、生来器用で計算され尽くされた戯孟の作品は技巧をこらされ出来が良かった。
 その発明の一つが投石機。この時のために特別発案したものではなく、単に攻城兵器を考えていた時に閃いたものであったが、設計図は携えてきている。何度も改良も加え、実践も重ね、効果や機能を向上していった一品で、実際過去に幾度か実戦で活用し、功を収めていた。

 なるほど、確かに妙案であったかもしれない―――普段であれば。
 智箋は同意を示している。一方の李洵は何故か素直に賛成できない心地だった。
 投石機は作るだけでも少なくとも一日はかかる。その一日という単位に、何か胸騒ぎめいたものを感じずにはいられなかった。その一日を、敵がみすみすと見過ごすだろうか。どうしようもなく何かに急きたてられているような気がしてならない。焦燥にも似たこの感覚は、警笛なのかもしれない。
 智箋とは逆に浮かない顔をしている己の右腕に、戯孟は眉を顰めた。
 しかし戯孟が何か言う前に、李洵が先に口を開いた。

「殿、それはお留まりください」
「鎮文殿?」

 普段は表情の起伏に乏しい智箋が、珍しく驚き顔で李洵を見た。

「何故だ?」

 戯孟が訝しげな声で低く問う。李洵はゆっくりと首を振った。

「理由は今はまだ……あくまで私的な見解でありますゆえ」

 言ってしまえばただの勘。何の根拠もない。
 だが、歴戦をくぐりぬけてきた軍師としての直感でもあった。

「理由も言えぬのに止めろと申すか」
「はい」

 李洵は切り捨てられる覚悟で言った。

「今はまだ、と申したな。では時が到れば話せるということだな」

 意外にも、戯孟は李洵の言い分を一蹴せずに聞き返してきた。
 そのことにやや驚きを覚えつつ、

「然様にございます」
「では儂はどうすればよい」
「何も。殿には、しばしの間お待ちいただければ」
「待つ?」

 李洵は真剣な、しかしどこか必死な面持ちで戯孟に言った。

「少しでよいのです。私に時間をいただけないでしょうか。どうしても確かめなければならないことがあります。それまで待っていて頂きたいのです」

 「謹んでお願い申し上げます」と両袖を合わせて拱手し深く項垂れる。戯孟はそれをただじっと無言で見つめていた。
 戯孟は普段は上手く制御しているが、本質的には激しく荒い気性の持ち主でもある。いくら部下の意見をよく聞き入れるとは言っても、このような判然としない進言を押し付けられれば、憤慨し怒鳴りつけたとしても不思議はない。それを心配した智箋が内心はらはらとしながら二人の様子を見守っていた。
 沈黙と緊張が、その場を支配する。
 智箋は気が気でない様子で、無言の重圧に耐えていた。戯孟の口元を凝視しながら、今のうちに心の準備をしておく。
 だが戯孟の口から出たのは、危惧していた怒声ではなく、深い溜息だけであった。

「……相分かった」

 李洵がハッと顔を上げる。瞠目して、戯孟をまじまじと凝視した。
 何としてでも頼み込むつもりでいた。どんなに怒鳴りつけられようと、地面に叩頭してでも押し通す覚悟で臨んでいたのだが、案外あっさりと承諾されてしまい逆に拍子抜けする。智箋の方はといえば、やはり驚愕を隠し切れないようだった。
 戯孟は不機嫌そうな顔をした。

「二人して何を間の抜けな顔をしておる。分かったと申したのだ。鎮文、お前に時間をやる」
「よろしいのですか」

 主の言を疑うわけではないが、あまりにも思いがけない言葉だったので思わず李洵は確認してしまう。戯孟は更に顔をしかめて言い放った。

「二度も言わすな。儂の気が変わらぬうちに、ほれ、さっさとその確認とやらに行って来い」

 くるりと背を向け、シッシッとばかりに手を振って追いやる。ぽかんとしていた李洵は、慌ててありがとうございますと言うと、一礼をして幕から出ていった。
 智箋がおそるおそる君主に近付き、問い掛ける。

「本当によろしかったので?」
「ああ。どうも李洵には何か考えがあるらしい。ここのところ上の空だったのも、その所為かと思ってな」
「ですが、それが現状打開に繋がるかどうかは……」
「分からん。その時はその時だ。だが―――

 戯孟は智箋ににやりと笑いかけた。

「念のため用意を進めておくくらいならば約束違反になるまい。白暘、兵たちに命じて手ごろな樹を切って集めておけ」

 智箋は呆れたというか予想通りというか、この主君らしいと思える展開に、なんともいえない薄笑いを浮かべ、

「御意」

 拱手を掲げ、礼をした。胸内でひそかに嘆息を漏らしながら―――
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