李洵は陣営の中を駆け巡っていた。兵卒らはそれぞれに持ち場を維持しつつ駄弁っている。戦傷のある者も多い。各幕で消毒のために沸かされた鍋が湯気を立てている。
 李洵は目に付いた兵卒に手当たりしだい声をかけては尋ね回る。首を横に振られればまた別の所へ行って訊く。30万もの大軍の陣営はさすがに広い。片端から巡れば下手をすると移動距離だけで2里(約830m)以上してしまう。李洵とて闇雲に時間を無駄にするつもりはない。ある程度の部隊に目星はつけていた。彼を一瞬だけ見かけた時に配置されていた部隊が駐屯している一帯を巡る。だがそれだけでも人数は千を下らない。だが他に手がかりもない以上、地道に範囲を狭めて尋ねていくしかなかった。諦めるわけには行かない。信頼してくれた主君に報いるためにも。

 幾つ目かの幕の所で、李洵は鍋の火加減を見ていた兵へ声を掛けた。呼ばれた兵卒が顔を上げる。背が低く、髪はぼさぼさに乱れ、無精ひげが見苦しく生えている。骨折をしたらしく、片足に当て板をして杖をついていた。見下ろしてくる官服姿の文官に、慌てて杖を放り出し、痛みも我慢して跪拝をした。李洵の顔を知らないとはいえ、出で立ちから高位の人物だということは知れる。
 李洵は男に杖を持たせ立ち上がるように言うと、これまで何度も繰り返し口にした内容を言った。

「ある者を探しているのだ。二十歳半ばほどのまだ若い男でな、そなたよりやや上背が高く痩身の」

 男は頭を掻いてうーんと唸った。

「そういう奴ァ、そこらへんに腐るほどおります。それだけじゃちょっと」
「目と髪の色が薄く、頭が回り武に強い」
「ううーん……」

 男は己の記憶を探り、首を傾げながら俯くという器用なことをする。ついでに腕を組もうとし、さすがに体勢を崩しかけて慌てて杖を突いた。腕を組むのは諦め、杖に肘を突いて寄りかかる。

「そんな奴、いたかなぁ。いたら目立つはずなんですが」

 李洵も黙り込む。名は分かっていたが、それは言わない。
 彼は兵戸ではないはずだから、いるとすれば募兵での従軍のはずだが、本名で登録しているとは限らない。否、かの為人を思えばむしろ本名を名乗っている可能性は低いだろう。実際、兵卒の名と出身を記録した兵名籍をざっと確認したが、それらしき名を見つけられなかった。そもそも彼は李洵が参謀としてここにいることを知っている。知っていながら今まで顔も覗かせに来なかったのだから、きっと自身が慶軍にいることを勘付かれたくないのであろう。ならば十中八九、偽名を用いているはずだ。
 ということで名前に関しては完全にお手上げだった。仕方がないので、うろ覚えながらの容姿で訊いて行くしかない。

(また別の所へ行くしかないか)

 李洵が落胆とともにそう考えた時、ふいに声が上がった。

「それってアイツのことじゃねぇか?」

 李洵は目を彷徨わせる。言葉を発したのは、目の前の兵卒ではなかった。
 見れば、男の後ろの幕内から、今度はがりがりにやせ細った兵が顔を出していた。どうやら話が聞こえていたらしい。こちらも片足を負傷しており、ぴょんぴょんと片足飛びで近付いてくる。そしてここまで来ると、先にいた男の肩に掴まり身体を支えた。

(あいつ……?)

 誰のことを指しているのか分からず、李洵は眉を顰めた。だが男の方はそれだけで悟ったようで、微妙な表情をした。胡乱気に唸る。

「ああ、アイツか? 確かに外見は当てはまるが、どうしようもなく間抜けだし馬鹿じゃねぇか」
「強くて頭が良くなきゃいけねぇのかい」
「こちらの御仁が探しているのはそう言う奴らしい」

 李洵が口を開き何かを言いかけた。するとまた別の兵が這ったまま天幕から顔だけを出し、話に割り込んできた。

「でもあいつ、ああ見えて結構クセモンだぜ。賭け六博とかすっと絶対ェ勝てねえもん」

 へらへらと笑いながら語る兵に、低背の男が言葉を返す。

「そりゃオメーが弱いんだよ」
「いやいやそれがよ、対戦した野郎は全員敗北したんだ。おかげで掛け金全部持ってかれちまった」

 軍中で賭け遊戯とはなんとも怪しからん行いだが(そもそも軍律違反である)、今はそこを指摘するどころではなかった。

「へぇ、そりゃ初耳だ。意外な特技があったんだな」
「ちょっと待て!」

 李洵が慌てて声を上げ、滔々と流れていく会話に横槍をはさんだ。男たちは李洵がいたことを思い出したかのように、しまったと慌ててそちらへと顔を向ける。
 李洵は一旦唾を飲み舌を湿らせてから、

「その男の名は?」
「いや、でもこいつ腕っぷしの弱い臆病者でっせ」

 男が困惑した表情で首を傾ける。だが李洵は押し迫るように問い質した。

「構わぬ。名は何と言う」

 予想もしなかった李洵の強い剣幕に、男は気圧されつつしどろもどろに答えた。

「ウーミンって奴です」

 李洵はその名を舌の上で転がす。

「ウーミン―――無名(ウーミン)か」

 ふざけた名だ、ひとり小さく呟いた。
 名無し(ウーミン)
 確かにふざけてはいるが、彼らしいと言えなくもない。

「どういう者だ?」
「いやぁ困った奴ですよ。ドジなもんで、しょっちゅう他人の足を引っ張りやがるんですわ」
「俺なんて、まさしく足を下から引っ張られたんッスよ」
「全く今まで生きて残ってこれたのが不思議なくらいで」
「悪運だけは強いんだよな」

 男達は入れ替わり立ち代りうんうんと頷いて言い募る。李洵はやはり、と呟いた。

「その男は今どこに?」
「ええーっと……さぁ……?」

 目の前の男たちは一様に肩を竦めてみせた。すると、幕の入り口間際にいた兵が、

「ウーミンなら、さっきあっちの方へ歩いて行ってたぜ」

 と、ある方角を指差した。思わぬ幸運に天を仰ぎ深く感謝を述べたくなるが、今はとりあえずそれはさておき、指の示す先を目で追い、短く礼を言うとそちらへ小走りに向かった。 残された男達は互いに顔を見合わせ、首を傾げるばかりだ。
 李洵は走りながら思う。考えてみれば、彼は無闇に自己主張をして目立つのを好まなかった。下手に武術や学に長けた所を見せてれば、人々の口に登り、やがて将を通じて李洵の耳に入ることも有り得る。それゆえあえて劣っていると見せかけて目立たぬようにしていたに違いない。

(いや―――?)

 待てよ。そうだろうか。劣っているそぶりをすれば、それはそれで人の記憶に印象深く刻まれるものだ。実際あの男達は『無名』のことをよく知っていたし、細かなところも覚えていた。もしも真実目立ちたくないのなら、優れも劣りも見せず、凡庸を装うものだ。それこそ、誰の記憶にも残らぬように。もし万が一―――今がまさにそうだが、李洵が本格的に探そうものなら、見つけられてしまう確率が高くなる。

(もしや)

 李旬がいつか自分を探しにくることを予想していた(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)―――
 李洵は頭を振る。まだ『無名』と名乗る男が彼だと決まったわけではない。偶然符牒が一致する男だというだけかもしれない。だが李洵には予感めいたものがあった。

(あやつの字は何と言った)

 走りながら回想に耽る。普段はしないことだ。文官は武官ではない。袖が長く裳を伴う官服は走るのには適してない。さっきから裾が纏わりつくのだが、最早李洵は気に留めない。時には兵をかき分けて間をすり抜ける。
 自分がいまどこにいるのか、どこへ向かっているのかよく判らなかった。ただ漠然と示された方に向かって駆けて行く。息を乱しながら幕の合間を抜け、忙しなく首を回して一人の男の姿を探し求める。
 そこに、ある背が視界の隅を過ぎった。慌てて通り過ぎた視線を戻す。
 その男はのんびりとした足取りで歩いていた。あの時見た後ろ姿に重なる―――
 思わず声を掛けようとした時、その背が兵卒たちの間に紛れ込んでしまった。慌てて追いかけるが、男はすいすいと人の間をくぐりぬけ、どんどん先へ行ってしまう。

「待て!!」

 大声で呼びかけてみるが、人の多さで騒音が多く、かき消されてしまう。周囲にいた兵卒が目を剥いて注目したくらいだ。そうするうちに目的の背影は見えなくなってゆく。李洵は見失うまいと必死で目で追った。ほとんど勘で追いかける。
 そうして気がつけば、陣の裏方の随分と人気の少ないところへ出てきていた。
 足を止め、肩で息をする。辺りに忙しなく首を巡らす。左右を見回せば、丁度男が端の幕を右折するのが見えた。
 かつて口に馴染んでいた少年の字―――
 考えるより先に身体が反応した。李洵は駆け出すと、その幕を目指す。

 ―――確か、彼の()―――

 気づけば、その背に向かって叫んでいた。

「待て、―――冲淳(チュンジュン)!!」

 刑哿(けいか)、字を冲淳。そう、それが少年の名だった。
 男の足が止まった。
 李洵は荒い息の下で唾を呑み込む。喉が痛い。金臭い味が口中に広がる。
 男はゆっくりと振り返る。李洵は息を詰めてその瞬間を凝視した。
 その肩の向こうに傾いた日の輝きがあり、まぶしさに目を細める。男の姿は逆光になっていたが、不思議と李洵にはその面立ちがはっきりと見えた。

「なんだ、バレちゃったか」

 明るい声とともに、飄々とした、人好きする顔が笑った。さして驚いている風も見られないのは、こうなることを予期していたからか。少年の頃と少しも変わらない澄んだ瞳には面白がるような光が踊っていた。

「思ったより遅かったな、鎮文殿」
「この、何が、遅っ……」

 人を食ったような発言に文句を言おうとするが、ずっと走ってきたために呼吸がままならず、言葉が途切れ途切れになる。
 けれども李洵の胸の内は安堵と再会の喜びで満ちていた。それのせいか、一気に全身から力が抜けていく。
 李洵は両膝に手をついて息を整えた。泥のような疲労感が身体を支配している。全く、これほど走ったのは何十年ぶりだろう。文官となってから運動はとんとご無沙汰だった。
 高まった体温が上ってきて顔が熱い。きっと真っ赤になっていることだろう。汗だくになっているため、ずるずるとした服が今更ながら邪魔だった。

「鎮文殿も、もう少し歳を考えて行動したほうがいいぞ」
「誰、の、せいだと……」
「はいはい、まずは深呼吸」

 けろりと言ってくる顔をひと睨みし、ゆっくり息を吸った。徐々に胸の苦しさが和らいでくる。
 ようやく全力疾走による動機と息切れが静まり、李洵は落ち着いた調子を取り戻して乱れた襟を整えながら、静かに切り出した。

「あの火薬……お主だな。夕燕城での一件も」

 無名は是とも否とも答えずただ微笑を浮かべている。それは肯定と取れた。

「無茶苦茶だ。全く混乱させおって」

 李洵は深々と溜息をついた。昔から人の気づかぬところで色々やる奴だったが、よもやこのような大事にまで手を出すとは、怒りを通り越して呆れを感じざるを得ない。そして李洵は改めて問う。

「何故こんなところにいる」
「さてな」

 無名は頭の後ろに両手を回して組み、上体を少しばかり伸ばした。

「気ままにあちらこちら旅してたら、丁度慶軍の北征にぶつかってさ。戯孟がどれほどの傑物か見られる絶好の機会かと思って募兵に志願したんだ」

 その言葉に、李洵の目が細まる。つまり無名は李洵の主でもある英雄戯孟の器を見定めるために兵卒の中に紛れていたというのである。
 李洵はかつて無名―――刑哿を戯孟に推挙しようとしたことがあった。彼の性格では、そう簡単には誰の下にもつかないことも知っていた。李洵の知る刑哿は少年だったが、鋭い人物観察眼と同時に、己の才に対し誇りを持ち合わせていたからだ。心から認め敬服するような人物でなければ、刑哿は決して仕えまい―――李洵はそう思い、だからこそ己の主に会わせようとした。
 天賦の才覚を有する戯孟ならば、この男を使いこなせるのではないか。そして刑哿もまた、戯孟ならば主と仰ぐのではないか。それだけの魅力と器量が戯孟にはあった。
 だから無名こと刑哿が戯孟を『見ていた』となると、黙っては聞き流せない。

「それで……お前の考えは?」
「何が?」

 分かってやってるなこやつ。
 思わせぶりな無名の態度に、李洵は苦味を覚えながらも律儀に答える。

「殿のことだ。どう見た」

 無名は視線を宙に彷徨わせて、軽く唸った。

「そうだなぁ。まぁ結構いいんじゃないか?」
「『いい』って何がだ」

 いまいち曖昧な無名の返答に、更に突っ込む。
 はぐらかしを許さぬ李洵に、無名は肩を竦めた。

「何事があっても冷静に物事を分析できるし、機を見るのに敏だ。判断と実行が素早い。行動力のある証拠だな。勇猛果敢だが無策無謀ではない。ときに無茶もするが、それでも成功するのは決して無計ではないからだ。敵を読むことにも長けている。あれだけの兵法軍略に精通しているのは、余程努力した証だろう。細かなしきたりや下らない形式にこだわらないし、実力主義で柔軟な思考回路をしている。何より人を惹きつける魅力がある。それゆえ人々がその下に集まり、離れない。上に立つ者には特に必要な要素だ」

 そう、まさしく乱世の生みし希代の英雄。

「鎮文殿が仕えるのも道理の、噂に違わぬ人物だ―――と、これで満足か? あんたが聞きたかった、お望みの答えだろう」

 無名は口端を薄っすらと上げ、そう締めくくった。

「私は社交辞令や美辞麗句が聞きたいのではない。ましてや私が望む答えでもな。お前自身の見解を問うておるのだ。分かっていてはぐらかすな」
「へいへい……全く、その真面目さは相変わらずだな」
「冲淳」
「……社交辞令や美辞麗句じゃない。これで答えになるか?」

 無名は嘆息し、告げた。
 それを聞いて、李洵は目を閉じる。そして再び開けた時、彼の瞳には強い光が宿っていた。真剣な眼差しで、厳かに無名を見据える。

「では、私について来い」

 無名は笑った。

「断っても、どうせ問答無用で連れて行く気だろう」
「当たり前だ。縄をつけてでも引き摺っていく」

 この私にここまでさせたのだからな―――袖で汗を拭いつつ李洵は憮然と即答する。無名は諦めたように天を仰いで肩を竦めた。

「いいよ、行ってやるよ。他ならぬあんたの望みだしな。むしろ、もう少し遅かったらこちらから伺うところだったぐらいだ」

 さすがに今回ばかりは、俺一人の力じゃどうにもならないからな―――無名は意味深に加えながら、瞼を伏せて謎の笑みを浮かべた。気にかかる科白に李洵は追究しようとしたが、その前に上げられた無名の瞳によって遮られる。

「ただし、一つだけ言っておく」

 ぴたりと李洵に視線を当てる。久方ぶりに会った年上の友人の目を、真っ直ぐ見つめ返して告げた。

「俺は別に仕官すると決めたわけじゃない。そこのところは誤解するなよ」

 飄々とした中に頑なな意思を見出し、李洵は少しだけ落胆し、吐息をつく。だがすぐに顔を引き締め、一つ頷くと、

「分かっている」

 と応じた。
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