戯孟は室の中央に佇み、ひとり瞼を閉じて黙考していた。
 今までの堯軍の行動を振り返り、彼らの考えや戦略を分析しているのである。戯孟は今までの戦においても物事の動向や真偽、本質を見極めてきた。相手の狙いを見抜くのは得意だという自負もあった。
 ただ戯孟は、敵の心理も読むことには読むのだが、どちらかといえばまず兵法軍略に照らし合わせてから相手の先を推察する主義であった。
 だから、かの高名な大賢人荘子(そうし)や兵法家斐子(ひし)が著した兵法書も幾度と無く読み返し、理論的に学び、更には各書物に注釈までつけたりしている。
 しかし今回の場合は全くそれらの理が通用しない。相手の姿が見えないまま漫然と戦が続くことに苛立ちばかりがひたすら募ってゆく。戯孟は忌々しげに嘆息した。このまま攻めて行けば、理論上は確実に勝てる。何せあちらはもう兵が4万もない。確かに今日は楼閣からの射撃という思わぬものに意表をつかれたが、投石機さえ作ってしまえばそれも大した脅威ではない。篭城をしているわけでもないから、あと幾日もあれば陥せるだろう。
 なのに何を思い悩むことがあるのか。
 戯孟はこの正体不明の『何か』に不快感を覚える。どうも胃の辺りが痞えてすっきりとしない。
 慎重を期して言うならば、こちらの勝ちはまだ決まったわけではない。たとえ投石機を使ってもさすがに関までは届かない。ここで相手が関に逃げ込んで篭城をはじめたら、また膠着状態が続くだろう。しかしそれでは一体何のために彼らがわざわざ表に陣を張ったのかが分からない。ただ無為に兵を消耗しただけになる。全く理解できないし、筋が通らないのだ。
 考えれば考えるほど出口のない迷宮に嵌りこんでゆく気がして、気鬱は一向に晴れなかった。

(奴等は何がしたいのだ)

 思わず無性に何かに八つ当たりしたい衝動に駆られるが、傍にある(つくえ)の足を軽く蹴る程度で収めておく。
 ここで当り散らしても何にもならない。今はただ、李洵が戻って来るのを待つだけだ。

(李洵は一体何を考えておるのか)

 随分前に出ていったきり、未だ帰ってくる気配のない片腕に、思いを巡らせる。
 彼が戯孟の幕下に入ったのは、今から数えて10年前のことである。若いくせに、その時から随分と厳かで憂いを帯びた面構えをした男だった。李洵は前評判に違わず、実に傑出した才を持っていた。補佐役としてこれほど優れた者はいない。戯孟は心底そう思い、だからこそ李洵を厚遇した。そして李洵もまた戯孟の期待に充分なほど応えてきた。
 長い間右腕として頭脳を発揮し、様々な活躍を共に収め、共に苦渋辛酸を舐めてきた。李洵がいなければ、自分はここまで来ることはできなかったであろう。

 李洵の思いつめたような顔を思い出す。切迫した目で懇願してきた李洵。取り乱していたわけではないが、あのように余裕のない李洵を見るのは久しぶりだった。いつもは何があっても決して動じず、常に落ち着き払った物腰で諸々の事象に対応する。それが李鎮文という男だった。彼があのような切羽詰った表情を見せたのは、過去で二度きり。一度は戯孟が戦で大怪我を負い死に掛けたときで、もう一つは戯孟がまだ一州牧に過ぎなかった頃、攻めてこられた敵軍に危うく城を占領されかけた時だった。
 あの時の李洵の固く強張った顔と電光石火の勢いで指令を飛ばす姿は強く印象に残っており、今でも度々話の種になるほどだ。だが、後にも先にも、その二度以外はなかった。この男はおそらく自分の親兄弟や妻子が死んでも平静の態度を崩さないだろうと、他の同僚に冗談交じりに評されるぐらいだ。別に李洵が無情だというのではなく、それだけ公事に私情を挟まないという意味であった。

 その李洵が、あれほどまでに感情を露わにして、しかもごく私的な理由で訴えてきたことに、戯孟は素直に驚いた。そして李洵の目に宿った必死の色に、これはただ事ではないと思ったのだ。だから李洵の要求を呑んだ。
 しかし、だからといって李洵の考えが理解できるわけではない。何をしに出て行ったのか予想すらつかない。思うところがあるのは知っていたが、本人が明かさぬ限り、その胸裏を計り知ることはできなかった。
 李洵を疑うわけではないが、あまり悠長にしていられないのもまた事実だ。智箋にはすでに資材を用意させた。いつでも投石機の作製を開始できる。
 その上で戯孟は待っていた。
 李洵がある時刻までに戻ってこなければ、命令を下す―――そういう心積もりで、それでも李洵は何かしらの成果を得てここに戻ってくるだろうと信じていた。己は今回の戦いの行く末を、李洵に信頼と言う形で託したのだ。彼は今まで戯孟の期待を裏切ったことはなかった。今回もきっと裏切らない。これは希望ではなく確信だ。
 ふと幕の出入り口から見える日を見る。智箋に指示した時間はまでは、もう間もない。
 戯孟はじっと立ったまま動かずに、ただ目を閉じていた。
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