「殿」

 不意に、入り口のある背後で、聞き慣れた声がした。
 戯孟は閉じていた瞼を上げ、身を半転させて振り向いた。
 そこには戯孟の予想したとおり、李洵が入り口の前に立ち、拱手を掲げて拝礼していた。何度も目にしたその姿勢や仕草から、彼の律儀さや厳格さなどが分かる。
 智箋に命を下す時刻は来ていない。彼はやはり戯孟の期待と信頼を裏切らなかった。そのことに心の底から安堵する。

「李洵、只今戻りました」
「おう、よく戻って参った」

 戯孟は笑みを含んだ声で迎えの言葉をかけた。中に入るように促す。
 李洵は再び一礼をすると顔を上げ、横を見向いた。誰か隣にいるらしい。かすかに身体の端は確認できるが、戯孟からは入り口の両端で捲り上げられた幕布に隠れてよく見えない。
 李洵が中に入って来る。と、後ろから続いて、兵卒風の男が入って来た。
 見慣れぬ男を見た戯孟の眉が、怪訝そうに顰められる。

(誰だ?)

 李洵は疑問の色を浮かべる主君の前まで来ると、すっと横に退いた。すると、一緒に入って来た男がその斜め後ろ―――すなわち戯孟の正面で、拳に掌を当て、頭を僅かに下げて敬礼の姿勢をとっていた。
 戯孟はその姿をじっと見つめる。
 観察する限り、まだ若い男だ。丁度李洵が初めて戯孟に面会した時と同じ年の頃。二十歳半ばか、それぐらいだろうと思われる。身なりは普通の戎衣。身分から言えば肩書きもない一般兵卒ということになる。
 だが普通の兵卒は戯孟などの高位の者に対しては跪拝をとるものだ。しかしこの男は立ったまま、まるで幕僚がそうするように拱手だけをしている。
 別に何かを報告しに来た兵ではないことは、李洵や男自身の様子で知れた。

 この男が一体なんだと言うのだ―――

 戯孟はますます訝りの色を濃くした。
 無言で疑問をあらわにする戯孟に、先を制するように男が口を開いた。

「無名と申します。閣下におかれましてはご機嫌麗しく」

 李洵が何故か咎めるような、物言いたげな眼差しを男へ投げかけている。そもそも階級が上の者よりも先に口を開くのは礼に失する。
 が、男―――無名はどこ吹く風だ。
 無名は拱手の姿勢を崩さず、しかし李洵に劣らぬほど慇懃に礼を取っていた。粗末な戎衣を纏っているのにも関わらず、漂う雰囲気や風格品位のある物腰は、とても貧賤単家の出とは思えない。やや俯むかせた顔に、薄い微笑が浮かんでいた。
 戯孟は唖然としてそれを見ていた。そして李洵の方へ、どういうわけか説明しろと目語で訴える。
 李洵はそれに気がつくと、視線を下げ答える。

「彼は私の古い知己で、かつては同じ私塾で卓を並べた者にございます」

 無名の顔が上がり、それに伴って現れた双眸と目が合う。色の薄い瞳が印象的だった。

故人(とも)? それが何故ここに?」

 戯孟は尤もな質問を口にした。李洵は更に答える。

「無名は元々戸を持たぬ流れの身で、各地を放浪していたところ偶然殿の遠征軍に出逢ったそうです。それで募兵に参加したとか」

 無名は特に否定することも、口を挟むこともなく、淡く笑みをたたえて李洵の話を聞いていた。すでに拱手を解き、力みもなく立っている。
 一代の覇主を前にして恐れもせず、随分と寛いだ無名の様子に、戯孟はどこか底知れない空気を感じていた。瞼を半ばに下ろしたような目つきは一見眠たそうでもあるが、瞳の奥に一振りの刃のような、鋭く怜悧な光が宿っているのを戯孟は見逃さない。

 ――これは鷹の眼だ。

 戯孟は思った。一瞬見ただけではこの男が装う軽薄な風情に惑わされ、その本質を見抜けない。能の足らぬものと侮り迂闊に接せれば、隠された爪によって痛い思いをするだろう。
 こんな男は初めてだった。戯孟は己の内に、戦いの時のにも似た昂揚が生まれるのを感じた。手強い奴だ。だが手応えはある。これは久々の掘り出し物だと、本能が囁いた。

「これがお前の言っておった『確認したいもの』か」

 戯孟は息をついた。しかしそう単純に感心してもいられない。現在の状況を思い出す。普段なら有能そうな人材に手を叩いて喜んだだろうが、時が時である。今必要なのは人材でなく現状を切り開く策だ。
 戯孟は、李洵がこの進退窮まる事態を打開する案を持ってくるのだと思っていた。が、実際にはそうではなく、李洵は一人の男を連れてきただけである。事態は急を要しているのだ。一体この男がその打開法にどう繋がるというのか。
 戯孟の疑念と焦燥を感じ取り、再び李洵は口を開いた。

「此度の戦、おそらくこの者無しでは切り抜けらぬと存じます」

 李洵が重々しく、慎重な口調で言う。
 その意図するところが捉えられず、戯孟は理由を問う。

「どういう意味だ?」

 李洵は一瞬黙り込むと、細く息を揺るがせた。主の問いに答えず、あえて別のことを口にした。

「先だっての騒ぎ、あるいは夕燕城内乱の件は、すべてはこの男の仕業によるものにございますれば」
「な―――

 戯孟の目がこぼれんばかりに大きく見開かれる。絶句した。今李洵は何と言った?
 先ほどまでの苛立ちや焦りが一気に吹き飛び、思考が真っ白になる。夜空に紅く染まる夕燕城や、前線に次々と上がる煙が、戯孟の脳裏にまざまざと閃回した。
 全く信じられない。まさか、あれをたった一人で成し遂げたと言うのか?

「それは真か」

 しばしの沈黙の後、戯孟はようよう低く呻いた。
 李洵はずっと黙ったままの無名に目配せをする。後は当人の口から話せ、という意思表示だ。
 それを受け、無名は済ました顔でさらりと答えた。

「いかにも」
「ほう」

 戯孟の表情が一変して厳しいものとなる。夕燕城の方はともかく、あの爆発騒ぎのせいで慶軍側は散々な混乱を被った。士兵の中には、堯の計略と信じ恐怖心を露わにする者もいる。本来ならば軍律に従い即刻斬って捨てるところだが、李洵がわざわざ探し出してきたほどの男だ。何かあるに違いない。裁断を下すのはその後だ。
 そう考え、ここはあえて目を瞑ることにし先を促す。こういうところ戯孟は融通のきく男だった―――というより、実のところその表情に反して、眼前に立つこの若い男に内心興味を覚えはじめていたこともある。
 対して無名は、泰然堂々たる態度で戯孟に臨んでいる。己のしたことを告白することに微塵の躊躇も後悔も見られない。むしろ、うっすらと微笑さえ浮かべていた。

「その意は」

 短く問えば、

「夕燕城の件でございますか、それとも火薬のことでございますか?」
「どちらもだ」

 憮然とした口調を、無名は軽く微笑い流し、全く違うことを口にした。

「閣下。投石機の準備の方は整いましたか?」

 戯孟の動きが止まる。尋ねた内容と全然異なる話題に虚を突かれ一瞬きょとんとしたが、すぐに再び驚きに愕然とする。

「何故知っている」

 投石機のことは内密に事を進めていたはず。なのに何故それをこの男が知っているのか。
 戯孟の両瞳は、如実にそう語っていた。
 李洵も、戯孟が用意をさせることは予想の範囲であったのでさほど驚きに値しないのだが、それを無名が知っていたことにはさすがに疑問を隠せない。
 そんな二人へ、無名はにっこりと笑貌を向けた。

「閣下のことですから、大方そのようになさるのではと。投石機は閣下の発明のお一つ。楼閣の対策として投石機を作るおつもりなのでしょう?」
「……ああ」
「では今は、過日の些事について論じている時ではないと存じますが?」

 戯孟がぴくっと片眉を吊り上げる。人を食ったような無名の返答に、だが瞬時に目が覚めた。
 癪だが、確かに言われた通りである。今は、既に終った事柄について詰問するよりも、目前の問題を解決せねばならない。

(こいつ、分かってて言いおったな)

 無名は悪びれもせず楽しげに戯孟の反応を窺っている。なるほど、こんな状況にも関わらず、豪胆にもこの自分を試しているというわけか。なかなか弁も達つようだ。
 面白い―――と戯孟は思った。この鼻持ちならぬ男の手腕が、果たしてどれほどのものか。その実力、試してみようではないか。これは好意的な感情ではない。どちらかといえば喧嘩腰に近い挑戦心。
 戯孟は面を引き締めた。瞬時に、慶の君主にして統括者としての顔が現れる。

「お主の言うとおりだ。では無名。李洵はお主のその才を此度の戦の要と申しておるが、何か考えがあるのか。申してみよ」

 全身から発せられる威光に、無名は微かに戦慄を覚えた。百戦をくぐりぬけた将だけが持ちえる、他を圧倒し畏怖を与える存在感。これが戯孟の君主たりえる理由の一つである。
 無名は己に注がれる威厳を神妙な面持ちで受け止め、静かに戯孟を見返した。先ほどまで口辺にたたえられていた微笑がふっと消える。気づけば飄然とした雰囲気から一転して鋭利な空気に変わっていた。
 その変化に戯孟はおやと軽く目を見張る。これはいよいよ、ただの生意気な若造ではないようだ。
 戯孟は驚いているが、李洵は対照的に小さく溜め息をついた。無名の豹変ぶりを見るのは、これが初めてではない。
 いつもふらふらへらへら所在定まらぬ男だが、本気になればこのような顔をする。人をからかわずに端からこの調子でいればいいものを、と李洵は思うのだが、これも彼の性なのだろう。彼が真顔になると、大抵の者ははっとしたものだった。普段が普段だからこそ、その落差が酷く目を引く。しかも腹が立たしいほどやたら格好がつくので、騙された気分になる。これで冴え冴えとした奇才を放つのだから、苦く思わずにはいられない。
 ともかくも、刑哿がこのようになる時は、彼が物事に本腰を入れ始めたという証だ。そして本気になった刑哿が、打つ手を外したことは、李洵の知る限り一度もない。
 やはり己の選択は間違いなかったと、改めて李洵は確信した。
 各人の思い思いの中、無名は拱手し、静謐な声音で述べ上げた。

「策はあります。ただそれを申し上げる前に、まずはお伝えすることが。―――此度の戦、敵軍の背後に胡の影があります」
「何!?」

 発せられた内容に、二人は同時に声を上げる。
 胡が、堯にひそかに支援している―――
 その事実はこの上も無い衝撃であり、そして同時に危視すべき事態であった。

「まさか胡が……」

 李洵が苦々しく唸る。無名はそれを横目でちらりと一瞥し、視線を戻して言葉を続けた。

「ご存知のように、胡は先の内乱の鎮圧により疲弊しきっております。軍を動かそうものなら、忽ちに内部の強い反発にあうでしょう。ゆえに胡は、援軍を出す代わりに智謀を送りました。陳雨という男です」
「陳雨だと……!」

 戯孟は目尻を鋭くした。

「陳雨と言えば、音に聞こえた鬼謀の持ち主。では干卷を裏で動かしていたのは奴であるということか」

 低く呟く李洵に、無名は頷き一つで肯定する。

「間違いありません。なにせ私自身が苦心の末、やっと手に入れた情報ゆえ」
「お主、どこでそんな情報を入手してくるんだ」

 李洵がふと思いついて不思議そうに突っ込んでくる。
 未だ自分達ですら知らないことを、どうやって知り得たのだろうか。よく考えれば甚だ疑問である。
 首を傾げる彼に、無名は意味深に喉を鳴らし、打って変わって悪戯っ児のように輝く瞳を向けてきた。

「何てことはない。直接あちらに忍び込んだのさ」

 事も無げな告白に、李洵は言葉を失った。ぽかんと半開きにした口がふさがらない。その目は、信じられぬ、呆れた、と言わんばかりだ。
 そんな友人を尻目に、無名は本題を再開する。

「まあ仔細は追々お話しするとして、ともかく敵は手強いです。いっそ援軍を出してくるよりも厄介だ」

 言い、すいと顔を仰いで敵の陣営がある方角に遠く瞳を向けた。

「私の読みが正しければ、敵方は今晩中にでも仕掛けてくるでしょう」
「今晩か」

 戯孟と李洵の顔にさっと緊張が走る。かなり急な話である。もうすでに日は傾いていた。

「ええ。正確にはわかりませんが、刻にして寅あたりかと」
「いやに具体的だな」
「ええまあ―――少々特殊な事情でしてね。ですからその前に何とか手を打たねばなりません。あちらは閣下が投石機を作るであろう事をすでに見越しております」
「何だと?」
「今回の楼閣はむしろ閣下に投石機の製作を促すものです。もし閣下が知らずにここで製作を開始すれば、敵の術中に嵌ったことになりましてね。鎮文殿が止めてくれなければ実に危ういところだった」

 無名はやや目を伏せてそう言うと、すぐに顔を上げて告げた。

「もうお気づきでしょうが、敵の狙いは時間稼ぎです」

 “機”を狙い、“時”を待つための―――
 無名の言葉に戯孟は頷きで同意を示す。確かに戯孟もそれは薄々と感じていた。今までの経過を振り返ってみると、そうとしか考えられない要素が多い。堯軍の一見すると奇妙な動きは、ふと視点を変えれば戦の時を延ばそうとしているかのようにも映った。単に籠城していては、いかな堅牢な関とはいえ今頃多勢に無勢で陥落していたはずだ。

「特に敵は要をこの一日においている。決するのは今夜―――もし私の考えている通りだとしたら、平明のあたりに惨事がおきます」
「惨事と」
「はい」
「それを防ぐ手立てはあるか」
「無論」

 無名はにやりと笑ってみせた。戯孟がほう、と呟き、興味津々な様子で先を促す。

「とりあえず閣下には、投石機を作ってもらいましょう」

 それに、戯孟がきょとんと目を瞬く。

「何? それでは敵の策に陥ると、そなた自身が先ほど申したではないか」
「ですから、策に嵌ったふりをするのです」

 狡猾なる策士の目が戯孟を射抜く。
 日が落ち暗くなってきた幕の中で、無名の瞳だけが冷たく輝いている。まるで鋭利な刃の切っ先、もしくは極限まで張り詰められた弓を思わせる。それは戯孟にとっても、久しく心地よい緊張であった。

「兵は詭道(きどう)なりと申します。閣下にこのようなことを説くのは摂之子(せっしし)に説道でしょうが、詭道とは(しか)して之に不能を示し、用いて之に用いざるを示すもの。すなわち、可能な事を不可能に見せ、有用の物を無用に見せる。いかに己の手の内を見せずに敵を騙すか、そしていかに敵に騙されぬかが、勝敗を決します」

 つまり、と戯孟が後を引き取る。無名の言わんとしている事を悟ったのだ。
 にやりと口角を上げ、先を続ける。

「兵を為すの事は、敵の意に順詳(じゅんしょう)するに在り、というわけだな」
「ご明察です」

 無名は不遜に笑い、半眼にした鋭い眼差しを向けた。戯孟はそれを真っ直ぐに見返す。
 兵を為すの事は、敵の異に順詳することに在り。戯孟の言ったこの言葉は、兵法書の引用である。その意は、戦を遂行する上での要点は敵の意図に従うふりをすること。詳とはつまり(いつわり)だ。
 もちろんこれは敵の意図を前もって知っているということが大前提だ。敵の意図を把握する事は容易ではない。手に入れた情報が、必ずしも真実とは限らないためである。わざと漏らされた情報、つまり偽の情報を握らされるかもしれないし、送り込んでいる間者が二重間諜である可能性もある。従って敵の真意を量るのは困難を極める。

 だが、無名には自分の読みに確信に近い予感があった。ほぼ直感のようなものだが、それは決して根拠のない勘ではなく、あらゆる情報と緻密な分析を元に立てられた予測という名の直感だった。
 つまるところ無名は、表向きはあたかもあちらの手に乗せられたように見せかけ、実際はその更に裏をかくという戦法を呈示したわけである。
 敵を欺く―――戯孟、李洵、そして無名の間で一つの計画が交わされた。
 そうして締めくくりに、無名は頭を垂れて戯孟に誓約した。

「私にお任せください。必ずや、堯軍を打ち破ってご覧に入れましょう」


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