慶軍の陣営がにわかに騒がしくなった。 ―――始まったな。 陳雨は心の中でそっと呟いた。予想通り戯孟が投石機の作製を開始したらしい。薄暗くなり始めていた夕空の下で、慶軍営の正面で大小太細様々な無数の木材が集められ、土台を組み立てていくのが見える。兵卒たちが一丸となって頑張る光景に、状況を忘れて思わず微笑ましく思えてくる。 「何を笑っておる」 淡く笑みを浮かべている陳雨に、隣りに立っていた干卷が問い掛ける。陳雨はああ、と己が微笑んでいたことに気づいたように、声を上げた。 「いえ。思惑通りになったな、と」 視線で慶軍営を示す。干卷もそちらに目をやり、一つ息をついた。 「確かにな。お主の言う通りだった」 陳雨は楼閣制作の献策において、戯孟の投石機による反撃の可能性を挙げていた。その上で更にそれを利用した罠を計画していたのだ。 ここまではほぼ自分の思い通りに事が進んでいる。つまり主導権はこちら側にあるということだ。 戦において主導権を握る事は極めて重要なことである。兵法に曰く『善く戦う者は、人に致して人に致されず』。すなわち、巧みに戦う者は、敵を思い通りに動かしても、敵の思い通りに動かされぬ、ということだ。 その点では、堯側に利がある。だが陳雨の胸の中では、一抹の疑念が、痞え取れぬ棘のように、ささやかに存在を主張していた。 (この胸騒ぎは一体何だと言うのか……) 自問してみても答えは見つからない。そう、喩えるなら、旅出において、何か備え漏らしがあるような不安。あれに似た心地だ。何の抜かりはないはずなのに、どこか落ち着かない。 その原因は、おそらく昨日の爆発だ。あの謎の出来事が安心を妨げていた。 結局分からずじまいのままここまできてしまったが、別段あのせいで何か特別害を被ったわけでもなく、それ以後何の兆しも見られないため、特に優先的に追究したりはしていなかった。 だが…… 無数の火花が散るなか、敗走していった慶軍―――果たして本当にあれは慶の策略ではなかったのか。 陳雨の苦悩をよそに、干卷が呑気な声で言った。 「まあ後は、お主の言っていた時を待つばかりだな。ここまで来るのにこちら側の犠牲も大きいものではあったが、これでなんとか殿に顔向けができる」 そして不意に不安げな顔を向けてきた。 「だが本当に『あれ』は来るのか?」 陳雨は眉間に寄せていた眉根を戻し、自信の滲み出す声で肯いた。 「ええ、必ず来ます」 干卷は安堵し、そうか、と言うと、もう一度慶軍の陣営を眺めやってから踵を返した。背面を向けながら振り返らずに陳雨へと告げる。 「此度の事は殿に報告せんとな。お主には感謝している。これからの胡との関係も、望ましいものになることを期待しているよ」 そう言って歩み去る背を、陳雨は無言のうちに見送った。 見えなくなったところで、再び視線を戻す。薄暗闇に、遠く点々と燈る篝火。そしてかすかに見える散在して筋を引くような土埃は、樹を切って運んできているものであろう。 「必ず、か」 先ほど己が吐いた言葉を口にし、ふっと自嘲気味に笑う。 「もし本当に思い通りに動いてくれるのならな……」 夕陽は既に西の彼方へと姿を隠し、余韻のみを仄々と残していた。 |