遠くから、多数の人間の喧騒が微かに聞こえてくる。河の香りを含んだ風が頬を撫でた。 そういえば、と無名は口を開いた。 「峰絽関の名の由来は、『蓬翏山なる絹機織女の降り立ちき―――』という伝説だそうです」 闇に溶け込む稜線を見極めるかのように眺めやりながら、唐突にそんなことを言い出した。 急な話題の転換に、戯孟はやや反応が遅れながらも、その言葉を反芻する。 そういえば気紛らわしにそんなことを誰かが話していたような気がする。特に重要なこととも思えなかったので半分上の空で聞いていたのだが、確か炎で羽比礼を織ったとか、そういう話であっただろうか。所詮作り話にすぎないのだろうが、名前の由来などは大抵そういうものである。 と、その時聞いていた戯孟はそう思った。 「しかしこれには別の話もありましてね。仙女が比礼を失くしたのは、実は山伯と雨師の陰謀であるというのです」 さも面白がるように、無名の声音が深みを増した。 「遣いを仰せつかった仙女が山に―――話では双剣山と呼ばれているそうですが―――降りた時、仙女を見た双剣山の山伯と雨師がその仙女の美しさに心を奪われてしまう。何とか蓬翏山に帰さず手元に留めて置きたいと、彼女の羽比礼を隠すんです。そして山間を閉じて仙女を閉じ込め、毎日毎夜雨を降らせて天の道を塞いでしまう。だからここ辺りの山はこんなに険しいのだとか、雨が多いのだとか言われるそうですよ」 そんなバカな、と戯孟は笑い飛ばそうとした。だが詩を吟じるように続ける無名の声に、どこか侵しがたい強い響きを覚え、思わず言葉を飲み込む。 「それで家に帰れない仙女はとても嘆き悲しむのですが、それを見かねた火師と風師が仙女に手を貸すんです。火師は火を熾して糸となし比礼を織らせる。風師は風を起こして雨雲を追い払う。更には山に炎を放ち、風でそれを押し広げた。一息で一帯が山火事となり、三日三晩燃え続けたそうです。ゆえにここの山々は殆どが裸の岩山になったのだとかなんだとか―――まあそういう言い伝えですよ」 無名はじっと遠くの山形を見つめたまま語り続けた。その口ぶりからは、無名自身がその伝説についてどう思っているのかは読み取れない。ただ淡々と、独り言のように語る。戯孟は突然こんな話をし出した無名の意図が掴めずに、ただ黙していた。 「げに恐ろしきは過ぎた慕情―――他者を思うが故に、道理に外れた行いをもってしても我を通さんとするその心は、人間も神も同じということですかね。ま、そんな言い伝えの裏にある訓示などは、この際どうでも良いのです。この話には―――」 そこで一旦溜めるようにして言葉を止める。 瞳が、一瞬だけ鋭く光った。 「この話には、虚構に混じえて、ある秘密が隠されている」 「秘密?」 戯孟はやっとそこで口を開いた。秘密とは一体何のことであろうか。 「はて。それは一体如何様な」 「大部分は作り事で飾られておりますが、しかしてある部分には真実に基づくと思われる描述があるのですよ」 それは何か、と戯孟が重ねて問い返そうとした時。 突然何かに反応して無名が顔をあらぬ方へ向けた。 ―――かと思うと、次の瞬間には駆け出していた。 どうしたと問う暇もなく、無名は樹に繋がれている鹿毛と栗毛の二頭の馬のそばまで行くと、栗毛の方へひと飛びでひらりと跨った。慣れた様で手綱を引けば、馬は前足を軽く掻いて嘶く。 そのまま素早く馬首を半転させながら、無名は戯孟のほうを振り向いて言った。 「お話の途中で申し訳ありません閣下。どうやら鎮文殿の方が完了した様子。今こちらへ向かってきているようです」 「何?」 追いかけてきた戯孟は豆鉄砲でも食らったかのような顔をし、怪訝そうに声を上げる。どういう意味であろうか。一体どうやって李洵が任務を負え、こちらに向かってきていると分かるのだ。 そんな疑問が顔に出ていたのであろう。無名は馬上から軽く笑うと、 「蹄の音を感じました」 「蹄?」 はて、蹄の音など聞こえただろうか。戯孟は首を傾げる。 だが無名にはその音なき音が判るらしく、確信を込めて言う。 「まあ、すぐに分かりますよ」 笑顔とともに謎の言葉のみを残し、手綱を強く引いて行こうとする。馬が二足立ちになり、大きく嘶いた。 戯孟は慌てて叫んだ。 「待て! どこへ行く」 「最後の仕上げです」 「仕上げだと?」 戯孟はなおも問い詰めようとしたが、途中でやめ、諦め半分に嘆息する。 「そう言えばお主、結局儂等には計画の全ては話しておらなかったな」 そう。実のところ無名は己の策の全貌を誰にも話していなかった。戯孟や、李洵すら重要な部分は何も知らされていない。とにかく無名の指示通りのことを行っているだけなのである。それが何に繋がりどうなるのかは、皆目見当がつかないと言う状態だった。 無名が何かを言いかけ、口を開いた。それを遮り、分かっておる、と戯孟が言う。その口端にはいつもの自信溢れる不遜な笑みがあった。 「戦の基本は相手の虚を突くのと同時に、己の手の内を見せぬこと。極力外へ情報が漏れるのを防ぐためには、最低限他言せぬことが一番―――そういうことであろう」 無名は目を見開いて瞬き、それからふっと微笑を戻した。 「さすが御慧眼でいらっしゃる」 そのまま戯孟に敬意を込めて目礼をすると、足で馬腹を強く打ち、駕、と掛け声を放って駆り出した。 |