やがて無名と入れ替わるようにして、李洵がこちらへ向かって馬を走らせてくるのが見えた。
 後ろを見返り振り返りしつつ、戯孟の傍へと近づく。馬から降り不思議そうに頭をひねりながら、何故か言葉無く凝視してくる主へ拱手し問い掛けた。

「先程けい……無名とすれ違いましたが、何事かあったのですか?」
「真に当たりおった」

 全く脈絡の無い返答に、李洵がは?と目を丸くする。
 戯孟が事の次第を話すと、李洵はようやく得心がいったようにああ、と漏らした。

「あれはなんというか、昔から妙に敏いところがありましてね……おそらく地を渡って伝う馬蹄のかすかな振動を感じ取ったのでしょう」

 李洵は無名が駆け去って行った方向を目を細めて見つめる。
 それを聞いて、半信半疑ながらも成る程と戯孟は呟いた。同時に別のことにも納得する。無名が去り際に言っていた「すぐに分かる」というのは、つまりこういうことでもあったのか。自分が言わずとも、成り行きで李洵が説明するだろうと踏んだのだろう。なかなか先をよく読む。
 李洵がやや心配そうに首を傾け、そっと戯孟を覗ってきた。

「あれが何か無礼を働きましたでしょうか……」
「いや」

 戯孟は首を振って否定する。心中で微かな苦笑を漏らした。無礼といえば、もう数え切れぬほど働かれているが。鼻を鳴らす。

「なかなかに弁の立つ奴だと思ってな。この儂を相手どって、一歩も引かぬわ。若造のくせに、道理の何たるかをよく心得ておる」

 実に楽しげに語る主君を見て、李洵はホッと息をついた。

「それはよろしゅうございました」
「おう。―――ところで鎮文。何か申す事があってきたのではないのか」

 戯孟に言われ、自分の役割を思い出した李洵は、さっと礼をとる。

「ああ失礼致しました。例の件、万事用意が整いましたゆえ、そのご報告をと。……といっても肝心の無名がいないのですが」
「当人は察しておったようだぞ。何はともあれご苦労であった」

 戯孟は頷き、困ったように首を傾げている片腕の参謀に労いの言葉をかけた。軽く肩を叩き、喜色を露にする。

「相も変わらず早い仕事ぶりだな」
「勿体ないお言葉です」

 李洵は謙虚な態度で拱手を掲げる。
 それに頷き頷きしつつ、戯孟は目を細めて顎鬚を撫でた。

「いやはや、無名が言ってはいたのだが、さすがに実際にこの耳でしかと聞くまではどうにも半疑でな」

 鷹揚と笑う主君を、李洵は不思議そうに見返す。

「あれが何か申しておりましたか」
「ああ、蹄の音を聴いたから、きっとお前が事を終えてこちらに向かっているのだろうとな。一体どんな技を使ったのやら」

 然様でしたかと相槌を打ち、李洵は何とも言えぬ表情を浮かべた。

「ところでその無名は何処へ向かったのでしょう」
「そう言えば何やら最後の仕上げをするとか申しておったが……はてさて、一体何であろうな」

 戯孟が首を傾げて意見を求めるのに、李洵は同じ様に首を傾げ、さあ、と答えた。刑哿の考えていることなど、昔から計り知るのは困難であった。あれは常に人の考えとはまた違うことを考えていたから。
 李洵は穏やかに微笑みながら、戯孟に尋ね訊いた。

「殿、あの者はいかがですか」

 戯孟は少しの間をとった。顎を撫でながら言う。

「そうだな……確かに興味深い男ではある」

 無名には、戯孟を唸らせる何かがある。それは数多いる配下たちとも、また違うもの。

「ああいう毛色の変わった奴が一人麾下にあっても、面白かろうな」
「我が方に文武両道の官はそうおりませんしね」
「ん? それはどういう意味だ?」

 つい無意識に頷いていた李洵は、ああと気づいて微笑した。

「彼はああ見えて、実は腕もそれなりに立つのですよ」
「ほう、それは意外だな」

 戯孟はきょとんと瞬き、嘆息と共に素直な感想を示した。一見したところ無名は取り分け筋骨隆々というわけでもなく、むしろ名だたる武将達に比べれば幾分貧相な身体つきであった。だから戯孟は自然と、無名はどちらかといえば文人肌であると思い込んでいた。
 だが言われてみれば、無名は単身で敵城内に忍び込んで扇動作戦を実行しているわけであるし、また堯陣営でも同様に忍び込んで偵察までしてきている。それなりの体力的な技術がなければ、これらのことを成し遂げるのは到底不可能だ。やはり見かけに惑わされてはいけないと言うことか。

「無名は、徒人ではありませぬゆえ」

 李洵はふと真面目な顔つきになった。

「何だ。まだ何か隠し種があるのか」

 常日頃は明快にして直入を良しとする李洵らしからぬ随分と勿体ぶった―――あるいは歯切れの悪い言い回しを、戯孟は訝った。

 李洵は僅かに黙り込むような素振りを見せた後、苦笑とともに首を振った。

「いえ、深い意味はございません。ただ他にはない、負俗の質ながら類稀な才士であると」
「確かにな。味方にあれば心強く、敵に回せば手強い相手であろう」

 敵に取られる前に味方に引き込むことが、果たしてできるだろうか。あるいは自分に手懐けられるような男だろうか。
 顎を扱き沈思に入った主君の横顔を見つめながら、李洵は言わずに秘めた科白を心の内で呟いた。

(殿、あの者には不思議な力があるのです)

 それは方術や仙術と言ばれる、世にも妙なる技。方術の中には医術も含まれているが、主には占術、祈祷、鬼神の使役など、その他諸々の摩訶不思議な術全般を指す。それらを扱う者たちを方士、あるいは仙人と呼ぶ。
 戯孟が聞けば、きっと顔を顰めたことだろう。戯孟は徹底した合理主義者であったから、そういった超自然的なものを忌む傾向にあった。実際、仙人を見たことも、その技を目の当たりにしたことも無い。巷にいる方術使いや呪い師などと名乗る者のほとんどは詐欺師の類であり、人の弱みに付け込んでは大金を巻き上げるような悪党だった。
 だが無名―――刑哿はそういう輩とは違った。彼は無闇矢鱈に他者に異能を見せようとはせず、むしろ常にひた隠しにしていた。だが李洵は一度だけ、彼がその技を使うのを見たことがある。
 李洵は遠く彼方に思いを馳せるように、瞳を細めた。
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