それは遠い昔。 たまたま学友が共に連れていた幼い弟が、遊びに夢中になっているうちに、不意に足を滑らせ川へ落ちてしまった。前日は大雨で、川は未だに水量が減らず、流れが激しかった。 幼子は懸命に岩へしがみつき、なんとか流されるのを防いでいたが、あまりの激流に誰もが手を出せずに右往左往していた。 そんな中共にいた、まだ少年であった刑哿だけが、一人冷静を保ち、うろたえる学友達を叱咤し、大人たちを呼ぶよう言いつけた。思えばこの時から刑哿はどこか他の者と違っていたように思う。 一人だけで呼びに行ったのでは時間もかかるし、引き上げるにも多くの人手が必要だ。そう言って、そこにいた学友全員にそれぞれ手分けして指示を出した。 落ち着いた声に冷や水を浴びせられたがごとく、友人達は混乱状態にありながらも何とか頷き、あたふたと一斉に駆け出した。 李洵のみはそこに留まっていた。上から必死に幼子へと励ましの言葉をかけていたからだ。幼子が不安がらぬように、声をかけ続けて己の存在を示す。 その隣りで刑哿が膝をつき、李洵と同じ様に岸下を覗き込んだ。だが李洵のように呼びかけるわけでもなく、じっと黙したまま。その横顔をちらりと一瞥すると、不思議と、念じるような、見守るような目で彼は幼子を見ていた。 大人を呼びに行かせたはいいが、早く引き上げなければ危険である。今は岩につかまってはいるが、激流に耐えるにはまだ体力が貧弱だ。すぐに力尽きてしまうだろう。 祈るような気持ちで、李洵はひたすら声をかけ続ける。少しでも生気が出るようにと、大声で叫ぶ。幼子は泣きじゃくりながら必死に助けを求めていた。 このままでは押し流されてしまう―――李洵は焦った。しかし慌てたところでどうにもならぬのも、また事実だった。 この急流では、一旦流されてしまえば絶望的である。だからといって特に泳ぎに長けていない自分が飛び込んでも、助けられるわけではない。一緒に溺れ流されるのが落ちだった。 どうしようもなくもどかしい思いに襲われた。どうしていいかわからず、しても仕様がないのに思わず縋るように再び横を覗って、息を呑んだ。己よりも遥かに年下であるはずの刑哿は、酷く大人びた表情で、何か思い悩むように眉間に皺を寄せていた。刑哿は確かに人よりもどこか逸出していたが、勉学の場以外では年相応の少年であった。屈託なく笑い、友人とふざけ合い、無邪気に遊ぶ。大概はおどけた風情で過ごし、時には怒ることもある。子供らしいといえば子供らしいところのある少年であった。 だが、このような刑哿の表情ははじめてだった。いつも飄々とふざけた調子をくずさない刑哿。だが今の彼は、これまでにないほど真剣で、張り詰めた面持ちを湛えていた。 だがそのような感傷まがいの疑念は、一瞬で眼前の非常事態に引き戻される。 危惧したとおり幼子は徐々に力を失っているようだった。顔は蒼白になっており、唇の色が変わっている。 まずい、と思った。このままでは、助からない。 「鎮文」 唐突に、低い声音で刑哿が字を呼んできた。 引かれるように首を動かすと、刑哿はこちらを見ることなく下を向いたまま、静かに言葉を発した。 「これから起こること、誰にも言わないでくれる?」 「え?」 何を言われているのか分からずに、反射的に疑問の声を上げたその時。 幼子を見守っていた刑哿の顔色が一変した。 途端に生じる鼓動と冷たい戦慄。李洵の背筋が凍った。ハッと川を見下ろす。 丁度それと同時に、幼子の手が、岩から離れる光景が視界に飛び込んだ。 あっ、と李洵は口を開けた。だが出かかった声は喉の奥で引き攣って、ひゅっと不快なか細い息の音になった。 土色に渦巻き波打つ濁流に子供の姿が押し流される。 刹那、隣りにいた刑哿が鋭く何かを囁いた。何を言ったのかは聞き取れなかった。反射的に視線をやると、刑哿はなおも川下を強く見据えていた。苦渋に耐えるかのように、歯を食いしばる。その姿は何事かを強く念じている風にも見えた。 李洵には刑哿が何をしているのかは分からなかった。耳の奥で鼓動が鳴り続ける。衝撃のあまり気が動転していたのもあっただろう。この時の李洵の頭の中は「死」という文字だけが明滅を繰り返していた。 不意に、あたりの空気が変わった。肌が粟立つ。目に見えない何かが、刑哿を中心に急速に集結し始めていた。音の無い耳鳴り。まるで弓の弦を極限まで引き絞っているのにも似た、一触即発の切り詰めた緊張。 刑哿の額に汗が伝った。地面に当てていた手が、指先が白くなるほどきつく握り締められている。苦しげに眉根を寄せ厳しい表情で何かを念じている様を、李洵はただぼんやりと眺めるしかなかった。 ふと川の音が変わった。 それまでの激流の轟音がにわかに濁り始める。我に返り咄嗟に眼下を見やれば、なんと川の流れが歪み、奇妙な螺旋の文様を描いていた。 信じがたい出来事に目を剥き、刑哿を仰眄した刹那、川の水がどおん、という大音と共に弾け吹き上がった。 水飛沫が大雨のごとく降り注ぎ、二人とも全身びしょ濡れになる。その飛沫の中、一つの小さな影が飛来するのを視界の端に捉えた。次の瞬間、飛来物は刑哿の腕に飛び込んだ。その反動に耐え切れなかったのか、刑哿が受け止めた勢いのまま後ろに一緒に倒れこむ。 衣が纏わり付くのにも構わず、未だ降り注ぐ水滴を払いながら李洵は慌てて近寄り、刑哿の腕の中を覗きこんだ。 刑哿が受け止めていたのは、紛れもないあの幼子であった。 その後、戻ってきた学友と学友に引き連れた大人は、目の前の出来事を見て目を丸くしていた。何が起こったのか辺り一面水浸しで、しかもその上問題の幼子は何時の間にか救助されている。何とかその場は言い繕い、李洵と刑哿のふたりで助け上げたことにしておいたが、何という危険な真似をと大人たちから長々と説教された。 だが、それでも李洵は本当のことを言わなかった。横目で刑哿を盗み見、あの時の科白を思い出し、言ってはならないような気がして黙っていた。また刑哿自身も、始終無言のままであった。その直後、彼は高熱を出し、しばらく室から出てこなかった。 幼子は衝撃で気絶してはいたが、おかげであまり水を飲んでいなかったようで、命に別条はなかった。冷えた身体を温めてやればすぐに顔色を取り戻し、二三日後には元気に駆け回る姿を見せていた。 安堵してそれを眺めていると、刑哿がやってきた。こちらも熱は下がったようだった。 「黙っていてくれてありがとう」 彼は開口一番そう言った。 それが何に対しての礼なのかすぐに分かった。李洵が曖昧に言葉を濁すと、刑哿はあの、年のわりに大人びた微笑を浮かべた。そして皆には内緒だと前置きし、語ってくれた。 「生まれつき、そういう力が人よりも強かったらしい。それで俺は旅の方士に預けられたんだ。方術もそれで覚えた」 老師とは今は共にいないのか、と尋ねると、 「独り立ちしたんだよ」 と、戯れか本気なのか分からぬ答えが返ってきた。 それから刑哿は、本当はもっとはやく助け上げてやれればよかったと呟いた。 しかし傍には李洵がおり、他人の目の前で力を使うことを、ぎりぎりまでためらっていたのだと言う。 「師傅から言われたんだ。少なくとも18を過ぎるまで、決してこの力は人前で使ってはならないと」 「18?」 「歳数は単なる指標にすぎない。要は、力の使い方の善し悪しがちゃんと分かるようになるまでは、駄目だってことらしい。師傅が言うには、『世俗や煩悩を知ることで人を知り、世の道理を見通せるようになってから、初めて正しく力を使えるようになる』んだってさ。今はよく分からないけど、きっとこの言葉の意味が分かるようになった時が、その時なんだろうと思う」 子供らしいあどけなさを残す横顔に過ぎる大人びた表情。 それまでは人前で力を操って見せるのは危険であるという。その力を利用せんとする輩に狙われる恐れがあるからだ。そういった者たちを見極め、上手く躱す術が身に付く歳という意味で18を指標としたのだろう。 そして刑哿は、そこのあたりもよく理解していた。分かっていたからこそ、言いつけを破ることに躊躇していた。あそこにいたのが李洵であったから、あえて掟を破ったのだという。 できることなら幼子のことは大人達の手で助けてやって欲しかったんだけどね、と彼は苦笑した。 そこで李洵はなんとなく理解した。あの時の刑哿の表情。焦燥と苦悩が入り混じった顔。あれはきっと刑哿の中で鬩ぎ合う葛藤だったのだと。掟かそれとも人道かの迫られた選択。できることならどちらも破りたくないという思い。あの祈るような目や、懊悩に耐える表情は、そのためのものであったのだと。 それは、ようやく二桁を過ぎた歳の子供が思い悩むには、あまりにも過酷すぎる課題のように思えたけれど。 結局、刑哿の祈りは届かず、学友達は間に合わなかった。だから刑哿は掟を破り、幼子の救助に踏み切ったのだ。 だが逆にいえば、他の人々が来る前でよかったのかもしれない。全員で救出作業をしている途中で幼子が流されて、やむなくそこで力を使ったのであれば、否が応でも皆に知られることになったであろうから。 師の言い付け以上に、自分はあまりこの能力を知られたくない。あんたは信用できる、だからなるべくなら皆には黙っててくれと、少年は頼んだ。何故かと訊くと、 「人知を超えた力は人々にとっては所詮恐怖の対象にしかならない。それに、知られれば色々と面倒臭いことになるだろ。この力は、人に見せびらかすものじゃない。影でこっそりと、何かの役に立てるくらいで丁度いいのさ」 歳にそぐわ、諦観した表情と口調で、少し寂しげにそう笑うと、刑哿はいつものように飄然と去って行った。 李洵は下ろしていた瞼を上げ、回顧を断ち切る。静かな双眸で戯孟を見た。 「殿。無名は不思議な男です。風水を読み、また人を能く読む」 特殊能力。そう呼ぶべきもの。それは異能のことでもあったが、人の心の機微や世の中の事象を的確に見極める才気という意味でもあった。 「得れば一騎当千の力となりますが、手放せば野に虎を放つようなもの……後々大きな悔恨となって残ることでしょう」 言いながら、得られぬのならば、脅威となる前に消すべきなのだろうかとも考える。そんな可能性を冷静に視野に入れている自分に、李洵は胸内に吹き抜ける冷たさと虚しさを覚えた。世の人々は李洵のことを善性の塊と信奉するが、実際は清廉潔白ではない。政界に身を置く以上、必要とあらば無情な手段も取ってきた。掛け替えのない友に対してそうはしたくないと思う一方で、李洵にとってそれだけ無名は恐ろしい存在でもあった。才をこよなく愛する戯孟であれば、最悪の決断は下さぬと分かってはいても。 戯孟は瞑目した。李洵の言葉を己の中で反芻し、吟味し、ゆっくりと口を開く。 「お主の言わんとすることは分かる。だが……もう少し待て」 李洵はある種の思いを浮かべる瞳を静かに瞼に隠し、ただ御意、と答えた。 |